徳川家康と大国主

 不破郡関ヶ原町に自害峰(じがいみね)とよばれるところがある。小高い山の斜面にあり,その下に,黒血川と呼ばれるちょっと不気味で、いわくのありそうな名前の川が流れている。

 名前の由来は昔この付近で戦いがあり、そのときの両軍の兵士の血潮で川が黒く染まって見えたところからこの名がついたといわれている。こういうとおそらくほとんどの方は1600年に石田三成の西軍と徳川家康の東軍による死闘が行われた「関が原の合戦」を思い起こすであろう。
 ところが室町期の文学者で関白太政大臣でもあった一条兼良はこの川に関して次のような歌を詠んでいる。

白波は 岸の岩根に かかれども
  黒血の橋の 名こそかはらね

 この歌からわかるようにこの川は室町時代にはすでに黒血川と呼ばれていたのである。とするとこの川の由来は「関が原の合戦」ではなくそれ以前ということになる。

 この川の名前の由来は「関が原の合戦」を遡ること900年余り、672年に起こった近江朝廷と大海人皇子が戦った壬申の乱に由来する。出家先の吉野を脱出した大海人皇子の軍と近江朝廷軍が7月2日最初に戦ったのがこの関が原の地である。この戦いに勝利した大海人皇子は勢いを得て、その後も連戦連勝、一ヶ月もたたない7月23日には近江京を攻略しこの古代最大の戦いを制したのである。

 じつにこの関が原の地は古代、戦国時代と2度にわたって天下分け目の戦いが行われた稀有な土地なのである。

 徳川家康は関が原に到着すると真っ先に桃配山に布陣した。桃配山とはまた変わった名前だがこの由来はこれまた壬申の乱に由来していて、大海人皇子が兵士の労をねぎらうために桃を配ったといわれているところからこの名前が付けられたという。

   
                 桃配山徳川家康本陣跡

 ところが家康はこの山に布陣するがまもなく陣を移動し、最終的には陣場野に布陣した。ようするに家康は壬申の乱の大海人皇子にならってげんを担いだのである。おそらく家康は以前から天武天皇の崇拝者でもあったのだろう。徳川家康といえども天下分け目の大戦を前にして最後は神頼みだったのである。
 壬申の乱の故地に立った家康は天下取りに向けて大いに意気上がったに違いない。

 この戦いに勝利した家康はこの後天下人へと駆け上っていくのであるがその原点が天武天皇と同じ関が原であったことによって家康はより一層天武天皇に対する崇敬の念を深めていったことは創造に難くない。

 また家康は大国主が天武天皇のことであると知っていたのであろう。この天武天皇に対する崇拝は大国主神に対する強い信仰となって顕れる。

 関が原の戦いの後、出雲大社は遷宮を行った。その際豊臣秀頼は社殿を寄進したと伝えられている。秀頼が寄進した社殿は今は無いが秀頼の銘が入った銅製の鰐口が今に残されている。社殿の寄進は政権内において実権を握っていた家康の意向でもあったのであろう。

 1605年、家康は将軍職を秀忠に譲り自らは駿府(現在の静岡市)に築いた城に隠居した。

 この駿府城における徳川家康の動静を中心に記した書物に駿府記(筆者不明)がある。
 これによると駿府に隠居した家康は城内に新造した殿舎に日本大社(出雲大社のこと、中世において出雲大社にはスサノヲが祀られていたが『日本』大社とあるのでおそらくこのころには再び大国主が祀られていたものと思われる)の図を描くよう狩野派の絵師に命じたと記されている。

 家康にしてみれば出雲大社に自らが参拝したかったことであろうがまだ完全に政権を掌握したわけではなく、大坂にはまだ豊臣勢力が現存しており参拝を実現できるような状況ではなかった。そこで参拝に変えて館に大社の絵を描き、これを崇拝していたのであろう。

 人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし

 これは家康の遺訓とされる有名な言葉である。この「重き荷を背負いて遠き道を行く」は神話に登場する大国主の姿そのものである。散々苦労しながらも天下人にまで登りつめた家康は自らを幾多の苦難を乗り越え日本の国の礎を築いた天武天皇に重ね合わせていたのである。

 

 さらに家康は「自分の死後一周忌を過ぎてから下野日光に小さき堂を建て勧請し、関八州(日本のこと)の鎮守にせよ」と遺言したと伝わっている。家康があえて小さき堂といったのは大きな堂すなわち出雲大社に対する謙譲であろう。もっとも遺言どおり小さき堂というわけにはいかなかった。

 この『小さな堂』が日光東照宮であることは説明するまでもない。家康は死んだ後も日本国の守護神となった天武天皇のようでありたいと願っていたのである。

 江戸時代、徳川家康は神格化され、神君と呼ばれるようにまでなった。僧天海などの働きにより、朝廷より、「東照大権現」の名を賜り、東照宮に祭祀された。東照権現信仰の始まりである。この信仰では、徳川家康は薬師如来の仮の姿が日本に現れたものとし、神仏習合の形をとり神社神道形式で祭祀を行う。

 東照権現信仰は徳川家康は薬師如来の仮の姿が日本に現れたものとされている。薬師如来といえば天武天皇発願の奈良の薬師寺をだれもが思い起こすであろう。薬師如来と天武天皇は深い関係がある。東照権現信仰は家康の天武天皇に対する強い崇拝を抜きにして考えることはできないだろう。

 東照権現信仰の原点は関が原にあったのである。