地主神社と坂上田村麻呂


 清水寺の清水の舞台を出てすぐ左に曲がると地主神社という神社がある。明治維新、正確に言えば神仏分離令までは清水寺の鎮守社、すなわち守護神として祀られていた神社である。清水寺のすぐ隣という立地条件の良さも相まって、若い女性や修学旅行生を中心にいつも多くの参拝者で賑わっている。

 
  清水寺の舞台 その後ろに地主神社が見える


 
  地主神社と鳥居


 平安時代には嵯峨天皇、円融天皇、白河天皇の行幸を賜り、江戸時代になってからは徳川家光が社殿(本殿、拝殿、総門は国の重要文化財)を寄進したというから清水寺の鎮守社として祀られていたとはいえ朝野から篤く崇拝されてきた神社である。

 この神社、清水寺の鎮守社とはいうものの清水の舞台の真後ろ、それも高い位置に立地し、しかも社殿は清水の舞台に向いているから、清水の舞台で本尊の観音菩薩を拝するとその真後ろの地主神社をも拝するというような形になっている。

 
  地主神社社殿

 地主神社の社殿は徳川家光が寄進したというだけあって実に立派な社殿だからまるで清水の舞台が地主神社の拝殿のように見えてしまう。参拝順序も今では清水寺に参拝しその後地主神社に参拝するというルートになっているが地主神社の宮司に伺ったところでは昔は逆で地主神社に参拝し、その後清水寺に参拝するというのが正しい参拝順序だったそうである。神社の正門も今は閉鎖されていて通ることができないが現在参拝者が通る石段とは反対側にある。

 普通鎮守社といえば寺の門前にあるか、あるいは境内にあっても本堂の脇にあって寺の本堂よりも控えめに祀られているのが普通だからこの地主神社はずいぶん異例な祀られ方がされているといってよい。.

 この神社の主祭神は大国主である。これは珍しい。古事記の神話によれば大国主は葦原中国を支配する王の名であり、大己貴はその前名であるから同神とは言うものの大国主は大己貴よりも格上の神格といってよい。大国主を祀る神社は数多いが大国主の名で祀られることは少なくオオナムチ(大己貴、大那牟遅など)の名で祀られていることがほとんどである。

 大神神社、気多大社、日吉大社といった著名な神社でも祀られているのは大己貴である。大国主の名で祀っているのは、有名な神社としては言わずと知れた出雲大社、出雲大社の元宮と称し「元出雲」の伝承が伝わる京都府亀岡市の出雲大神宮ぐらいであろう。
 
 その名をよく知られた神様といえ「大国主」という神名は神社にとってはかなり特別な名称なのである。もちろん他にも大国主の名で祀っている神社もないわけではないが大国主の名の方が通りが良いので大己貴だったのを同神ということで神社が勝手に大国主に変えたということもありうるだろう。
 ただこの地主神社は後に変えたのではなく、当初から大国主として祀っていたと思われる。というのも清水寺の創建に坂上田村麻呂(758−811)が深く関わっているからである。

 
  坂上田村麻呂

 坂上田村麻呂は征夷大将軍に任命され蝦夷征服の功で名高いが、坂上氏は阿智使主を祖とする東漢氏の一族といわれている。東漢氏というのは蘇我氏の直接の配下として飛鳥時代に活躍した渡来系の氏族の一つで武略に秀でた氏族といわれている。蘇我氏はこの東漢氏の武力を背景にして政治力を行使していたのである。すなわち蘇我宗本家と東漢氏は特別な君臣関係にあったのである。

 征夷大将軍にまで任命された坂上田村麻呂はこの時代の東漢氏の出世頭だったといってもよい。その東漢氏出身の坂上田村麻呂にしてみれば蘇我宗本家の天武天皇は主筋に当たる偉大な天皇、まさに雲の上の存在であったろう。坂上田村麻呂が天武天皇の大変な崇拝者であったことは想像に難くない。 清水寺の本尊の十一面千手観音菩薩より大国主を下に祀る訳にはいかなかったであろう。地主神社が極めて丁重な祀られ方をしているのも分かるというものである。

 彼は天武天皇に対する強い崇敬の気持を表すために清水寺の守護神として全国的に広く祀られているオオナムチではなく「特別な名称」の大国主を祀ることを所望したのではないだろうか。そして彼の長年の功績によってそれが認められたのではないだろうか。

 もっともこれらのことを裏付けるような史料は私の知る限り存在しないので、あくまでも私の想像でしかなくもっと地主神社に関する情報がほしいところである。もしこの神社に関する情報をお持ちの方がいらっしゃればぜひお教え願いたい。