第二章 『古事記』の謎と大国主神の正体


 謎に満ち溢れた『古事記』

 大国主神の神話は『古事記』、『日本書紀』、また『風土記』にも記載されている。また各地の神社伝承等にも残されているが大国主神の神話で特に有名なものは『古事記』に記載された『因幡の素兎』の話なので、ここでは主に『古事記』を中心に扱いたい。

 神話に入るまでにここで少し『古事記』について少し詳しく紹介しておきたい。
 『古事記』は和銅五年(七一二)に成立したとされる現存する日本最古の歴史書とされる書物で、『日本書紀』に較べて内容が良く整理されていて読みやすく、またその内容自体も大変面白いので古典文学としても高く評価されている。

 『日本書紀』は読んだことはなくとも『古事記』は読んだことがあるという方も多いのではないだろうか。最近でも三浦佑之氏の『口語訳 古事記』が古典文学としては珍しいベストセラーになり話題になったのでその内容はご存じの方も多いだろう。
 また漫画、演劇の題材としても良く取り上げられているので、年輩の方だけではなく若い人にも関心は高いようで結構身近な存在となっている。

 しかしながらその成立と内容は実に謎に満ち溢れたものである。
 『古事記』は全三巻で構成され、神代から推古天皇までの物語と系譜が書かれている。ただし物語が書かれているのは第二十三代顕宗天皇までで、次の仁賢天皇以降第三十三代推古天皇までは系譜だけとなり、次の舒明天皇以後は何らの記載もない。

 『日本書紀』は仁賢天皇の次、第二十五代武烈天皇以後の記載に全三〇巻のうち、半分の一五巻を当てているので同じ歴史書とはいうもののその内容、性格には大きな違いがある。
 ほぼ同時代の歴史書でありながら『古事記』と『日本書紀』になぜそのような違いがあるのか、様々な説が出されてはいるが、未だにこれはといった決定的な説は出されていない。また、なぜ同時期に『古事記』、『日本書紀』という二つの歴史書が編纂されることになったのかそれも不明だ。国の正史は二つもいらないのである。

 この時代の他の文献に『古事記』の成立に関する記事は全く存在しないので、その成立に関しては『古事記』自身の『序』によるしかない。
 『序』となってはいるが正確には上表文と言ってもよいものだ。上表文とは臣下が天皇に奏上する文書のことで、この場合は太安万侶が元明天皇に『古事記』を奏上するという前提で書かれている。

 『序』の中で『古事記』の成立に関する部分だけを要約すると次のようになる。

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 壬申の乱の後、天武天皇は「諸家に伝わっている帝紀および本辞には、真実と違い、あるいは虚偽を加えたものがはなはだ多いとのことである。
 そうだとすると、ただいまこの時に、その誤りを改めておかないと、今後幾年もたたないうちに、その正しい趣旨は失われてしまうにちがいない。

 そもそも帝紀と本辞は、国家組織の原理を示すものであり、天皇政治の基本(邦家の経緯、王化の鴻基)となるものである。それ故、正しい帝紀を撰んで記し、旧辞をよく検討して、偽りを削除し、正しいものを定めて、後世に伝えようと思う。」と仰せられた。

 そのとき稗田阿礼という天皇の側に仕える聡明な舎人がいた。年は二十八歳で、かれは目にしたものは即座に言葉に置き換えることが出来、耳に触れた言葉は決して忘れることがなかった。
 そこで天皇は稗田阿礼に命じて帝皇の日継と先代の旧辞とをくり返し誦み習わせたが天皇が崩御し、そのままになっていた。

 その後,元明天皇の代になり天皇が旧辞に誤りや間違いのあるのを惜しまれ、帝紀の誤り乱れているのを正そうとされた。
 和銅四年九月十八日に臣安万侶に詔して、稗田阿礼が天武天皇の勅命によって誦習した旧辞を書き記し、書物として献上せよと仰せられた。
 そこで安万侶が仰せに従い採録した。

 しかし、上古においては言葉もその内容も素朴であり、すべてに訓を用いて記したのでは上古の心を表現できない。すべてに音を用いて記したのでは記述が長くなりすぎる。
 そこである場合は一句のなかに音と訓を交えて用い、ある場合はすべて訓を用いて記述した。言葉の意味のわかりにくいものには注をつけてわかりやすくし、言葉の意味のわかりやすいものには注はつけなかった。

 天御中主神から鵜草葺不合命までを上巻とし、神武天皇から応神天皇までを中巻とし、仁徳天皇から推古天皇までを下巻とした。
 合わせて三巻に記して和銅五年正月二十八日に元明天皇に献上した。
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 天武天皇の命で稗田阿礼が誦習し、太安万侶が元明天皇に『古事記』を献上したとなっているがこのような記録はこの時代の歴史書である『日本書紀』、『続日本紀』には全く存在しないばかりか『古事記』の存在すらそれらには記載されていない。

 その内容を『邦家の経緯、王化の鴻基』(国家の原理、天皇政治の基本)と記し、『続日本紀』に何度も名が乗るほどの有力官人であり、昭和五十四年一月二十三日、奈良市此瀬町の茶畑から墓誌が発見されたことによっても、当時存在したことが明らかな太安万侶が元明天皇に献上したとなっているにも関わらず、『古事記』に関しての記載が全くないのは不可解である。

 また天武天皇の時代はこの時代の大量の木簡が出土していることからもわかるように既に文字は盛んに使われていた。にもかかわらず国の歴史を後世に残すというような重要なことを稗田阿礼という一個人の記憶力に頼るというような行為自体が不自然な話でもある。まことに面妖な内容としか言いようがない。

 しかしどうしたわけか日本の学会はこの『序』を信じて疑わない。したがって教科書にも太安万侶は古事記の編纂者として紹介されている。稗田阿礼は男か女かと言うような議論すら大まじめに行われていたのである。
 当然このような学会の態度に対して一部の研究者から猛烈な反発があった。



 一、『日本書紀』、『続日本紀』などに『古事記』についての記載がない
 二、『古事記』が後に編纂された『日本書紀』に引用されていない
 三、稗田阿礼の存在が疑わしい
 四、内容に和銅年間より新しい平安時代以降のものが含まれている
 五、本文に使用されている万葉仮名が奈良時代以降の用法である


 等々の数多くの疑問が彼らから出され、江戸時代より今日まで『古事記』偽書説が後を絶たない。
 このように『古事記』はその成立過程からして謎に満ちた書物なのである。

 その『古事記』の神代の巻に記載されている『因幡の素兎』、『国譲り』の神話はたいへん有名なのでよくご存じの方も多いのではないだろうか。『古事記』にはこれ以外にも多くの神話が記載されている。
 『古事記』の神代の内容を列挙すると以下のようになる。

   一、天地開闢
   二、伊邪那岐命,伊邪那美命の国生み
   三、伊邪那岐命の黄泉の国訪問
   四、三貴子の誕生
   五、天の安の河の誓約
   六、天の岩屋戸
   七、八俣の大蛇
   八、因幡の素兎
   九、大国主神の根の国訪問
   十、八千矛神の妻問
 十一、大国主神と少名毘古那神の国作り
 十二、葦原中国の平定
 十三、大国主神の国譲り
 十四、天孫降臨
 十五、木花之佐久夜毘売
 十六、山佐知毘古と海佐知毘古(山幸彦と海幸彦)
 十七、鵜葺草葺不合命の誕生

 これらの神話の内、七の『八俣の大蛇』から一三の『大国主神の国譲り』までの出雲を舞台とした神話が、いわゆる『出雲神話』と呼ばれるスサノオや大国主神が活躍する神話で、神話全体の三分の一以上を占めている。
 本書ではその中の八の『因幡の素兎』の話からはじめたい。
 『因幡の素兎』の話といっても、話全体は大国主神が八十神の兄弟に代わって葦原中国の王になるいきさつを語る波瀾万丈の冒険物語で『因幡の素兎』はその話の中の一部となっている。

 実はこの大国主神の物語は大国主神の正体と『古事記』の謎を探る上でたいへん重要な物語となっている。特に大国主神の動きに注意して読んで頂きたい。


 大国主神の神話


八、因幡の素兎

 大国主神には八十神という多くの兄弟の神々がいた。しかし皆、国を大国主神にお譲りした。譲ったわけはつぎのとおりである。

 八十神たちは因幡の八上比売(ヤガミヒメ)に求婚しようと皆一緒に出かけた。出かける時に大穴牟遅(オオナムヂ、大国主神)に袋を背負わせ、従者として連れていった。ところが気多の岬に至った時、皮を剥がれて丸裸になった兎が倒れていた。

 これを見た八十神たちはその兎に「この海の塩水を浴びて、風が当たるよう高い山の尾根に寝ているがよい」と教えた。兎は教えられた通りに山の尾根に寝ていたが、浴びた塩水が乾くにつれ皮膚が風に吹かれて、すっかりひび割れてしまった。

 そのため兎が痛み苦しんで、泣き伏していたところ、遅れてやってきたオオナムヂがその兎を見て「お前はなぜ泣き伏しているのか」とたずねると、兎が答えて言うには「私は隠岐の島にすんでいて、ここに渡りたいと思いましたが、渡るすべがなかったので、海にいる鮫をだまして『私とお前と比べて、どちらの同族が多いか数えてみたい。
 そこでお前はその同族をことごとく連れて来て、この島から気多の岬まで皆並んで伏していなさい。私がその上を踏んで走りつつ数えながら渡ることにしよう。そうすれば、お前の同族とどちらの同族が多いかがわかるだろう』といいました。

 だまされた鮫が並んで伏していたとき、わたしがその上を踏んで、数えながら渡ってきて、今や地上に降りようとするとき、わたしが『お前はわたしに騙されたのだ』といったとたん、一番端に伏していた鮫がわたしを捕まえて、わたしの皮をすっかり剥いでしまったのです。

 そのようなわけで泣き悲しんでいたところ、先に行った八十神たちに『海の塩水を浴びて、風に当たって伏せているがよい』と教えられました。そこで教えられた通りにしたところ、わたしは全身傷だらけになってしまったのです」と申し上げた。


     
   
           大国主神と因幡の素兎  出雲大社

 
そこでオオナムヂはこのように教えた。「今すぐ河口に行き、真水で体を洗いなさい。そしてすぐに河口に生えている蒲の花粉を取って敷き散らかし、その上に寝転がれば、お前の体の皮膚は必ず元通りになるだろう」
 兎は教えられた通りにしたところ、体は元の通りになった。

 これを因幡の素兎といい、今でも兎神といっている。そこでその兎は、オオナムヂに「八十神たちはきっとヤガミヒメを得ることはできないでしょう。袋を背負ってはいるがあなたが得るでしょう」と申し上げた。

九、大国主神の根の国訪問

 さて、ヤガミヒメは八十神たちの求婚に答えて「わたしはあなたたちの言うことは聞きません。わたしはオオナムヂに嫁ぎます」といった。

 これを聞いた八十神たちは怒って、オオナムヂを殺そうと思い皆で相談して、伯{き}国の、手間の山の麓に来て、オオナムヂにいった。「赤い猪がこの山にいる。そこでわれらが一斉に追い下ろすのでお前はそれを待っていて捕まえろ。もし、待ち捕まえなかったら、必ず、お前を殺すぞ」といって、猪に似た大石を火で焼いて、転がし落とした。そこで追い下ろすのを捕らえようとしたオオナムヂはたちまちその石に焼き付かれて死んでしまった。

 このことを知ったオオナムヂの母神は嘆き悲しみ高天原に参上して、カムムスヒの神にお願いすると、すぐに{きさ}貝比売(キサガヒヒメ)と蛤貝比売(ウムギヒメ)を遣わして、治療して生き返らせた。
 {きさ}貝比売が大石にこびり付いていたオオナムヂの骸を集め、蛤貝比売がそれを待ち受けて母の乳汁を塗ったところ、元の麗しい男に戻って出歩かれた。

 そこでこれを見た八十神たちはまたオオナムヂを騙して山へ連れて行き、大きな木を切り倒し、楔をその木に打ち込み、その割れ目にオオナムヂを押し込むやいなや、楔を外してオオナムヂを挟み殺してしまった。
 そこでまた、母神が泣きながら探し、オオナムヂを見つけて、ただちに木を裂いて取り出し生き返らせていった。「お前はここにいたら、いつかは八十神たちに滅ぼされるでしょう」といい、すぐに木の国の、オオヤビコのもとにオオナムヂを遣わせた。

 ところが八十神たちは探し出して追いかけてきて、弓矢を構えて引き渡しを迫ったので、オオヤビコは木の俣からオオナムヂを逃していった。「スサノオのいる根の堅州国に行きなさい。必ず大神が良い方法を考えて下さるだろう」
 そこで、いわれた通りにスサノオのもとに参り至ると、スサノオの娘の須勢理毘売(スセリビメ)が出てきてオオナムヂに一目惚れして結び合われ、御殿に帰ってスサノオに「大変麗しい神がおいでになりました」といった。

 そこで大神が外に出て一目見るなり、「こいつはアシハラシコヲという男だ」といって、すぐに呼び入れ、蛇の室に寝かせた。
 そこでその妻スセリビメが蛇の比礼を夫に授けて「蛇が食い付いて来たら、この比礼を三度振って打ち払いなさい」といった。そこで教えられた通りにしたなら蛇は自然に静まり、安心して寝ることができ、室を出ることができた。

 また、次の日の夜にはムカデと蜂の室に入れられた。今度も、ムカデと蜂の比礼を夫に授けて前のように教えた。そこで安心して寝ることができ、室を出ることができた。

 そこで、スサノオは鏑矢を広い野原に討ち入れて、その矢を探させた。そして、オオナムヂが探しに入るや、野に火を放ち、周りから焼いた。そこでオオナムヂが出るところが判らないでいると、ネズミが出て来て「内はほらほら、外はすぶすぶ」といった。そこでそこを踏んだところ、下に落ち、隠れている間に、火は焼け過ぎて行った。そこへ、そのネズミが鏑矢をくわえて持って来てオオナムヂに奉った。その矢の羽は皆ネズミの子供が食いちぎっていた。

 妻のスセリビメは葬儀の品々を持ち泣きながらやって来て、その父の大神は、オオナムヂは既に死んだと思い、その野に出て立っていた。
 そこにオオナムヂが矢を持って奉ったので家の中に連れて入り、広い大室に呼び入れて、自分の頭のシラミを取らせた。ところがその頭を見るとムカデがたくさんいた。そこで妻のスセリビメが椋の木の実と赤土を持って来て夫に渡した。

 そこでその椋の木の実を食いちぎり、赤土をまぜて唾として出すと、大神はムカデを食いちぎって唾として出したと思い、心の中でかわいいやつだと思い眠ってしまった。

 そこでその大神の髪を取り、その室の垂木に次々と結びつけ、大きな岩をその室の戸口に持って来て塞ぎ、妻のスセリビメを背負って、大神の生太刀、生弓矢、天の詔琴をたずさえて、逃げ出したとき、その天の詔琴が木に触れて大地が動かんばかりに鳴り響いた。
 寝ていた大神これを聞いて驚き、室を引き倒した。しかし垂木に結び付けられた髪をほどいている間に、オオナムヂとスセリビメは遠くに逃げていった。

 それでも大神は黄泉比良坂まで追って来て、遥か遠くのオオナムヂを見ていった。
 「お前が持っている生太刀、生弓矢でもってお前の庶流の兄弟を、坂の尾根に追い伏せ、河の瀬に追い払って、お前は大国主神となり、また、宇津志国玉神(ウツシクニタマ)となって、我が娘スセリビメを正妻として、宇迦の山の麓に地底の岩盤に届くまでの宮柱を立て、高天の原に届くほどの千木をたてた宮殿に住め。こやつめ」

 そこでその生太刀、生弓矢で八十神たちを追い払い、坂の尾根に追い伏せ、河の瀬に追い払って、国作りを始めた。
 その後、先の約束どおりにオオナムヂはヤガミヒメと結婚し、出雲の国に連れてこられたが、正妻のスセリビメをおそれ、その産んだ子を木の俣に刺し挟んで帰ってしまった。そこでその子を名付けて木俣(キノマタ)の神といい、またの名を御井(ミヰ)の神という


十、八千矛神の妻問   この物語は後述する。


十一、大国主神と少名毘古那神の国作り

 大国主神が宗像の奥つ宮におられる神、多紀理毘売命(タキリビメ)を娶って生んだ子は阿遅{すき}高日子根神(アヂスキタカヒコネ)、つぎに妹高比売命(イモタカヒメ)、またの名は下光比売命(シタテルヒメ)。この阿遅{すき}高日子根神は、今、迦毛の大御神という。

 また、大国主神が神屋盾比売命(カムヤタテヒメ)を娶って生んだ子は事代主神(コトシロヌシ)である。
 また八島牟遅能神(ヤシマムヂノ)の娘の鳥取神を娶って生んだ子は鳥鳴海神(トリナルミ)である。
 この神が日名照額田毘道男伊許知邇神(ヒナテルヌカタビチヲイコチニ)を娶って生んだ子は国忍富神(クニオシトミ)である。
 この神が葦那陀迦神(アシナダカ)、またの名が八河江比売(ヤガハエヒメ)を娶って生んだ子は速甕之多気佐波夜遅奴美神(ハヤミカノタケサハヤヂヌミ)である。
 この神が天之甕主神(アメノミカヌシ)の娘、前玉比売(サキタマヒメ)を娶って生んだ子は甕主日子神(ミカヌシヒコ)である。
 この神が淤加美神(オカミ)の娘、比那良志毘売(ヒナラシビメ)を娶って生んだ子は多比理岐志麻流美神(タヒリキシマルミ)である。
 この神が比々羅木之其花麻豆美神(ヒヒラギノソノハナマズミ)の娘、活玉前玉比売神(イクタマサキタマヒメ)を娶って生んだ子は美呂浪神(ミロナミ)である。
 この神が敷山主神(シキヤマヌシ)の娘、青沼馬沼押比売(アヲヌウマヌオシヒメ)を娶って生んだ子は布忍富鳥鳴海神(ヌノオシトミトリナルミ)である。
 この神が若尽女神(ワカツクシメ)を娶って生んだ子は天日腹大科度美神(アメノヒバラオオシナドミ)である。
 この神が天狭霧神(アメノサギリ)の娘、遠津待根神(トホツマチヌ)を娶って生んだ子は遠津山岬多良斯神(トホツヤマサキタラシ)である。

 右にあげたヤシマジヌミから、トホツヤマサキタラシまでを十七世の神と称する。

さて、大国主神が出雲の美保の岬におられたとき、波の上からガガ芋の実の船に乗って、蛾の皮を丸剥ぎに剥いだ着物を着て近づいてくる神があった。
 そこでその名を問うたが返事がなかった。また従っている多くの神々にたずねてみたが、皆「知りません」と答えた。

 しかしヒキガエルが「きっと久延{び}古(クエビコ)が知っているでしょう」と申し上げたので、すぐにクエビコを呼んでたずねると「この神はカムムスヒの御子で少名毘古那神(スクナビコナ)である」とお答えした。
 そこでカムムスヒの御祖命に申し上げたところ、「この神はたしかにわたしの子です。子の中でもわたしの手の間よりこぼれ落ちた子です。そこでおまえはアシハラシコヲと兄弟となってこの国を作り固めなさい」とお答えになった。

 そこでオオナムヂとスクナビコナの二柱の神は協力しあって国を作り固められた。そしてその後スクナビコナは常世の国にお渡りになった。
 さて、そのスクナビコナであることを顕し申し上げたクエビコはいまでは山田の案山子という。この神は歩くことはできないが天下のことはことごとく知っている神である。
 ここで大国主神が憂えて「自分一人でどうしてこの国を作ることが出来るであろうか。どの神と一緒にこの国を作ったらよいであろうか」と仰せになった。

 このとき、海を照らして近寄ってくる神があった。
 その神がいうには「わたしをよくお祀りすればわたしはあなたと共に国を作りましょう。もしよく祀ることができないならば国を作ることは難しいでしょう」と申された。
 そこで大国主神は「ではどのようにお祀りしたらよろしいのでしょうか」と申されると、「わたしを大和の、青垣の、東の山の上に祀りなさい」とお答えされた。この神が御諸山(三輪山)の上に鎮座しておられる神である。

 さて、かのオオトシが神活須毘神(カムイクスビ)の娘、伊怒比売(イノヒメ)を娶って生んだ子は大国御魂神(オオクニミタマ)、つぎに曾富理神(ソホリ)、つぎに白日神(シラヒ)、つぎに聖神である。
 また香用比売(カヨヒメ)を娶って生んだ子は大香山戸臣神(オオカグヤマトミ)、つぎに御年神である。

 また天知迦流美豆比売(アメチカルミヅヒメ)を娶って生んだ子は奥津日子神(オキツヒコ)、またの名は大戸比売(オオヘヒメ)である。この神は人々が祀っている竈の神である。
 つぎに大山咋神(オオヤマクヒ)、またの名は山末之大主神(ヤマスエノオオヌシ)である。この神は近江の国の比叡山に鎮座し、葛野の松尾に鎮座して鳴鏑を神体とする神である。
 つぎに庭津日神(ニハツヒ)、つぎに阿須波神(アスハ)、つぎに波比岐神(ハヒキ)、つぎに香山戸臣神(カグヤマトミ)、つぎに羽山戸神(ハヤマト)、つぎに庭高津日神(ニハタカツヒ)、つぎに大土神(オオツチ)、またの名は土之御祖神(ツチノミオヤ)である。

 上にあげたオオトシの子、オオクニミタマから下、オオツチまであわせて十六柱の神である。

 羽山戸神が大気都比売神を娶って生んだ子は若山咋神(ワカヤマクヒ)、つぎに若年神、つぎに妹若沙那売神(イモワカサナメ)、つぎに弥豆麻岐神(ミヅマキ)、つぎに夏高津日神(ナツタカツヒ)、またの名は夏之売神(ナツノメ)、つぎに秋毘売神(アキビメ)、つぎに久々年神(ククトシ)、つぎに久々紀若室葛根神(ククキワカムロツナネ)である。

 上にあげた羽山の子より若室葛根まで、あわせて八柱の神である。

 おなじみの神話である。懐かしいおもいで読まれた読者も多いだろう。
 この大国主神の神話は『古事記』の神話や説話の中でもとりわけ並々ならぬ分量で記述され内容もたいへん充実している。そのため、今読んでみてもとても千三百年以上も昔の話とは思えないほど面白い話となっている。

 たいへん面白い話なのだが、いかにも荒唐無稽なおとぎ話のような話で、これを実話だと信じている人はそう多くはいないだろう。歴史学者の間でもおおよそ歴史とは無縁の物語というのが一般的な認識となっている。 
 しかし、この物語をもう一度丁寧に読み返していただきたい。何の変哲もないありきたりの冒険物語のように見えるかもしれないが、実はこの物語は古代に起きたある重大事件に話の筋立てがそっくりなのだ。
 謎を解く鍵は物語中の以下の文章である。

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 「お前はここにいたら、いつかは八十神たちに滅ぼされるでしょう」といい、すぐに木の国の大屋毘古のもとにオオナムヂを遣わせた。
 ところが八十神たちは探し出して追いかけてきて、弓矢を構えて引き渡しを迫ったので、大屋毘古は木の俣からオオナムヂを逃していった。「スサノオのいる根の堅州国に行きなさい。必ず大神が良い方法を考えて下さるだろう」
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 身の危険を感じたオオナムヂは木の国に逃げる。しかしそこにも八十神たちが追ってきたのでさらに遠くの根の堅州国に逃げたというのである。
 オオナムヂと同じような行動をとった人物が飛鳥時代にいる。

 その人物とは身の危険を感じて近江から吉野に出家し、そこも危なくなったのでさらに吉野から東国に脱出した、中大兄皇子(後の天智天皇)の弟の大海人皇子(後の天武天皇)のことで、大国主神の物語と同じ筋立てで展開するある重大事件とは壬申の乱のことなのである。

 壬申の乱とは六七二年天智天皇の死後、天智天皇の息子の大友皇子と叔父の大海人皇子が皇位継承を巡って戦ったとされる古代最大の戦いである。この年の干支が壬申にあたるので壬申の乱と呼ばれている。
 壬申の乱は中・高等学校の歴史教科書にも必ず書かれているほどの大変有名な出来事で、『日本書紀』は壬申の乱の記述に特に一巻を割り当てていて、そのため詳細な記述が残されている。

 有名な出来事なので説明も不要かとも思うが、神話との比較のために必要なのでまずその概要を次に説明しておきたい。

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 天智十年(六七一)十月十七日天智天皇は近江宮で病に倒れた。そこで天皇は蘇我臣安麻呂を大海人皇子に遣わして寝所に呼び寄せ、皇位を大海人皇子に譲ることについて打診した。
 しかし、大海人皇子は以前から親しくしていた蘇我臣安麻呂に「よく注意して返事するように」と忠告されていた。

 そこで「私は不幸なことに元来多病で、とても国家を経営することはできません。願わくは陛下、天下を皇后に託して下さい。そして大友皇子を皇太子として下さい。私は今日にも出家して、陛下のため修行をしたいと思います」と答えた。大海人皇子は蘇我臣安麻呂の忠告により朝廷内の不穏な空気を察知し、天智天皇からの皇位譲位の申し出を辞退し、吉野に出家をすることにしたのである。

 天智天皇はそれを許したので、即日出家し、法衣に着替え、すべての武器を公に納め,大海人皇子は十月十九日,妃の鸕野讚良皇女(後の持統天皇)や草壁皇子と忍壁皇子,数人の舎人と共に都を出て出家地の吉野に向かった。

 左大臣蘇我赤兄臣,右大臣中臣金連、中納言蘇我果安臣たち近江朝の重臣たちが宇治まで見送った。
 そのとき、だれかが大海人皇子の吉野行きを「翼をつけた虎を野に放したようなものだ」とつぶやいたが、その懸念はのちに現実のものになるのである。

 それからまもなく十二月三日、天智天皇は近江宮で崩御した。

 翌年五月、「私用で一人美濃に行きました。その時、近江朝では美濃、尾張両国の国司に『天智天皇の山陵を造るために、あらかじめ人夫を指定せよ』と命じておりました。しかしながらそれぞれに武器をもたせております。おそらく山陵を造るのではないと思います。これは必ずなにかあるでしょう。速やかに避難しないと、きっと危ないことがあるでしょう」と大海人皇子の舎人の一人が吉野へ報告に来た。

 また、大津京から飛鳥にかけてあちこちに朝廷の見張りが置かれ,さらに,大海人皇子の舎人が吉野へ食料を運ぶ道を閉ざそうとする動きも伝わってきた。

 そこで大海人皇子は「私が皇位を辞退して出家したのは、療養に努め、ひたすら天命を全うしようとしたからである。しかしながら今、禍を受けようとしている。このまま黙っておられようか」と言い、舎人たちに「聞くところによると、近江朝の廷臣たちは私を亡き者にしようと企んでいる。そこでおまえたちは速やかに美濃に行き、兵を集め、不破道をふさげ。自分もすぐ出発する」と命じた。

 六月二十四日大海人皇子達は吉野を出発した。急であったため乗り物もなく徒歩だった。このとき従ったものは舎人が二十人あまり、女官が十人あまりであった。

 余談だがこのときに従った舎人の一人に書首根摩呂がいるが、後に彼の骨容器と墓誌が吉野から上野へ行く途中の奈良県宇陀郡榛原町八滝の山中で発見され,壬申の乱を物語る数少ない物証として国宝(東京国立博物館蔵)に指定されている。
 元々、書首根摩呂の居住地は河内とみられているが壬申の乱で活躍したときの体験が忘れがたく、そのため壬申の乱に縁のあったこの地に自らの墓を築いたと考えられている。

 横河(名張川)にさしかかったとき、黒雲が天を横切っていた。大海人皇子はこれを不思議に思い、火をともして式(筮竹)を手にとって「天下が二分されるしるしだ。しかし最後は自分が天下を取るだろう」と占った。
 昼夜兼行で進み、途中で大海人皇子の長男の高市皇子が、次いで大津皇子が合流し、次々と兵を集めながら翌日の夜には三重郡家(四日市市東坂部町)に着いた。

 二十六日、朝、朝明郡の迹太川(朝明川)のほとりで大海人皇子は天照大神(伊勢神宮)を遙拝した。その後不破道をふさぐことに成功したとの報が入り、高市皇子を不破に派遣した。

 一方、近江の都では大海人皇子が東国に入ったという情報が伝わり,ある者は大海人皇子につこうと東国に行こうとしたり、またある者は山に隠れたりと都中大騒ぎになった。
 早速対応策が協議され、大友皇子は臣下から直ちに急追するよう進言を受けたが、皇子はその進言には従わなかった。また吉備国、筑紫太宰に使者を送り、軍兵を徴発するよう要請するが共に失敗に終わった。

 二十七日に大海人皇子達は不破に入り、ここを陣とし、高市皇子たちと作戦を話し合った。
 このとき、大海人皇子は高市皇子に「近江の朝廷には左右の大臣など知謀に優れた群臣がいて共に謀ることが出来る。しかし私には事を謀る者がいない。ただ幼少の子どもたちがいるだけだ。どうしたらよいだろうか」と尋ねた。

 すると高市皇子は腕をまくり、剣を握って「近江に群臣が多いといえどもどうして天皇(大海人皇子)の霊に逆らうことが出来るでしょうか。天皇は一人でいらっしゃるといえども、私、高市が神祇の霊に頼り、天皇の命を受けて諸将を率いて敵を討ちましょう。さすれば敵は我が軍を防ぐことはできないでしょう」と答えた。そこで大海人皇子は高市皇子をほめて励まし、軍の指揮をすべて高市皇子に委ねた。

 この日、尾張国司小子部連{鉗}鉤が2万の大軍を率いて大海人軍に帰属した。
 小子部連{鉗}鉤は尾張の国司だから本来は近江朝廷側だが大海人軍に寝返ったのだ。もっとも寝返ったことは小子部連{鉗}鉤にとっては不本意なことだったらしく彼は乱の後自殺している。

 二十九日、大海人皇子は高市皇子に命じ、総軍に近江攻略の号令を発した。
 同日、大和飛鳥でも大海人軍の大伴連吹負と近江朝廷軍の間で戦いが始まる。大伴連吹負は次々と押し寄せる近江朝廷軍相手に苦戦しながらも最後まで飛鳥を死守した。

 七月二日、大海人軍が不破から出陣した。このとき大海人軍は朝廷軍との区別のため赤い布を衣服の上につけていた。

 近江朝廷方は不破を攻撃するため、山部王、蘇我臣果安、巨勢臣比等に命じ、数万の兵を犬上川のほとりに集めた。ところがここで山部王が蘇我臣果安、巨勢臣比等に殺されるという異常事態が発生する。そのため朝廷軍は戦う前に分裂してしまった。

 この後、大海人軍は各地で近江朝廷軍を破り、二十二日には瀬田川の辺に着いた。瀬田川の唐橋周辺での決戦において激戦の末、大海人軍は決定的な勝利を収めた。

 戦いの後、大海人軍は近江京に入り粟津岡(大津市膳所)に陣を置き、左右の大臣や罪人たちを捜索、逮捕した。
 敗れた大友皇子、左右の大臣たちはかろうじて逃れるが、翌日、大友皇子は山前にて自殺した。

 八月二十五日、高市皇子に命じて近江方の罪状と処分を発表した。
 右大臣中臣金連ら八人が死罪となり、左大臣蘇我臣赤兄、大納言巨勢臣比等とその子たち、中臣金連と蘇我臣果安の子たちが流罪になっているが国が二つに分かれての大きな戦いの割には軽い処分であったと言われている。

 九月八日、大海人皇子は帰路につき、十二日に大和飛鳥の嶋宮に凱旋した。
 そして翌年二月二十七日、大海人皇子は飛鳥浄御原宮において天皇に即位した。
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 以上、簡単ではあるがこれが壬申の乱のあらましである。大国主神の根の国訪問の神話と壬申の乱の話を対比させると次のようになる。
            
大国主神の神話 壬申の乱
身の危険を感じ木の国へ逃げる 身の危険を感じ吉野へ出家する
木の国まで八十神たちが追ってくる 追手を出しそうな朝廷の不穏な動き
木の股をくぐって根の堅州国へ逃げる 警戒をかいくぐり東国へ脱出する
スサノオの試練を受け逞しくなる 兵を集め軍備を整える
生太刀、生弓矢、天の詔琴をたずさえて根の堅州国から逃げる 東国から近江の都に向かって進軍する
坂の尾根に追い伏せる 坂の多い飛鳥や大和での戦い
川の瀬に追い払う 瀬田川での決戦に勝利する
大国主神になる 天皇に即位する
国作りを始める 律令国家の完成を目指す


 大国主神の正体は天武天皇

 この表からわかるように大国主神の根の国訪問の物語は壬申の乱の経緯とほぼ同型の構造を持っている。おそらく大国主神の根の国訪問の物語は壬申の乱の話を元に作られたのではないだろうか。というより大海人皇子が天皇に即位したいきさつが神話として語られているのではないだろうか。

 大国主の物語の他の部分も見ていこう。ここでは一応、大国主神(あるいはオオナムヂ)の正体は天武天皇(大海人皇子)という前提で考えてみたい。
 物語の初めのヤガミヒメを巡るオオナムヂと八十神の求婚の争いは額田王を巡る、大海人皇子とその兄の中大兄皇子の確執と考えられる。

 因幡の素兎をめぐる話は事実に基づいているとはさすがに言い難いが、大国主神が立派な神であることを示すためのエピソードとして挿入された話だろう。

 オオナムヂが八十神に騙され、焼けた石を落とされ殺されたのは中大兄皇子たちによって蘇我入鹿が板蓋宮で暗殺された乙巳の変(大化改新)の直後、吉野に出家したものの謀反の疑いをかけられ妻子もろとも惨殺されてしまった中大兄皇子の異母兄、古人大兄皇子の話と考えられる。

 さらにオオナムヂが騙されて山に連れて来られ、裂いた木に押しこまれ、挟み殺されたのは、孝徳天皇の死後、中大兄皇子や蘇我赤兄の仕掛けた罠にはまり、謀反の疑いをかけられ縛り首にされた孝徳天皇の皇子、有間皇子のことと考えられる。

 次に登場人物をみてみたい。
 オオナムヂが大海人皇子とするとヒロインのヤガミヒメのモデルは額田王ということになる。したがって話の最後に大国主神のもとに残されるヤガミヒメと大国主神の間にできたキノマタの神は大海人皇子と額田王の間に生まれた十市皇女ということになる。

 額田王は万葉歌人としては大変有名だが歴史書の中にその名はほとんど登場しない。
 『日本書紀』の天武天皇二年二月二十七日条に

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 天皇、初めに鏡王の女、額田姫王を娶って、十市皇女を生ませた。
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 とあるだけだ。ただし『万葉集』からこの後天智天皇の後宮に入った、つまり妃となったことがわかっている。

 額田王と大海人皇子は万葉集の次の歌で良く知られている。

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 天皇、蒲生野に遊猟しましし時、額田王の作れる歌
 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

 皇太子の答へませる御歌
 紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも

 紀に曰はく、天皇七年丁卯夏五月五日、蒲生野に縦猟したまひき。時に大皇弟、諸王、内臣、及び群臣、悉皆に従ひきといへり。 
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 この歌は天智天皇の即位直後、天皇が大海人皇子達を引き連れ蒲生野で狩りをしたときの宴会の席で歌われたものといわれている。一般的には、すでに二人の関係は終わっており、宴会の座興として歌われたのものとして軽く解釈されているが、神話の内容からは決してそうとはいえないような気がする。おそらくまだ未練たっぷりだったのだろう。

 神話の内容から壬申の乱の後、額田王は大海人皇子のもとに連れてこられたものと思われるが妃の鸕野讃良皇女の嫉妬の前にはいかんともしがたく、静かに身を引いたものと思われる。『万葉集』には壬申の乱以後、額田王の歌がいくつか残されていてかなり長命だったといわれている。
 『日本書紀』にはほとんど記述のない額田王は『古事記』の中ではヤガミヒメの名で大活躍していたのである。

 オオナムヂの敵役の八十神は大海人皇子の兄の中大兄皇子、後の天智天皇と天智天皇の息子、大友皇子のことになる。「八十」と多数人称になっているので天智天皇の側近達もその中に含まれているのだろう。

 オオナムヂの妻のスセリビメは天智天皇の娘で、天武天皇の皇后の鸕野讃良皇女、後の持統天皇ということになる。スセリビメの夫に対する並々ならぬ愛情、夫を助けるためには親のスサノオを裏切ることもいとわない積極果敢な行動力は『日本書紀』からうかがい知ることのできる持統天皇の性格そのものだ。彼女は天武天皇の死後、その遺志を継いで律令体制を完成させた女帝中の女帝としてあまりにも有名である。

 話の中には登場しないが系譜の中には多紀理毘売が大国主神の妃の一人として登場し、二人の間には男女二柱の神が誕生する。天武天皇は妃の大田皇女との間に大来皇女と大津皇子の男女二人の子をもうけているので多紀理毘売は大田皇女のことと考えられる。

 これでなぜ出雲大社の多紀理毘売を祀る筑紫社がスセリビメを祀る御向社より上位に祀られているのかその理由が明らかとなる。大田皇女は持統天皇の実姉だからだ。このことから御向社の右に祀られている天前社に祀られている{討虫}貝比売(キサガヒヒメ)と蛤貝比売(ウムギヒメ)は持統天皇の異母妹で天武天皇の妃の大江皇女と新田部皇女と考えられる。

 すなわち出雲大社には天武天皇が大国主神として、天武天皇に嫁いだ天智天皇の四人の皇女が四柱の女神として祀られているのではないだろうか。


 出雲大社の謎の神事『神幸祭』

 大国主神の正体が天武天皇のことであるらしいことは出雲大社の神事からもうかがうことができるのでその一つの例を紹介しよう。

 出雲大社では年間を通して数多くの神事が行われているが大社の代表的な神事に神幸祭(身逃神事)がある。神事の間、国造は住まいである国造館を離れ他家へ身を寄せる習わしになっているので身逃神事という面白い名前でも呼ばれている。

 この神事は現在、八月一四日と一五日に行われているが、明治一八年以前は旧暦の七月四日と五日に行われていた。
 出雲大社発行の『出雲大社由緒略記』によれば神事の内容は以下のようなものである。

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 八月十一日夕刻、禰宜(神職)は稲佐浜に出て海水にて身を浄め斎館に入って潔斎をする。
 禰宜は斎館に籠り、本社相伝の燧杵、燧臼で切り出した斎火をもって調理した斎食を食べ、神事の終わるまで他火を禁ずる。

 同十三日夜は道見と称し、禰宜は斎館を出て、先頭に高張提灯二張、次に禰宜自用の騎馬提灯持一人、次に禰宜、その後に献饌物を捧持する出仕一人が従い、この行列をもってまず大鳥居に出て、ここから禰宜は人力車に乗り、町通りを通り過ぎて四軒屋に鎮座の湊社を詣で、白幣・洗米をお供えして黙祷拝礼する。この御社の御祭神は櫛八玉神で別火氏の祖先神という。

 次に赤塚に鎮座の赤人社に詣でる。次に稲佐浜の塩掻島に至り四方に向かって拝し、前二社とどうようの祭事をお仕えし、終わって斎館に帰する。

 以上によって、御神幸の道筋の下検分を行う。そして同十五日鶏鳴、大国主大神が御神幸になる。
 当夜は境内の諸門はいずれも開放される。午前一時、禰宜は狩衣を着し、右手には青竹の杖を持ち、左手には真菰で作った苞及び火縄筒を持ち、素足に足半草履を履き、本殿の大前に参進して拝礼し、終って御神幸の儀が始まる。

 禰宜は供奉し、前夜道見の際に詣でた二社に行き、次に塩掻島に行って塩を掻き、帰路出雲国造館に至り、大広間内に設けられた斎場を拝し、御本殿大前に帰して再拝拍手して神事を終り斎館に入る。当夜塩掻島で掻いた塩は、十五日の爪剥祭に供える。


    
             神幸供奉図

 なお、同十四日、御神幸に先立ち、国造館では表の門を掃き清め、荒薦を敷き、八足机を備え、さらに手洗水を置いて奉迎の準備をするが、近代までこの間、国造は自邸を出て他の社家に赴き、一時仮宿した。そこで、この一連の神事を古来、専ら「身逃げの神事」と称してきた。

 ところで、この御神幸の途中、もし人に逢えば大社に帰り、再び出て行く。そのため、この夜は大社町内の人は早くから門戸を閉じ、謹慎して戸外に出ないようにしている。
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 だれにも見られてはならない神事というのがいかにも古社の神事らしくて面白い。
 この神事も壬申の乱と同型の構造を持っている。大社本殿を飛鳥に、塩掻きは近江朝廷軍との戦い、国造館は近江京になぞらえているのだろう。その他の祭りの次第も壬申の経緯とよく似ている。

 神事の間、国造が国造館を出るのも戦いに敗れた近江京(国造館)に主がいたのではまずいからであろう。あくまで祭りの主役は目には見えないが大国主神なのである。
 御神幸の途中、もし人に逢えば汚れたとして大社に帰り、再び出て行くのは大海人皇子の東国への脱出が隠密裏の行動だったことに因むものと考えられる。

 また大海人皇子が吉野を脱出したのが六月二十四日、大海人軍が近江京に入ったのが七月二十三日なので、以前に神幸祭りがおこなわれていた旧暦の七月三日、四日はその中間に当たる。 
 出雲大社は創建以来、出雲国造が世襲で代々神事を司ってきた。そのため祭りの当初の形が途中で変形することなく現在までこのようにしっかり受け継がれていたのだろう。

 日本のたいていの祭りは前日夜の宵宮に始まり、祭り当日は神社の門戸がすべて開け放たれ、そして神を乗せた神輿を氏子が担ぎ、そして町内を練り歩きあちこちで大騒ぎした後、もとの神社に戻って祭りを終わるというのが一般的な祭りのパターンである。神輿の巡行は本来、夜間に静かに行われていたという。日本の祭りは壬申の乱がその原型と思われる。


 出雲大社の創建はいつか

 また天武天皇が大国主神として出雲大社に祀られているとすると、出雲大社の創建は天武朝より古いということはありえない。
 出雲国造がその代替わりに際して宮中で行う「出雲国造神賀詞」の初見が『続日本紀』の霊気二年(七一六)二月十日条に見えるので出雲大社の創建はおそらくこの頃だろう。

 この時代はほぼ同時期に大官大寺(百済大寺)、少し後には東大寺といった巨大な建物があいついで建設されていた時期である。

 特に大官大寺の九重塔や東大寺の七重塔は高さが八〇メートルから一〇〇メートルにも及ぶ大規模な建造物だったといわれている。偉大だった天武天皇を神として祀ったのであるなら、出雲大社の本殿が一六丈(四十八メートル)程度だったとは考えにくい。おそらく大官大寺の九重塔に劣らない壮大な規模の社殿だったのではないだろうか。上古において三十二丈あったという伝承も単なる伝承ではないだろう。

 百メートル近い古代木造建築となるとその規模と構造は我々の想像を超えるものがあるが一度見てみたかったものである。
  

 なぜ『日本書紀』に大国主神の神話が載っていないのか

 大国主神の物語は『古事記』では並々ならぬ分量で記載されているが、不思議なことにこの神話は『日本書紀』には全く記載されていない。

 『日本書紀』ではスサノオの話の後にスサノオと妻の奇稲田姫(クシイナダヒメ)の間にオオナムヂが生まれ、その後すぐにオオナムヂが少彦名(スクナヒコナ)命と力を合わせて天下を造ったとなっていて、さもそれが当然な如くに、大国主神が登場したときにはすでに葦原中国の王となっている。葦原中国の王になるいきさつが語られる『古事記』と較べるといかにも不自然な繋がり方となっている。

 他の神話は多少違いがあっても載っているのに肝心の大国主神の物語が記載されていないのは不可解である。この大国主神の物語が『古事記』には載り、『日本書紀』には載っていないのは『記・紀』研究において大きな謎の一つとされている。
 なぜ大国主神の葦原中国の王になるいきさつが『日本書紀』では記載されていないのであろうか。

 この物語が『日本書紀』に載っていない理由は物語の中の「八十神」にあると考えられる。
 和銅七年(七一四)二月に元明天皇は紀朝臣清人と三宅臣藤麻呂に国史を撰修するよう詔を出している。国史(日本書紀)の完成に向けていよいよ本格的に編纂が開始されたのだ。

 六年後の養老四年(七二〇)五月に『日本書紀』は完成し、元明天皇の娘の元正天皇に奏上されたのだが、元明天皇は編纂が開始された直後の和銅七年(七一四)九月に氷高皇女(元正天皇)に天皇の位を譲り、『日本書紀』の完成を見届けるかのように翌年の養老五年(七二一)一二月に亡くなっている。

 斉明天皇六年(六六〇)に生まれ、大化の改新以降の出来事と事情をよく知る元明天皇にしてみれば、壬申の乱の後の天武天皇八年(六八〇)生まれの元正天皇に国史編纂のような大事な事業を任せる訳にはいかなかっただろう。
 したがって天皇の位を元正天皇に譲った後は『日本書紀』の編纂に専念し、その内容に目を光らせていたのではないだろうか。

 先ほど八十神は天智天皇、大友皇子達のことではないかと説明したが、実は元明天皇はその天智天皇の娘なのである。ということは大友皇子の妹ということでもある。神話の中で自分の父と兄が八十神にされていることになる。

 元明天皇にしてみればこのような話は「冗談ではない」ということになる。国史に記載して後世に残す気にはならなかっただろう。『日本書紀』の編纂者たちも元明天皇の手前、この話を『日本書紀』に載せるわけにはいかなかったのではないだろうか。


 『古事記』の『序』は偽書

 しかし、そう考えるとこの大国主神の物語の載った『古事記』を太安万侶が元明天皇の命で撰上し、天皇に献上したという『古事記』の『序』、あれはいったいどういうことだということになる。
 元明天皇の父である天智天皇を「八十神」としたような話を元明天皇に献上することなどできないのではないだろうか。

 『古事記』の『序』に書かれた内容は真っ赤な嘘、『序』に関しては偽書ということになる。
 太安万侶は実在の確実な人物だが、稗田阿礼は男でもなければ女でもない。『序』の作者が考え出した、全く架空の人物だったのだろう。

 『古事記』の名が歴史に初めて登場するのは十三世紀の終わり頃に書かれた『日本書紀』の注釈書の『釈日本紀』に引用された『弘仁私記』の序においてである。
 『弘仁私記』は平安初期、弘仁三年(八一二)に行われた『日本書紀』の講義の内容を書き残したものだが、その序に『古事記』のことが太安万侶や稗田阿礼の名前と共に記載されている。

 弘仁三年に行われた『日本書紀』の講義の講師は多朝臣人長という人物で、この人物は太安万侶の直系の子孫といわれている。
 『弘仁私記』の序のなかで多朝臣人長は『古事記』のみならず『日本書紀』も太安万侶が編纂に関わったと主張している。しかし『日本書紀』の編纂に太安万侶が関わったという記録は『弘仁私記』の序以外、他のどこにも存在しない。

 多朝臣人長は歴史書編纂を自分の先祖である太安万侶の功績とするために自分で勝手に『序』を書いて『古事記』に書き加えていたのだろう。
 『序』の内容を信じ込んでいた学者や研究者にとってはまったくいい迷惑であった。


 『古事記』の作者は天武天皇

 太安万侶が作者でないなら『古事記』はいつ、誰によって書かれたものであろうか。

 大国主神が天武天皇だとすると元明天皇(在位七〇七~七一五、七二一没)の時ではないだろう。持統天皇(在位六八六~六九七、七〇二没)も元明天皇同様天智天皇の娘だからこの時代でもない。文武天皇(在位六九七~七〇七、七〇七没)は病弱で短命の上、母が元明天皇、祖母が持統天皇だからこのような話を書くわけにはいかなかっただろう。
 そうすると物語の内容からみても天武天皇の時代に天皇の下で書かれたと考えられる。

 ようするに大国主神の神話は大国主神自身が書いていたということになる。どおりで記述に力が入っているはずである。

 この天武天皇の時代は壬申の乱の勝利によって高まった天武天皇のカリスマ性を背景に、律令国家の整備が急速に進められようとしていた時代である。この時代に編纂された『古事記』は律令国家の成立と深い関係があったと思われる。
 成立を『古事記』の『序』の記述の通り和銅五年(七一二)としたのでは律令国家の成立後となってしまい、これでは『古事記』の謎を解き明かすことはできない。


 奇妙な記述と『暗号』

 では具体的に天武朝のいつ頃に書かれたものであろうか
 『日本書紀』の天武十年(六八一)三月四日条に天武天皇が皇子や臣下に帝紀と上古の諸事を記定することを命じたという記事があるが、それよりむしろ天武天皇四年(六七五)一一月三日条に実に奇妙な記述があることに注目したい。それはこのような記述である。

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 ある人が宮の東の丘に登って、人を惑わすことを言って自ら首を刎ねて死んだ。この夜の当直の者すべてに爵一級を賜った。
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 夜間に宮廷の東の丘に登り、人を惑わすことを言って自殺した者があり、その日の当直すべての者たちの階級を一級上げたというのである。

 要するに「人を惑わすこと」を聞いた者たちに口止めがされたのだ。「人を惑わすこと」の内容が何なのかその記述はないが、階級を一級上げてまで口止めをするくらいだから朝廷にとって人に聞かれてはまずい、極めて都合の悪い内容だったことは確かである。
 さらに二年後の天武天皇六年(六七七)四月十一日条に

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 杙田史名倉が天皇をそしりまつったということで、伊豆島に流された。
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 杙田史名倉という人物が天皇を非難して伊豆に島流しになったというのだ。「史」となっているので歴史書などの文章を作成する仕事に従事する人物と思われる。『日本書紀』の国史という立場からすれば一見どうでもよいような記述なのだが、これらの記事は『古事記』編纂の実体を暗示している。

 だが、なぜ国の正式な歴史書にこのような個人の問題としか思えないような記述が残されたのだろう。
 記録を付けたり、文章を作成する仕事は今でもそうだが、要領がよく、ずぼらな人間にこのような仕事をさせたら、ろくな仕事をしてくれない。まじめで几帳面な、どちらかといえば融通が利かないぐらいの人間に向いている。

 情報が満ち溢れ、歴史の改竄などやろうと思っても出来ない現代に生きる我々と異なり、この時代の人々は歴史に対して大変厳しい考え方を持っていた。自分の国の歴史が無惨に改竄され、世の中に広まるということは彼らには耐え難いことだったにちがいない。そのためこのような命がけで抵抗するような人たちが現れたのではないだろうか。

 『日本書紀』の編纂者たちやその他の記録に携わる人たちも同じような苦しい立場だったと思われる。改竄された歴史を後世に残したいと思う者は一人もいなかっただろう。このようなとき彼らは何を考えるであろうか。『日本書紀』とは別の歴史書を私的に裏でこっそりと作成することも考えられる。しかしそのようなことをして、もしばれでもしたら命はない。その苦心の歴史書が後世まで残るという保証もない。

 『日本書紀』などの公的文書の中に書き残すしか手だてはなかったであろう。もちろん真実の歴史を天皇の意向に反してあからさまに書き残すことは許されない。そうならば真実に繋がる手がかりだけでも『日本書紀』や他の記録の中に書き残そうと彼らが考えたとしても決しておかしくはない。
 おそらくその真実に繋がる手がかりは暗示、あるいはトリックといったいわば『暗号』のようなかたちで書き残されているにちがいない。

 この二つの奇妙な記述も『日本書紀』の編纂者たちのそのような意図から書き残されたと考えれば、なぜこのような記述がわざわざ書き残されたのか理解できるのである。
 おそらくこのような記述、すなわち『暗号』はここだけではないだろう。他にも数多く残されているはずである。
 そのような『暗号』を『日本書紀』等の記述の中から見つけだして解読することができれば、歴史の真実の解明につなげることができるはずである。

 さてなんともあっけなく大国主神の正体がわかってしまった。
 大国主神の正体が天武天皇とわかったことは神話と古代史の謎を解き明かす上で大きな手がかりとなるはずである。さらに日本古代史の謎を解いていきたい。