菖蒲池古墳の被葬者


 高松塚古墳を語る時に必ず登場する言葉に「聖なるライン」というものがある。天武・持統合葬陵が藤原京の南北の中軸線上にピタリと乗り、このラインに沿って菖蒲池古墳、中尾山古墳、高松塚古墳、文武天皇陵、キトラ古墳と天武・持統合葬陵と合わせ六つの終末期古墳が並んでいることからこの名前がある。

「聖なるライン」という言葉自体はマスコミの造語だが、このことを最初に指摘したのは故岸俊男・京都大学名誉教授だった。岸氏の指摘をもとに、多くの学者、研究者がこれらの古墳に天武天皇の皇子や高官たちが葬られたと考えている。

 しかしこの「聖なるライン」というものはいつの段階で何を基準にできたものであろうか。おそらく天武・持統合葬陵に藤原京の南北の中軸線を合わせたと考えている方が多いのではないだろうか。

 ところがこの中軸線をまっすぐ北に伸ばしていくと意外なことに天智天皇陵に到達するのである。天智天皇陵は藤原京からは50kmも離れているにもかかわらず藤原京の南北の中軸線からわずかに40m西にずれているだけといわれている。ほとんど誤差は無いといってよく偶然に乗ったとは考えにくい。

 じつは「聖なるライン」にほぼ正確に乗っているのは北から天智天皇陵、藤原京、菖蒲池古墳、天武・持統合葬陵・文武天皇陵の五つなのである。中尾山古墳、高松塚古墳、キトラ古墳はすこし西にずれている。これだけきれいに並んでいると天智天皇陵、藤原京、菖蒲池古墳、天武・持統合葬陵・文武天皇陵が偶然に南北にきれいに並んだとは考えにくい。

 これらの五つが同時に作られたわけではないので何かが最初の基準になっているはずである。では何が「聖なるライン」の最初の基準になっているのであろうか。天武天皇の墓が天智天皇の墓を基準にしてその南に築かれたとはまず考えられないだろう。藤原京、天武・持統合葬陵が築かれたのは天智天皇の死後かなり経ってだから天智天皇陵が藤原京、天武・持統合葬陵を基準にして築かれたということはありえない。そうかといって天智天皇陵が偶然に聖なるライン上にあると考えるにしてもあまりにも正確に「聖なるライン」に乗っている。

 偶然でないとしたらいったい天智天皇陵は何を基準にして築かれたのであろうか。ここで重要になってくるのが四つの中では最も古いとされる菖蒲池古墳である。

    
                     菖蒲池古墳

    
                   菖蒲池古墳の石棺

 菖蒲池古墳は明日香村に数多く存在する古墳の中でも謎の多い古墳の一つである。菖蒲池古墳は藤原京の朱雀大路の南延長線上の小高い丘に築かれておりその丘は蘇我蝦夷、入鹿の邸宅が存在した甘樫の丘へと続いている。横穴式石室を持った古墳で、国の史跡にも指定されている。石室の天井石が露出するほど墳丘の変形が進んでいるためその形状ははっきりしないが、20m前後の方墳か円墳だと考えられている。石室は羨道部の大半が今も埋った状態であるため、全長は不明であるが以前に調査が行われ、その結果両袖式の横穴式石室であることがわかっている。玄室の大きさは、長さ6m、幅2.4m、高さ2.5mあり、二基の家形石棺が石室の中心軸にあわせて縦一列に安置されている。

 家形石棺は極めて個性的で、二基とも天井部分が棟飾り風に仕上げられ、本体部分にも柱状の装飾が施され、さらに石棺の内側に黒漆が塗られているなどこの当時の石棺としては他に例を見ない最高級の作りの石棺とされ、被葬者は相当な実力者だったことが伺われる。

 天智天皇はこの菖蒲池古墳を基準にして自らの墓の位置をその真北に定め、天武天皇は菖蒲池古墳を基準にして藤原京の中心を合わせ、菖蒲池古墳の真南に自らの墓の位置を定めたのではないだろうか。

 そうすると菖蒲池古墳の被葬者は天智天皇、天武天皇両天皇にとって極めて重要な人物の墓といってよいだろう。おそらく偉大な先祖の墓なのではないだろうか。偉大な先祖として真っ先に考えられるのは天智天皇にとっては祖父、天武天皇にとっては曽祖父の蘇我馬子であるが馬子の墓は牧野古墳と見て間違いないからこの墓は蘇我馬子の墓ではない。私は菖蒲池古墳は馬子の父、稲目の墓だと思う。

 すなわち蘇我蝦夷、入鹿を倒し蘇我稲目、馬子の後継者を自認していた天智天皇は菖蒲池古墳の真北に自らの墓を築き、その後壬申の乱を制した天武天皇は天智天皇の墓と菖蒲池古墳の間をさえぎるような形で国家の中心たる藤原京を築き菖蒲池古墳の南に自らの陵を定めたのだろう。こうすることによって天武天皇は自分が蘇我稲目の正当な後継者であることを誇示し、一方天智天皇の墓を藤原京のはるか後方へと追いやったのではないだろうか。

 この後、藤原京の太極殿の玉座に座った天皇は顔は天武天皇陵に正対し、尻を天智天皇陵に向けて座ることになった。天武天皇にしてみればしてやったりだが天智天皇にしてみればなんとも屈辱的なことであっただろう。16年後に天智天皇の第四皇女の元明天皇が即位するやさっさと平城京遷都をしてしまったのはあんがいこれが原因だったのかもしれない。

大野丘北塔について

 ところで「聖なるライン」上には誰も注目はしないがもう一つ重要な遺跡が存在している。それは橿原市和田町にある大野丘北塔跡である。塔跡は「聖なるライン」より少し西に位置するがこの塔跡は元々の塔の西半分といわれているので塔の中心はこの遺跡の中心より少し東側にあったと思われる。

    
                    大野丘北塔跡

 日本書紀は敏達天皇の14年(585)、蘇我馬子が大野丘の北に塔を建てたと記す。建てた後、法会を行ったとあるのでこの塔は仏塔と考えてよいが通常はどこそこになにを建てたと記すのでこの大野丘の北という大野丘を基点にその位置を述べるこの書き方は異例である。またこの時代仏塔は金堂と対になって建てられるのが一般的だから塔だけを建てたというのもずいぶんと変わっている。

 日本書紀に塔の位置についてこのような書き方がされ、また塔だけが建てられたのは馬子が建てた塔は大野丘を意識して建てられた塔だったからだろう。すなわちこの塔はその南に大野丘と呼ばれる丘があり、そこに何かがあってそれに対応する形で建てられた塔だったのではないだろうか。

 大野丘北塔跡の南にある丘に存在するもの、それが菖蒲池古墳なのである。大野丘の北に建てられたこの塔は馬子が菖蒲池古墳の被葬者を供養するために建てた仏塔だったのではないだろうか。

 この古墳に収められたが石棺が最高級の石棺であること、甘樫丘の近くにあることを考え合わせればこの古墳の被葬者は容易に推定することができる。それは馬子の父、蘇我稲目である。