第四章 天武天皇と壬申の乱

 大国主神とスサノオの関係

 ここで注目していただきたいのはスサノオと大国主神の系譜上の関係である。
 ここから実に驚くべきことが判明する。
 『古事記』ではスサノオと大国主神の関係は次の図のようになっている。
 
      
                     スサノオと大国主神の関係

 スサノオの系譜はスサノオと正妻のクシナダヒメの間から六代後に大国主神に繋がっている。『日本書紀』の正伝では大国主神はスサノオの子とされているし、異伝では五代後または六代後の子孫とされている。
 それも単なる子孫ではない。六代もの長きに渡って途中で枝分かれすることなくそのまま、まっすぐ大国主神まで繋がって記述されるというたいへんわかりやすく、しかも特異な形となっている。
 すなわち大国主神はスサノオの直系の子孫なのである。

 そうすると大国主神の正体は天武天皇、スサノオの正体は蘇我馬子と考えられるから天武天皇は蘇我馬子の直系の子孫だったのではないだろうか。そうでなければ天武天皇はこのような系図の書き方はしないだろう。
 おそらく天武天皇は自分は蘇我氏の嫡流であると強く意識していたのではないだろうか。

 蘇我氏の嫡流は、馬子の次は子の蝦夷、そして孫の入鹿と続き、それ以降の記録は存在しないが、天武天皇が蘇我氏の嫡流となると世代から考えて蘇我入鹿の次と考えてよいだろう。

 すなわち天武天皇は実は蘇我入鹿の子だったのではないだろうか。

 『日本書紀』で天武天皇は兄の天智天皇や間人皇女とともに舒明天皇と皇極天皇(後に重祚して斉明天皇、重祚とは一度退位した天皇が再度即位すること)の間の子であると明記されているから、これは明らかに『日本書紀』の記述とは大きく異なることになる。

  
 天武天皇出生の謎

 天武天皇は実は蘇我入鹿の子だったのではないか、というとびっくり仰天された読者も多いのではないだろうか。
 実はこの天武天皇の出生について、強い疑問が主に在野の歴史研究者からだが、近年次々に出されている。
 『日本書紀』では天武天皇と天智天皇はともに父が舒明天皇、母が皇極天皇の実の兄弟とされているのだが、実はそうではないのではないかというのである。

 最初にこの疑問を提出したのは歴史作家の佐々克明氏である(「天智・天武は兄弟だったか」『諸君』 文藝春秋社 一九七四)。ちなみに、氏は危機管理で有名な元内閣安全保障室長の佐々淳行氏の兄である。
 それは次のような理由による。

 まず、『日本書紀』では天武天皇は天智天皇の弟としているが、後世の文献を調べると天武天皇と天智天皇の兄弟関係が逆転してしまうのだ。
 『日本書紀』によれば、天智天皇は父の舒明天皇が舒明天皇十三年(六四一)に亡くなったとき、「東宮開別皇子(天智天皇)、年十六にして誄をされた」とある。

 「誄」とは今で言うと葬式で述べられる弔辞のことだが、舒明天皇十三年に十六歳ということは天智天皇が崩御(六七一年)したときは四十六才だったことがわかる。
 一方、天武天皇については『日本書紀』に年齢の記載が全くない。ただ朱鳥元年(六八六年)九月九日に崩御したと記されているだけだ。

 天武天皇の命で『日本書紀』に至る国史の編纂が開始されたとされ、天武天皇の記載に関して『日本書紀』は三〇巻中二巻を費やしている。一代の天皇に二巻を費やしているのは天武天皇のみで、一巻は壬申の乱を中心とした即位に至る経緯を、もう一巻は即位後の事跡を記している。記載がもっとも多いにもかかわらず、年齢に関する記載が全く存在しないのである。

 ところが後世の歴史書『一代要記』(鎌倉中期成立)や『本朝皇胤紹運録』(南北朝時代成立)などには没年齢が記載され、それによると天武天皇の没年齢は六五歳となっている。
 天武天皇の没年齢を六五歳とすると、天武天皇が崩御したのが朱鳥元年(六八六)だから、天智天皇が崩御した十五年前には天武天皇は五十才だったことになる。

 そうなると天武天皇のほうが天智天皇より四歳年上ということになってしまい、『日本書紀』の記述と食い違うことになってしまう。
 そのため六五歳を五六歳の写し間違い、あるいは錯誤とする説が出され、これだと年齢の矛盾はなくなり、どうしたわけかこの説がいまでは通説となっている。しかしアラビア数字ならともかく、漢数字での記載にこのような写し間違い、錯誤は考えにくく、このような解釈はかなり無理がある。

 天智天皇と天武天皇以外の天皇ではこのような矛盾は生じてはいないので天智天皇と天武天皇の兄弟関係に不審がもたれたのである。
 さらに不可解なのは、天智天皇の娘が四人(大田皇女・鸕野讃良皇女・新田部皇女・大江皇女)も天武天皇に嫁いでいることだ。

 この時代は朝廷内において血統が重視されるあまり、近親結婚が大変多く、たとえば、古人大兄皇子の娘の倭姫皇女は古人大兄皇子の異母弟の中大兄皇子に嫁いでいるし、天武天皇の母の斉明天皇は叔父の舒明天皇に嫁いでいる。また、天武天皇と持統天皇の子の草壁皇子は母の異母妹の阿閉皇女(後の元明天皇)を后として軽皇子(文武天皇)、氷高皇女(元正天皇)をもうけている。

 しかし、兄の娘が実の弟に四人も嫁いだと言うのはいかにも異常である。なにより兄が実の弟に娘を四人も嫁がせなければならない理由が見あたらない。
 そこから天智天皇と天武天皇は実の兄弟ではなく、天智天皇が娘を四人も嫁がせたのは、大海人皇子との争いを避け、自分の側に引きつけておくための政略結婚なのではないかと見られたのだ。
 実の兄弟ならこのような政略結婚は必要ないと言うわけである。


 天智天皇と天武天皇は異父兄弟

 ではこの兄弟は実の兄弟ではないとすると、どのような兄弟だったのだろうか。

 蘇我入鹿は中大兄皇子によって暗殺されているので、大海人皇子の父が蘇我入鹿ということなら父が同一ということはありえないだろう。
 一方、『古事記』の話の内容からみて天武天皇は、天智天皇とは兄弟であるという認識は持っているので、このことから母は同じと見てよい。父が違うのに母まで違っていたら兄弟ではなくなってしまうからだ。
 『日本書紀』の天武天皇即位前紀にも天武天皇は天智天皇の同母弟であると明記されている。

 すなわち天武天皇と天智天皇は、母は同じでも父の異なる異父兄弟だったのではないだろうか。
 このことに関して『日本書紀』の斉明紀のはじめに次のような注目すべき記載がある。

        --------------------
 天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)は、初めに用明天皇の孫高向王に嫁いで、漢皇子をお生みになった。
        --------------------

 斉明天皇は最初に用明天皇の孫の高向王に嫁いで漢皇子という皇子を産み、その後、天智天皇の父の舒明天皇と再婚したというのだ。わざわざ書かなくてもいいような記事である。前述した二つの奇妙な記述もそうであったが、無用とも思えるような記事がさりげなく書かれているというのが『暗号』の特徴の一つである。このような記事には注意しなければならない。

 高向王の名は『日本書紀』のここにだけ見える名で、王となっているので皇族であると思われるが、他の文献には高向王の名は全く存在しない。
 歴史研究家の小林惠子氏がその論文「天武天皇の年齢と出自について」(「東アジアの古代文化」一六号)で、この漢皇子が大海人皇子ではないかとの説を出して以来、この説を唱える研究者が増えている。

 小林惠子氏は、この漢皇子は大海人皇子の別名ではないかと考えたのである。
 天智天皇も中大兄皇子の他に葛城皇子とか開別皇子といった名前があり、天武天皇が複数の名前を持っていたとしてもなんら不思議なことではない。
 筆者も大海人皇子と中大兄皇子は異父兄弟で、漢皇子は大海人皇子の別名であると考えている。

 そうすると天武天皇の父は蘇我入鹿とかんがえられるので、皇極帝の前夫の高向王は蘇我入鹿ということになる。すなわち『日本書紀』は蘇我入鹿とその別名の高向王をあたかも別人のように記し、蘇我入鹿を蘇我氏の系図に、そして入鹿の別名の高向王を皇統譜に記していたと考えられるのである。


 地獄に墜ちた皇極天皇

 蘇我入鹿が皇極天皇の前夫の高向王とすると、大化元年(六四五)六月十二日に起きた乙巳の変(大化の改新)で、蘇我入鹿は飛鳥板蓋宮大極殿において中大兄皇子たちに暗殺されるのだが、蘇我入鹿はなんと気の毒なことに元妻の皇極天皇の眼前で、天皇の再婚相手(舒明天皇)との子である中大兄皇子に惨殺されたことになる。

 これでは蘇我入鹿もたまったものではあるまい。このまま黙って成仏するわけにもいかないだろう。
 このような時、古今東西、人間の考えることは決まっている。
 それは「化けて出てやる」だ。蘇我入鹿もそれを実行に移している。

 『日本書紀』の斉明天皇元年(六五五)五月一日条に

        --------------------
 空に竜に乗ったものが現れた。その容貌は唐の人に似ていた。油を塗った青い絹で作られた笠をつけ、葛城山の方から、空を馳せて生駒山の方向に隠れた。正午頃に住吉の松嶺の上から、西に向かって馳せ去った。
        --------------------

 斉明天皇七年(六六一)五月九日条には 

        --------------------
 宮殿内に鬼火が現れた。このため大舎人や近侍の人々に、病気になって死ぬものが多かった。
        --------------------

 さらに斉明天皇が朝倉宮(福岡県朝倉町)にて崩御した後、
 斉明天皇七年八月一日条には

        --------------------
 この宵、朝倉山の上に鬼があらわれ、大笠を着て喪の儀式を覗き見ていた。人々は皆怪しんだ。
        --------------------

 怪人が空を飛び回っていたり、斉明天皇の周辺に鬼火や鬼が現れたりと現実にこのようなことが起きていたとはとても思えないが、斉明天皇に前夫の殺害に関わったという忌わしい過去が存在することを『日本書紀』の編纂者はこのような不吉な『暗号』として書き残していたのだろう。

 また、長野県に本田善光を開祖として皇極天皇(斉明天皇)の勅願によって創建されたといわれる善光寺がある。
 この善光寺に仏教の誕生から日本への伝来、善光寺創建のいきさつを語った有名な『善光寺縁起』があり、この縁起の中にも皇極天皇に関する記載がある。それはこのような物語だ。

        --------------------
 善光の嫡子善佐が突然死んだため、悲しみに暮れた善光夫婦は善佐の命を救ってくれるよう如来に祈願した。
 そこで如来は地獄の閻魔大王に掛け合うことになった。そして夫婦の願いがかない、善佐はこの世に帰ることになったのだが、その途中で善佐は地獄に堕ちて地獄の責苦に遭っていた高貴な女性と出会う。

 女帝の皇極天皇である。
 このいとやんごとなきご婦人を是非お救い下さるよう善佐は如来にお願いし、如来はお供の観世音菩薩を閻魔大王に遣わし救ってくれるよう乞うのだが、女帝の罪状は重いのでそれは不可能であると拒否されてしまった。しかし何とか願いがかなって、二人とも生きかえることが出来た。娑婆に戻ることができた皇極天皇は大変感謝し、善佐を甲斐の国司に任じ、善光を信濃の国司として、勅願によって善光寺を創建した。
        --------------------

 皇極天皇は地獄に堕ちていたとは散々な書かれようであるが、地獄に堕ちた具体的な理由は書かれていない。皇極天皇が地獄に堕ちたのは以上のような事情があったのである。

    
           蘇我入鹿暗殺の図  多武峯縁起絵巻 

 また奈良県桜井市の藤原鎌足を祀る談山神社に伝わる多武峯縁起絵巻(室町時代)の蘇我入鹿暗殺場面の絵には中大兄皇子によって切り落とされた蘇我入鹿の首が後ろ向きになって逃げようとする皇極天皇に向かって飛んで行く、ちょっと不気味な絵が描かれている。
 おそらく蘇我入鹿暗殺の真相はかなり後世まで一部で密かに語り継がれていたのだろう。このような醜聞めいたうわさ話はなかなか消えて無くならないものだ。『暗号』は様々なところで多くの人々によって残されていたのである。

 この蘇我入鹿暗殺事件は皇極天皇にとって大きな衝撃だったに違いない。事件後すぐに天皇は退位してしまった。そして斉明天皇の晩年は精神的に不安定だったらしく奇行が目立つようになる。
 『日本書紀』の斉明天皇二年(六五六)にはこのような記載がある

        --------------------
 多武峯に、周りを取り巻く垣を築かれた。また頂上の二本の槻の木のそばに高殿を建てた。名付けて両槻宮といった。また天宮ともいった。天皇は工事を好まれ、水工に香久山の西から石上山まで溝を掘らせた。舟二百隻に石上山の石を載せ、水の流れに従って引き、宮の東の山に石を積み垣とした。

 時の人はこれを非難して、「たわむれ心の溝工事。無駄に人夫を三万余も費やした。垣造りの人夫の無駄は七万余。宮材は腐り、山頂は埋もれた」といった。また「石の山岡をつくる。つくった端からこわれるだろう」と非難する者もいた。
        --------------------

 多武峯を中心に石垣を張りつめたような異様な構造物を次々に建造し、斉明天皇のたわむれ心だといって人々のひんしゅくを買ったというのだ。
 このとき斉明天皇が作った宮の遺構が明日香村に遺されている。明日香村岡の「酒船石遺跡」である。

 「酒船石遺跡」は伝飛鳥板蓋宮跡の東方、謎の石造物・酒船石がある丘陵で、平成十一年十一月からの発掘調査で亀型の石造物や大規模な石垣の遺構の一部が見つかり全国的な話題になったので覚えておられる方も多いと思う。


 天智天皇は父の仇

 また、天武天皇が蘇我入鹿の子だったとすると、天武天皇にとって天智天皇は、父の仇ということになる。
 『古事記』において天武天皇が兄の天智天皇をこき下ろしているのもこれが原因と見てよいだろう。
 父の仇とはいえ、一方では母を同じくする血の繋がった兄弟だから母の目の前で敵討ちをするわけにもいかず『古事記』のなかで立派でない人物を、天智天皇をモデルに描くことによって鬱憤晴らしをしたというところではないだろうか。

 また、乙巳の変において中大兄皇子達は蘇我蝦夷、入鹿の殺害には成功したが、大海人皇子は逃がしてしまったのだろう。
 このような事態は周到な計画を立てていた中大兄皇子にとっては計算外のことであった。
 したがって、その後の関係改善のため、次々と自分の娘を大海人皇子に嫁がせたものと思われる。

 中大兄皇子とともに入鹿の殺害に加わった中臣鎌足も同じく自分の娘の、藤原氷上娘と藤原五百重娘の二人を大海人皇子に嫁がせている。一方、鎌足は中大兄皇子には娘を一人も嫁がせていない。中臣鎌足は乙巳の変の首謀者の一人だから大海人皇子には特に気を遣わざるをえなかったのだろう。

 しかし、このぐらいでは大海人皇子の怒りは収まらなかったらしく、天智天皇の即位を祝う宴で、大海人皇子が突然長槍で敷板を刺し貫き、激怒した天皇は、大海人皇子を殺そうとしたが、中臣鎌足の必死のとりなしで事なきを得たという話が『大織冠伝』(鎌足の伝記)に記載されていて、この事件以降、それまで中臣鎌足を嫌っていた大海人皇子は鎌足に対する考え方を改めたといわれている。


 なぜ中大兄皇子は長年即位できなかったか


 中大兄皇子は孝徳天皇の時、皇太子とされながら、孝徳天皇崩御の後、中大兄皇子は天皇に即位せず、母が重祚して天皇に即位する。斉明天皇没後は、七年間も即位せずに政務を執って(称制という)おり、足かけ23年間も皇太子のままであった。これは古代史の大きな謎とされている。

 この謎は大海人皇子が蘇我入鹿の子と考えれば容易に説明することができる。

 蘇我馬子や蘇我蝦夷がそうだったが蘇我の宗本家は皇位継承の決定権を握っていた。中大兄皇子は天皇に即位したくても蘇我宗本家にあたる大海人皇子の同意なしには即位することはできなかったのではないだろうか。

 おそらく父の仇である中大兄皇子の天皇即位を大海人皇子は簡単には承認しなかったのだろう。そこでしかたなく二人の母の皇極天皇が再度斉明天皇として即位したものと思われる。
 斉明天皇六年(六六〇)に百済が唐に攻められて滅亡し、百済復興を目指し斉明天皇は九州の筑紫の朝倉宮に移るがまもなくそこで崩御した。

 その後、孝徳天皇の皇后で中大兄皇子の実妹の間人皇女が天皇の地位を代行していた(中皇命として万葉集に登場する)と思われるが、その間人皇女も天智天皇四年(六六五)に没し、中大兄皇子以外には天皇に即位できる人物はいなくなる。

 天皇位は空位になり、誰も即位しないまま中大兄皇子が政務を執り続けるが、百済復興を目指し朝鮮半島に派遣した日本軍が白村江の戦い(六六三年)で大敗し、国防の強化を迫られるに及び、さすがにいつまでも天皇を空位にしておくわけにもいかず、中大兄皇子の天皇即位(六六八年)を大海人皇子はしぶしぶ了承したのではないかと筆者は考えている。


 壬申の乱はなぜ起きたのか

 大海人皇子が蘇我入鹿の子となると壬申の乱の原因も考えやすくなる。

 壬申の乱は皇位に野心をもっていた大海人皇子と、天智天皇の子で皇太子の大友皇子が天智天皇の崩御後、皇位継承を巡って戦ったというのが通説となっていて教科書にもそう説明されている。
 しかし筆者はこの説には全く従えない。

 なぜなら大友皇子の妃は大海人皇子の娘の十市皇女である。しかも額田王との間に生まれた大海人皇子にとっては最初の子で、彼女に対する思いはひとしおだったはず。しかも二人の間には葛野王という子も生まれていた。

 古代において妃や母の実家は天皇にとっては重要な政権基盤だったから大海人皇子は天皇に即位しなくても大きな影響力を行使できる立場にあったはずだ。現に後の藤原氏はこのような形で権勢を誇ってきた。
 天智天皇からの即位の要請を断り、出家した大海人皇子が大友皇子を倒してまで皇位に就きたいと思っていたとは考えられないのである。

 一方大友皇子にとって、大海人皇子は叔父であるとともに義父にもなる。大友皇子の母は伊賀国出身の妥女(地方豪族から天皇に献上された身分の低い女官)だから母方の実家の実力はしれている。大友皇子にとって強力な後ろ盾になり得るのは妃の父の大海人皇子しかいなかったはずである。
 大友皇子は大海人皇子との関係を重視しこそすれ殺害しなければならない理由はない。大海人皇子がいなくなると一番困るのは大友皇子自身である。

 ではなぜ壬申の乱は起きたのであろうか。
 蘇我入鹿や蝦夷が殺害された乙巳の変では中大兄皇子や中臣鎌足以外にも多くの者が事件に関わっていたと考えられる。それらの者達やその関係者は天智朝においてまだ多くいたと考えられ、彼らは大海人皇子の存在を恐れていたのではないだろうか。

 大海人皇子が吉野へ出家する際に、宇治まで見送りに来た重臣達のだれかが「翼をつけた虎を野に放したようなものだ」といったのはその現れだ。「虎」は強くて恐ろしいものを象徴している。その虎を自由にしてしまったことを重臣達は不安に思っていたのである。

 さらに天智天皇の死後、大友皇子の政権基盤の脆弱さにつけ込み、政治の実権を握ることも考えていた彼らにとって、大海人皇子はなんとしても排除しておきたい存在だったと思われる。
 天智天皇の崩御後、彼らは大海人皇子の殺害を共謀し、大友皇子はそれに巻き込まれたというのが事件の真相だったのではないだろうか。

 『日本書紀』の中でも大海人皇子とその臣下は、大海人皇子の殺害を謀っているのは近江朝の廷臣であるといっており、大友皇子だとは一切書かれていない。
 むしろ大友皇子は大海人皇子殺害には消極的だったようで、大海人皇子が東国に脱出した直後、大海人皇子を急追するよう臣下から進言を受けたが大友皇子はそれには従わなかったと『日本書紀』には記されている。

 このことに関してNHKの某歴史番組の中で大友皇子は大海人皇子を追撃せずにむしろ堂々と戦いを挑み、大海人皇子だけでなくその支持勢力をも一掃しようと考えていたとのコメントがされていたが、当時の近江朝廷の状況を全く無視した内容にびっくりした。大海人皇子が近江から吉野に向かったというだけで不安におののき、東国に脱出したと聞かされて大騒ぎになった近江朝廷側にそのような余裕があるとは思えない。

 このような場合にはたとえ失敗に終わろうとも、一刻も早く追撃し、相手の戦力が不十分なうちに決戦に持ちこむというのが戦いの定石だ。臣下の進言に従わなかった大友皇子には大海人皇子と戦うという積極的な意志は無かったと見るべきである。

 大友皇子の后、十市皇女の父である大海人皇子も同じ気持ちを持っていたと思われる。
 大海人皇子が天智天皇から即位することを打診されたとき、大海人皇子は即位を断ると共に皇后を天皇に即位させることを進言している。

 天智天皇が崩御した後、その重臣達との間に戦いが起こりうることは大海人皇子も十分覚悟していただろう。もしそうなった場合、女帝なら傍観することも可能で少なくとも命を落とすことはないだろうが、大友皇子が天皇に即位していたのではその立場上、戦いに巻き込まれざるを得ないのである。

 有間皇子の殺害にも関わり、重臣達のなかで最高位の左大臣蘇我赤兄を中心とする近江朝廷の重臣たちと大海人皇子の権力闘争だったというのが壬申の乱に対する筆者の考えである。

 乱の後、天武天皇は若くして自ら命を絶つ事になってしまった大友皇子を不憫に思っていたようで、大友皇子には葛野王と大友与多王という二人の男子がいたが、二人とも殺されることも流罪になることもなかった。
 葛野王は後の持統朝で活躍していた。また大友与多王は後に父を弔うため寺を建てているが、その時に天武天皇から「園城寺」の勅額を賜ったといわれている。勅額を賜ったというのだから寺の創建にあたってはかなりの支援を受けたのだろう。

 この寺が滋賀県大津市にある湖国きっての名刹として知られる天台寺門宗総本山、園城寺(三井寺)で、大友皇子の墓(弘文天皇陵)はこの寺の近くにある。


 年上の天武天皇がなぜ弟か

 さて、大海人皇子が実は皇極天皇が最初に嫁いだ高向王、すなわち蘇我入鹿の子だとすると、大海人皇子の方が皇極天皇が舒明天皇と再婚してもうけた中大兄皇子より年上だということになるが、ここで読者は大きな疑問をいだかれたはずだ。

 『日本書紀』の中で大海人皇子は皇弟、大皇弟、あるいは皇太弟と書かれている。『古事記』の神話や説話の内容からも大海人皇子は、自分は弟であるという認識を持っていたことがわかる。
 なぜ大海人皇子は中大兄皇子より年上にもかかわらず弟なのだろうか。

 年上の妻というのはよく聞く話だが兄より年上の弟というのはまず聞いたことがない。
 兄より年下だからこそ弟なのではないのか。
 大海人皇子と中大兄皇子を異父兄弟とし、大海人皇子を中大兄皇子より年上と見る研究者もこの問題は避けている。しかし避けて通れる問題ではないだろう。

 また、大海人皇子が蘇我入鹿の子ということなら彼は皇族でなかったことになる。それなのになぜ彼は天智天皇の皇太子となり、壬申の乱の後、天智天皇の後継者として天皇に即位できたのであろうか。
 この謎を解き明かすためにさらにスサノオについて調べていきたい。