第一章 大国主神と出雲大社


 大国主神について

 日本には「八百万の神々」という言葉があるほど数多くの神が存在するが、大国主神はその中でも須佐之男命(スサノオ)や天照大御神(アマテラス)と並んで最も有名な神で、祀られている神社が出雲大社という壮大な社殿であることと相まって、その存在感は圧倒的である。また、存在感が大きいだけではなく、我々にこれほど身近な神もないだろう。

 出雲の国作りの神として広く知られているが、縁結びの神としても有名だから若い人にも人気があり、他の神は知らなくても大国主神は知っているという方も多いのではないだろうか。なかにはお世話になった読者もおられると思う。

 出雲を舞台に大国主神やスサノオが活躍する神話は『古事記』、『日本書紀』、『風土記』に数多く残されている。いわゆる出雲神話と呼ばれる一群の神話である。
 なかでもスサノオのヤマタノオロチの退治や大国主神が大活躍する因幡の素兎の話は大変有名な神話で、年輩の方なら一度は読まれたことがあるだろう。 

 また大国主神は日本全国の神社に広く祀られており、縁結び、病気平癒、五穀豊穣、商売繁盛、殖産興業、あるいは必勝祈願と御利益も万能で、人気があるのも当然だろう。
 さらに大国主神の「大国」がダイコクとも読めることから、同じ発音の大黒天(大黒様)とも習合され、民間信仰に広く浸透している。もっとも本来の大黒天はインドのヒンズー教の神マハーカーラといわれ、その名の通り黒い姿で、憤怒の表情のいかにも恐ろしそうな神で、我々の持つ大黒天のイメージとはずいぶん異なっている。

 日本人が持つ大黒天のあのふくよかなイメージは日本神話に出てくる大国主神そのものである。
 頭に頭巾を被り、背中に大きな袋を背負い、右手に打ち出の小槌をもち、にこやかな表情で米俵の上にちょこんと立った例のあの神像が福の神として家の神棚に祀られているという方も多いのではないだろうか。

 しかし、この大国主神、調べれば調べるほど謎の多い神である。
 まずその名前だが実に多くの別名がある。
 『古事記』では大国主神以外に、大穴牟遅神、葦原色許男、八千矛神、宇都志国玉神と四つの名を持っている。

 また『日本書紀』の一書(第六)には

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 大国主神はまたの名を大物主神、または国作大己貴命という。または葦原醜男ともいう。または八千矛神ともいう。または大国玉神ともいう。または顕国玉神ともいう。
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 とあり、大国主神以外に六つの名が記されている。
 また『出雲国風土記』には、天の下造らしし大神、天の下造らしし大神大穴持命とも表記され、天下を造った神として認識されている。
 他の神だと別名はないか、あるいはあってもせいぜい一つか二つだろう。なぜ大国主神だけこのような多くの別名があるのであろうか。

 しかも、この神はずいぶん昔から全国的に広く祀られている。
 例えば、宮崎県児湯郡都農町に日向の国の一之宮として知られる都農神社が鎮座しているがこの神社にも大己貴命(大国主神)が祀られている。

 神社の伝承では神武天皇御東遷の途中、此の地において、国土平安、海上平穏、武運長久を祈念の為、鎮祭されたのを当社の創祀としているが、仁明天皇承和四年(八三七)に宮社に列したとの記録が残されているので、九世紀の初期には既に九州の南端近くに大国主神が祀られていたことになる。

 古代日本の基本法令である「養老律令」の施行細則を集大成した法典に『延喜式』がある。
 延喜五年(九〇五)に藤原時平たちによって編纂が開始され延長五年(九二七)に奏進されたことから『延喜式』と称され、ほぼ完全な形で今日に伝えられ、内容が詳細なため古代史研究に不可欠な文献とされているが、この中に平安時代初期の全国の主要な神社の名を記した『延喜式神名帳』がある。

 ときどき神社名が書かれた石柱に「式内社」と記された神社を見かけることがあるが、それはこの『延喜式神名帳』に名が載っている神社のことである。

 この『延喜式神名帳』を見ても既にこのころには北海道を除くほぼ日本全国に大国主神が祀られていたことがわかる。本来出雲の神であるはずの大国主神を誰がいつ、何のために日本全国に祀ったのだろうか。
 また、日本全国に祀られているだけでなく、新田開発をした、温泉を開いたというような大国主神にまつわる様々な伝承も各地に残されている。

 八世紀初めに編纂された『風土記』などにも大国主神の話が記載されているので、 大国主神が「日本中で大活躍」していたのはずいぶん昔のこととなる。
 大国主神とはいったい何者なのであろうか。また大国主神の活躍する出雲神話とはいったい何なのであろうか。

 このことについては従来から様々な説があり未だに意見の一致にはほど遠い状況にある。
 ひとつには出雲に大国主神あるいはそのモデルとなるような人物や王権が実在していたと考える単純素朴な説だ。
 さすがにこの説を唱える歴史学者や考古学者は多くはないが一般の人々には広く信じられているし、この説を採る在野の研究者、歴史作家も少なくはない。

 しかも近年出雲地方において大量の銅剣(神庭荒神谷遺跡)、銅鐸(加茂岩倉遺跡)が発掘され、また出雲大社において巨大な神殿の存在を示す遺構が発見されたので、この説を唱える研究者が増えてきているのは事実である。
 しかし、出雲地方に大和に対抗するような大きな王権が存在したことを示す墳墓や宮殿などの建物の遺構は何ら発見されていない。

 出雲地方最大の古墳も松江市山代町にある山代二子塚古墳で、その全長は九十四メートルでしかなく、考古学者によればこれは出雲の周辺地域とあまり変わりがないとされている。
 出雲地方に神話の大きさに見合うだけの強大な王権が存在したとは考えられないというのが多くの考古学者の一致した見解となっている。

 あるいは、出雲神話を含め『記・紀』(『古事記』、『日本書紀』)の神話は中央、すなわち大和朝廷の官僚による机上の創作と考える津田左右吉氏に代表される説がある。
 すなわち神話は天皇による国家統治の由来を語り、それを正当化するために書かれた政治的なもので全くの架空の物語という説である。

 氏の説は従来の歴史観を根底から覆す画期的な説であったが、戦前の天皇が絶対視された皇国史観一辺倒の時代にはこの説は皇室を冒涜するものとして政府の逆鱗に触れてしまった。津田左右吉氏の著書は発禁処分となり、氏自身も出版法違反で起訴されるなど散々な目に遭ってしまった。

 自由にものが言えるようになった戦後にはこの説は多くの歴史学者に支持されるようになり、今ではほぼ定説となっている。しかしこの説ではなぜ出雲神話が『記・紀』の神話全体の三分の一を越える大きな分量で書かれているのか説明することができない。

 天皇による国家統治の由来を語るのに出雲の神が活躍する話を延々と語る必要はないのだ。また、あれだけの話を全くの空想で書けるとも思われない。
 神話といえども何らかの歴史的事実が反映されているのではないかという説にはそれなりに説得力もあるのである。

 あるいは出雲に大国主神を崇拝する信仰集団が存在し、その集団が中央に大きな影響を及ぼしたため、出雲神話が中央に取り入れられたという説もある。
 この説だと『記・紀』の神話に出雲神話が大きく取り上げられている理由を説明できるが、そのような信仰集団の存在を証明するものはなく、今のところ全くの想像でしかない。

 大国主神は誰かが考え出した全く架空の人物だろうか。それとも、実在の人物だったのだろうか。もし実在の人物ならどのような人物だったのであろうか。
 まさに大国主神の謎は日本古代史最大の謎と言ってもよく、大国主神の正体は何なのかその謎を解かない限り日本古代史の謎は解けないと言っても過言ではない。

 本論ではまずこの大国主神の正体を探ることから古代史解明のきっかけとしたい。


 出雲大社について

 大国主神は様々な名前で日本各地の神社に祀られているが、大国主神が祀られている神社といえば出雲大社の名を挙げないわけにはいかないだろう。
 次にこの出雲大社について少し考察してみたい。

      
                    出雲大社 島根県出雲市

 出雲大社は島根半島の西の端、島根県出雲市大社町杵築に鎮座する、伊勢神宮と並んで日本で最も著名な神社である。
 出雲大社は一般には「いずもたいしゃ」と読まれているが「いずもおおやしろ」が正式な読み方である。杵築大社ともいい、古くは天日隅宮、出雲大神宮(『日本書紀』)、所造天下大神宮(出雲風土記)とも称されていた。

 ちなみに神社の称号には、大神宮、神宮、宮、大社、神社、社などがあるが一般に宮と付くのは皇室の祖先、天皇、皇族を祀り、社と付くものにはその他の神が祀られている。
 いまでは大社と名の付く神社は日吉大社、住吉大社など少なくはないが、本来は大社といえば出雲大社のことだけを指していた。今でも神社関係者の間では単に「神宮」といえば伊勢神宮のことを指すように「大社」といえば出雲大社のことをいう。

 前出の『延喜式神名帳』に大社と書かれているのは杵築大社だけで、このことだけでも出雲大社が古来より特別な神社であったことがわかる。出雲大社の境内は四万七千余坪と広大で、摂社、末社は二十三社を数える。
 当然のことながら参拝者も多く、毎年全国から毎年二百万人以上の参拝者が訪れていて、出雲市にとっては観光の中心となっている。まさにドル箱である。というより打ち出の小槌といったところだろうか。

 この出雲大社も大国主神に劣らぬ多くの謎に満ちあふれた神社である。


 巨大神殿の謎

 出雲大社の建築様式は切妻妻入り(妻側が正面入口)の大社造で、伊勢神宮の切妻平入り(庇のある平側が正面入口)の神明造とともに我が国の神社建築で最も古い形式とされている。
 神社の建築様式にはこれ以外にも流造、住吉造、八幡造など様々の様式があるが大社造が見られるのは出雲地方とその近辺に限られている。

 出雲を旅すると、谷間の小さな集落に熊野大社や佐太神社といった大社造の立派な社殿を持った神社が鎮座しているのはちょっと神秘的といってもいいような光景で、これを見るといかにも出雲は神の国といった趣がある。

 出雲大社の本殿の構造は、中心に建物中央を貫き全体を支える最も重要な柱である「心の御柱」がある。この柱がいわゆる「ダイコク柱」だ。「一家の大黒柱」の大黒柱はここから来ている。
 心の御柱の前後に宇豆柱と呼ばれる心の御柱より少し細い柱があり、建物の側面には、左右それぞれ3本ずつの側柱がある。これら計九本の柱によって建物が支えられている。

      
                     出雲大社平面図

 そして本殿の最も奥に神座が設けられているのだが、おもしろいのは神座のその向けられた方向である。
 本殿は正面南向きに建てられているが、神座は西向きに設けられている。参拝者からみるとちょうどそっぽを向いたような形となっている。

 なぜ本殿は南向きなのに神座は西向きなのかについては古来より様々な説があり、それぞれが論者の宗教観、古代史観がうかがえるようで興味深いものがあるのでいくつか紹介しよう。

 一、 本殿の後にスサノオを祀る素鵞社があるので、尻を向けないように西向きにした。
 二、 出雲大社の西の方が開けて景色がよいので西向きにした。
 三、 古代の住宅の間取りが本殿の間取りに反映されている。
 四、 国譲りを強いられた大国主の怨念を封ずるために西向きにした。
 五、 大陸の脅威から国を守るために西を向いている。
 六、 霊魂の故郷としての常世の国に相対している。

 ちなみに最後の説は第八十二代の出雲国造の千家尊統氏がその著書『出雲大社』(学生社)で述べている説である。
 神座の前には客座があり次の五柱の神が、これは南向きに祀られている。

 一、 天之御中主神
 二、 高御産巣日神
 三、 神産巣日神
 四、 宇麻志阿斯訶備比古遅神
 五、 天之常立神

 これらの五柱の神は別天つ神と呼ばれる『古事記』の最初に名の現れる神で天つ神のなかでも特別な神々とされ、なかでも天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三神は造化三神と呼ばれ、天地万物を創造した神とされ神道では特に重要視されている。

 また本殿に向かって左側には多紀理姫を祀る筑紫社、右側に須勢理比売を祀る御向社、さらにその右側に{討虫}貝比売と蛤貝比売を祀る天前社がある。

        
                             出雲大社境内図

 面白いことにこの三社の間には序列があって高い方から筑紫社、御向社、天前社の順だそうだ。社殿の基礎や建物も筑紫社は他の二社より丁寧に作られている。
 『古事記』の神話では須勢理比売は大国主神の大后(正妻)となっているので多紀理姫を祀る筑紫社のほうが上位に祀られているのは不思議なこととされている。

 このように出雲大社に関する謎は多いがなんといっても最大の謎は社殿のその巨大さである。とにかくでかい。
 現在の本殿は延享元年(一七四四)に建てられたもので、その高さは地面から屋根の上に突き出た千木の先端まで八丈(約二四メートル)もあり、我が国の神社建築の中で最大の高さと大きさを誇っている。この千木というのは社殿屋根の両端の材で交差し高く突き出ている部分のことである。

 伊勢神宮の社殿の高さが約十二メートル、その他の著名な神社の社殿も十メートル前後だから出雲大社の社殿の高さは抜きんでている。
 しかしこの程度で驚いてはいけない。
 社伝によれば社殿の高さは、中世には現社殿の高さの二倍、十六丈(約四八メートル)もあったとされ、さらに古代においては、なんと四倍の三十二丈(九六メートル)あるいは三十六丈もあったというのだ。

 高さ九六メートルの建造物といえば現在でもそう小さい建造物ではない。現在の建物でいえば二五階から三十階建てぐらいのビルディングに相当するだろう。そのような巨大な社殿が千年以上も昔、それも木造で建てられていたというのである。まるで冗談としか思えないような話である。
 三十二丈はともかく、十六丈なら建築可能とみて建築史家の福山敏男氏が作成した十六丈本殿の復元図は有名で様々な文献に引用されている。

  
      出雲大社神殿復元図(福山敏男氏が作成した十六丈本殿の復元図)

 余談だが出雲市では出雲大社に遠慮して建物の高さはこの十六丈(約四八メートル)ぐらいまでとされていて、出雲市で一番高い建造物の木造の出雲ドーム(一九九二年完成)も高さは四八、九メートルとなっている。


 雲太、和二、京三

 平安時代の中頃、公家の子弟教育のために書かれた『口遊』という教育書がある。子供の教育書とはいうものの、かなり高度な内容となっていて興味がある方は一度読んでみられるとよい。舌を巻くはずだ。日本最古の「九九」が載っていることでも有名な書物である。

 この書の中には様々な項目があるのだが、その中に「橋」「大仏」「建物」の大きさの順位を第一位から第三位まで記した項目がある。

 橋は「山太、近二、宇三」とあり、京都の山崎の橋が第一で,つぎに近江の勢多橋が第二、第三が京都の宇治橋だと記されている。
 大仏は「和太、河二、近三」とあり、大和の東大寺の大仏が第一で,つぎに河内の知識寺の大仏が第二、第三が近江の関寺の大仏だと記されている。
 そして建物の項として「雲太、和二、京三」と記されている。

 雲太(出雲太郎)は出雲大社、和二(大和二郎)は東大寺大仏殿、京三(京三郎)は平安京の大極殿のことをさすのだが、太郎というのは一番という意味だから出雲大社が東大寺大仏殿や京都御所の大極殿よりも大きいと書かれているのである。

 この大きいというのは、出雲大社は東大寺大仏殿や平安京の大極殿より高いことと一般には解釈されているが、高さだけなら東大寺の七重の塔は創建当時八十メートル以上あったともいわれているから高さの比較ではないだろう。
 当時の東大寺大仏殿は現在の大仏殿より一回り大きかったといわれているから大変な大きさの建造物だったと思われる。

   
            古代出雲大社の模型 展示館「雲太」

 建久元年(一一九〇)春に出雲大社を訪れた、『新古今和歌集』や『明月記』で有名な藤原定家の従兄弟の寂蓮法師(藤原定長)は鎌倉時代に編纂された私撰和歌集「夫木抄」に次のような感想(歌)を残している。

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 出雲の大社に詣でて見侍りければ、天雲にたなびく山の半ばまで、片削ぎ(千木の先端)の見えけるなん、この世の事とも覚えざりける。
 やはらくる光や空にみちぬらん雲にわけ入る ちきのかたそぎ
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 社殿背後にある山の中ほどの高さに、千木の先端が見えたとその高さに驚嘆している。三十代半ばで出家し、その後諸国行脚をした寂蓮法師は東大寺の大仏殿は当然見たことがあったと思われるが、その法師が出雲大社の本殿を見てこの世のものとも思えないと驚いているのである。


 金輪造営図と巨大な柱の出現

 巨大な社殿の存在を示すものとして、出雲国造家には「金輪造営図」という平安朝に書かれた本殿の指図(見取り図)が残っている。

   
           金輪造営図

 それによると本殿は四丈(一二メートル)四方、九本の柱はすべて三本の柱材を鉄の輪でまとめて一本にしており、金輪造営図という名はここから来ているわけだがその柱の太さは側柱で直径が一丈(三メートル)もあったとされている。

 側柱で一丈(三メートル)なのだから宇豆柱、心の御柱はさらに太かったと考えられている。東大寺の大仏殿は最も柱の太かった鎌倉時代でもその太さは一・五メートル程度だったというから、出雲大社の社殿の柱がいかに太いかわかろうというものである。
 さらに注目すべきは本殿の前の引橋(階段)の長さで、その長さはなんと一町(一〇九メートル)と記入されている。

 この図通りだとすると、古代の出雲大社では社殿にたどりつくまでに階段を延々と百メートル以上も登っていかなければならなかったことになる。このような長い階段を、毎日お供え物をもって上り下りしなければならない神官もさぞたいへんだったことだろう。今ならエレベーターかエスカレーターが欲しいぐらいだ。腰痛だ神経痛だなどといっていたのでは昔の出雲大社の神官はとてもじゃないが務まらない。

 とにかく大変な高さの社殿が建っていたらしいのである。そのためであろうか、社殿が度々倒壊したという他の神社では例を見ないような記録が残されている。あまりに高すぎてバランスを崩したことが原因だといわれている。

 「出雲大社年表」によれば
 長元四年(一〇三一)本殿顛倒(左経記)
 康平四年(一〇六一)神殿顛倒(百錬抄)
 天仁二年(一一〇九)神殿顛倒(千家古文書、北島家文書)
 永治元年(一一四一)神殿顛倒(千家古文書、北島家文書)
 承安二年(一一七二)神殿顛倒(千家古文書)
 嘉禎元年(一二三五)神殿顛倒(千家古文書)

 とこのようにおよそ三〇年ごとに倒壊している。三〇年ごとに倒壊しているということは三〇年ごとに建てられていたということでもある。当然その費用は巨額だったはずで、とても出雲一国で賄い切れたとは思えない。

 このように多くの様々な古記録には出雲大社が巨大だったことが記されているのだが、最近まで専門家の間ですら三二丈はおろか一六丈の巨大社殿すらその存在は疑問視されていた。ほんとうに冗談だと思っていたのである。
 なぜなら、だれが、いつ、何のためにそのような巨大な社殿が建てられたのか明確な説明を誰もすることができないからである。また、巨大な社殿の存在を証明するものは古い文献ばかりで物的な証拠が皆無だったということもある。

 ところが近年、その巨大な社殿の実在を証明する、昔の本殿(鎌倉時代)の柱が地中から現れ関係者を驚かせた。
 平成十二年(二〇〇〇)四月五日、出雲大社の地下祭礼準備室建設に伴う発掘調査中に、三本の巨木の丸太を束ねた、宇豆柱の根元部分が出土したのだ。その後九本の柱の中央に位置する心の御柱と、南東にある側柱の根元部分も相次いで出土した。

 心の御柱に使われていた丸太一本の最大径は上層部で一・二メートル、側柱は〇・八五メートルもあり、地中部分を想定すると丸太三本を束ねた心の御柱の直径は最大三・二メートルにもなり、それまで疑問視されていた金輪造営図などの信憑性がこの発見で大きく高まったのである。

 この発見によって古代には現在よりさらに巨大な社殿が存在していたことは確かなこととなった。
 しかし、巨大社殿が実在したとなるとなぜそのような巨大な神殿が建築される必要があったのかその謎はさらにふくらむばかりで、関係者や研究者たちは突然出現した巨大な柱を前に首をかしげるばかりなのである。

 いったいなぜこのような巨大な社殿が建てられたのであろうか。
 出雲の神の祟りを鎮めるために建てたという怨霊説から、船の航海のために建てたという灯台説まで、古来より多くの説が出されてはいるが、未だにその定説はない。


 出雲国造と『出雲国造神賀詞』

 出雲大社の宮司は国造家として知られる古くからの名家で、千家氏と北島氏の二氏がある。「国造」は「くにのみやつこ」と読むのが普通だが現在、出雲では「こくそう」と読み慣わしている。
 「国造」とは律令政治以前の、古代の地域を支配する地方官のことで律令政治成立の過程において廃止され、中央から派遣される国司に取って代わられたのだが、出雲にはこの制度が残され現在に続いている。
 当然のことだが、今のわが国の制度に国造の制度はないので、出雲の伝統として続いていることになる。

 島根県では出雲国造の権威はたいへんなもので、そもそも「国造」などと呼び捨てにしては叱られる。「国造さま」と呼ばなくてはいけない。
 元日の新聞には島根県知事の年頭の挨拶とともに、出雲国造の挨拶が掲載されるし、島根県で重要な公式行事が開催されるときには島根県知事が列席するだけでは体裁が整なわず、出雲国造も列席しないと形にならないのだそうだ。

 出雲地方において国造の制が律令政治成立以降も維持されてきたのは、出雲大社の祭祀を司る出雲国造の宗教的権威に対する朝廷の敬意の現れと解釈してもよい。
 出雲国造の宗教的権威は,『出雲国造神賀詞』の奏上ということによく示されている。 
 『出雲国造神賀詞』奏上は出雲大社の宮司である出雲国造が新任(世継ぎ)にさいして行う奈良時代から平安時代初期の宮廷行事で、その行事の中で出雲国造が天皇に奏上する寿詞が『出雲国造神賀詞』である。

 奏上は前後二回行われ、出雲大社に奉祀する出雲国造は上京して新国造の任命を受けると,いったん帰国して一年間の厳重な潔斎ののち,再び上京して天皇にたいして神賀詞と玉、剣、鏡、布、白馬、鵠(白鳥)など数々の神宝を奉る。

 こののち出雲にて再度一年の潔斎を重ね,また同様に上京して神賀詞と数々の神宝を奉る。
 神賀詞奏上の日は宮廷では全ての仕事が休止され、天皇が大極殿の南庭に出て、出雲国造からこの『出雲国造神賀詞』を受ける。

 その時には全ての官僚達も並ぶというから『出雲国造神賀詞』奏上はまことにおおがかりな丁寧な儀式で、この儀式が朝廷にとって大変重要な儀式であったことがわかる。
 このような儀式は出雲国造以外ではまったく例の無い儀式だからいかに天皇家が出雲大社を特別視していたかがわかる。

 『出雲国造神賀詞』は全文が『延喜式』巻八に掲載されているのでその内容は詳しく知ることが出来る。書き下し文のままで少しわかりにくいかもしれないが、その内容は以下の通りである。

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『出雲国造神賀詞』

 八十日日はあれども、今日の生日の足日に、出雲の国の国の造[姓名]、恐み恐みも申したまはく、「挂けまくも恐き明つ御神と、大八島国知ろしめす天皇命の大御世を、手長の大御世と斎ふとして、出雲の国の青垣山の内に、下つ石ねに宮柱太知り立て、高天の原に千木高知ります、いざなきの日まな子、かぶろき熊野の大神、櫛御気野命、国作りましし大穴持命二柱の神を始めて、百八十六社に坐す皇神等を、[某甲]が弱肩に太襷取り挂けて、いつ幣の緒結び、天のみかび冠りて、いづの真屋に麁草をいづの席と苅り敷きて、いつへ黒益し、天の甕わに斎み篭りて、しづ宮に忌ひ静め仕へまつりて、朝日の豊栄登りに、斎ひの返事の神賀の吉詞、奏したまはく」と奏す。

 「高天の神王高御魂の命の、皇御孫の命に天の下大八島国を事避さしまつりし時に、出雲の臣等が遠つ祖天の穂比の命を、国体見に遣はしし時に、天の八重雲を押し別けて、天翔り国翔りて、天の下を見廻りて返事申したまはく、『豊葦原の水穂の国は、昼は五月蝿なす水沸き、夜は火瓮なす光く神あり、石ね・木立・青水沫も事問ひて荒ぶる国なり。しかれども鎮め平けて、皇御孫の命に安国と平らけく知ろしまさしめむ』と申して、己命の児天の夷鳥の命に布都怒志の命を副へて、天降し遣はして、荒ぶる神等を撥ひ平け、国作らしし大神をも媚び鎮めて、大八島国の現つ事・顕し事事避さしめき。すなはち大穴持の命の申したまはく、『皇御孫の命の鎮まりまさむ大倭の国』と申して、己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主くしみかたまの命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ、己命の御子あぢすき高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主の命の御魂をうなてに坐せ、かやなるみの命の御魂を飛鳥の神奈備坐せて、皇孫の命の近き守り神と貢り置きて、八百丹杵築の宮に静まりましき。ここに親神ろき・神ろみの命の宣りたまはく、『汝天の穂比の命は、天皇命の手長の大御世を、堅磐に常磐に斎ひまつり、茂しの御世に幸はへまつれ』と仰せたまひし次のまにまに、供斎仕へまつりて、朝日の豊栄登りに、神の礼じろ・臣の礼じろと、御寿の神宝献らく」と奏す。

 「白玉の大白髪まし、赤玉の御赤らびまし、青玉の水の江の玉の行相に、明つ御神と大八島国知ろしめす天皇命の手長の大御世を、御横刀広らにうち堅め、白御馬の前足の爪・後足の爪踏み立つる事は、大宮の内外の御門の柱を、上つ石ねに踏み堅め、下つ石ねに踏み凝らし、振り立つる耳のいや高に、天の下を知ろしめさむ事の志のため、白鵠の生御調の玩物と、倭文の大御心もたしに、彼方の古川岸、此方の古川岸に生ひ立つ若水沼間の、いや若えに御若えまし、すすぎ振るをどみの水の、いやをちに御をちまし、まそひの大御鏡の面をおしはるかして見そなはす事の如く、明つ御神の大八島国を、天地月日と共に、安らけく平らけく知ろしめさむ事の志のためと、御寿の神宝をZげ持ちて、神の礼じろ・臣の礼じろと、恐み恐みも、天つ次の神賀の吉詞白したまはく」と奏す。
 *岩波書店 日本古典文学大系『古事記 祝詞』〔武田祐吉、校注〕*
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 神話に基づく出雲大社と天皇家の関係を語り、天皇の代を寿ぐという内容だが、この中で「かぶろき熊野の大神、櫛御気野命、国作りましし大穴持命二柱の神」とあることに注意していただきたい。

 「かぶろき」というのは「かむろき」のことで、漢字で書けば「神祖」となる。これは天皇の祖先神という意味である。熊野の大神、櫛御気野命というのはスサノオのことである。また国作りましし大穴持命は大国主神のことを指している。
 出雲国造は天皇の前でスサノオのことを天皇の尊い祖先神であると言っているのである。

 しかし我々の常識では天皇の祖先神といえば伊勢神宮に祀られている天照大御神のはずである。なぜ、出雲国造は天皇の前で出雲神話を語り、その中に登場するスサノオを天皇の祖先神といい、大穴持命を国作りの神と称えているのであろうか。
 ここには我々が思い浮かべるスサノオとは全く別の姿がある。スサノオの正体は一体何者なのだろうか。

 神賀詞奏上が初めて国史に見えるのは、元正天皇の霊亀二年(七一六)、出雲臣果安のとき、残っている最後の記録は仁明天皇の天長十年(八三三)、出雲臣豊持のときである。『出雲国造神賀詞』の全文が九二七年成立の『延喜式』に載っていることから、神賀詞奏上は天長十年以降も続けられていたと思われるがいつ廃絶になったのかは定かではない。


 途中で切り替わっていた出雲大社の祭神

 また出雲大社に関しての驚くべき事実はこれで終わらない。さらにびっくりするような事実がある。

 出雲大社の祭神が大国主神であるというのは誰もが知っている。そして昔から出雲大社には大国主神が祀られてきたと信じている。ところが実は大国主神が祀られるようになったのは江戸時代からだというのだ。それまでは本殿に祀られていたのはスサノオだというのである。

 大社の拝殿前に寛文六年(一六六六)に毛利綱広によって寄進された銅の鳥居(重要文化財)があるがそこには次のような文章が刻み込まれている。

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 それ扶桑開闢してよりこのかた、陰陽両神を尊信して伊弉諾伊弉冉尊といふ。此の神三神を生む。一を日神といい、二を月神といい、三を素盞嗚というなり。日神とは地神五代の祖天照大神これなり。月神とは月読尊これなり。素盞嗚尊は雲陽の大社の神なり、云々
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 雲陽の大社というのは出雲大社のことを指す。このことより出雲大社の主祭神が江戸時代初期には素盞嗚尊(スサノオ)であったことがわかる。

    
                  銅鳥居  出雲大社

 この鳥居の銘文だけではなく、国造家に伝わる中世の様々な古文書が出雲大社の祭神をスサノオとしている。
 国譲りの代償として大国主神を祀るために創建されたのが神話に記された出雲大社の起源だから最初に祀られていたのは大国主神であったはず。それが中世においてスサノオが祀られていたということは、途中で大国主からスサノオに切り替わったことになる。これはいったいどうしたことであろうか。

 切り替わった理由、時期についての明確な記録はないがその時期についてはある程度の推測は可能である。
 元々出雲国造は出雲東部の意宇郡に居住し、スサノオを祭神とする熊野大社を祀っていた。
 八世紀から十世紀にかけての法令を編纂した『類聚三代格』の郡司の条に見える太政官符の中に

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 慶雲三年(七〇六)出雲国造は意宇郡大領を兼帯して、延暦十七年(七九八)までにおよぶ。
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 とある。大領とは地方を支配した長官のことで、出雲国造は慶雲三年に意宇郡大領を兼任したが、延暦十七年にその任を解かれたことになる。
 おそらくそのころ出雲国造は出雲大社のある杵築の地に一族をあげて移り住んだと考えられている。

 また『令義解』といえば、平安時代初期、天長十年(八三三)に淳和天皇の勅によって右大臣清原夏野によって撰集した令の解説書だが、その中の「神祇令」に天神地祇の註として

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 天神とは伊勢、山城の鴨、住吉、出雲国造の斎く神等がこれである。地祇とは大神、大倭、葛木の鴨、出雲の大汝神等がこれである。
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 天神とは高天原から天降った神、地祇は土着の神のことである。すなわち出雲国造が祀っていたのは天神、すなわちスサノオだといっているのである。大汝神(大国主神)に関してはただ単に出雲の神であるとしているだけである。したがってこの頃には既に祭神はスサノオだったものと思われる。

 このことから出雲大社の祭神が大国主神からスサノオに切り替わったのは平安時代の初め頃ではないかと考えられている。
 すなわち出雲大社の祭神は、奈良時代以前は大国主神が祀られ、平安時代以降は大国主神にかわってスサノオが祀られるようになり、江戸時代の初めに元の大国主神に戻されたことになる。

 以上のことからいかに出雲大社や大国主神の回りには不可解なことが多く、また謎に満ちているかがわかる。そしてどうやら天皇家とはとても深い関係にあるらしいこともお判りいただけたはずである。
 出雲大社の謎を解き、大国主神と天皇家との関係を知るためにはなんとしても出雲大社に祀られている大国主神やスサノオの正体を解き明かすしかない。

 大国主神の正体を知るためには、まず大国主神について書かれている神話を紐解く必要がある。つぎにその神話について調べてみたい。