第五章 スサノオと天皇家


 祭神がスサノオに変わったのはなぜか

 出雲大社の祭神が平安時代になってから大国主神からスサノオに変わったことは前述したがこのことをさらに掘り下げて考えてみたい。
 実は奈良時代から平安時代にかけて、天皇家にも大きな変化が生じていた。次の天皇の系譜を見ていただきたい。

       
                 天智天皇から桓武天皇

 天智天皇の崩御の後、壬申の乱に勝利した大海人皇子が天皇に即位(天武天皇)し、それ以降、天皇は持統天皇(女帝)、文武天皇、元明天皇(女帝)、元正天皇(女帝)、聖武天皇、孝謙天皇(女帝)、淳仁天皇、称徳天皇(女帝、孝謙天皇が重祚)と続く。
 この天武天皇に繋がる天皇を天武系の天皇という。

 ところが、天武系の天皇は称徳天皇を最後に断絶する。
 この称徳天皇というのは例の怪僧弓削道鏡に入れあげた挙げ句、すったもんだを引き起こしたことで有名な女帝である。称徳天皇朝において、天武系の多くの有力な皇族が粛清されてしまったため天武系の適当な後継者がいなくなってしまったのである。

 そこで称徳天皇の崩御後、天智天皇の孫の白壁王に白羽の矢が立ち、宝亀元年(七七〇)十月一日、天皇(光仁天皇)に即位する。
 光仁天皇は和銅二年(七〇九)の一〇月一三日生まれというから即位したときの年齢は六十二歳とかなりの高齢であった。今では六十二歳の人を老人呼ばわりしたら怒られるが当時としては立派な老人である。

 『続日本紀』の光仁天皇即位前紀には、白壁王は孝謙朝以降、次々と起きた皇位継承をめぐる政争に巻き込まれて暗殺されることを恐れ、酒を飲んでは行方をくらましていたと情けないようなことが記載されている。

 この時代は淳仁天皇が廃位になって淡路島に流され横死したり、長屋王が陰謀にはまって自刃したりと有力な皇族にとっては受難の時代で、そこで白壁王は自分に禍が及ぶのを恐れ、アル中で無能を装っていたのだ。
 ところがその白壁王に突然皇位が転がり込んできた。要するに時の実力者の左大臣藤原永手らによって担ぎ出されたのである。

 光仁天皇以降、天皇家は他の系統に切り替わることなく現在の天皇に続いている。
 この天智天皇に繋がる天皇を天智系の天皇という。
 そして、光仁天皇の子の山部王が次に天皇に即位(桓武天皇)する。この桓武天皇の時、都が京都に遷都され平安時代が始まることになるのである。

 すなわち、奈良時代天武系の天皇の時代には出雲大社には大国主神(天武天皇)が祀られ、天皇が天智系に切り替わった平安時代以降にはスサノオ(蘇我馬子)が祀られていたことになる。
 これはいったいどういう理由からであろうか。天智系の天皇のスサノオに対する崇拝は出雲大社だけにとどまらない。


 上皇達の熊野詣

 平成一六年七月七日に『紀伊山地の霊場と参詣道』がユネスコの世界遺産リストに登録され、色々話題になったが、その紀伊山地の霊場の中心に位置するのが熊野三大社(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)、いわゆる熊野三山で、神と仏をともに祀る神仏習合の熊野信仰の霊場で古来より修験道の修行の地とされている。

 延喜七年(九〇七)に宇田上皇が熊野に詣でて以来、亀山上皇までの歴代の上皇たちは熱心に熊野詣(上皇の熊野詣は熊野御幸という)を繰り返し、その様子は「蟻の熊野詣」にたとえられるほどで熊野へ参拝する都人はあとを絶たなかったと言われている。
 宇田上皇の熊野詣から一八三年後の寛治四年(一〇九〇)に白河上皇が熊野を詣で、この白河上皇がじつに九回もの熊野詣をした。この白河上皇の度重なる熊野詣が、熊野信仰が高まるきっかけとなったといわれている。

 多くの上皇が熊野詣をしているが、とりわけ白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇、後鳥羽上皇の四人の上皇が熱心に熊野詣をしている。というより上皇の熊野詣はほとんどこの四人の上皇に限られる。
 中でも後白河上皇は三四回、後鳥羽上皇は二八回も訪れている。
 しかしなぜこの時代上皇達は盛んに熊野詣をしたのであろうか。このことは大きな謎とされている。

 この時代の動きは興味深く、また複雑なので簡単に説明しておこう。
 熊野詣が盛んになるきっかけになった白河上皇はそれまで朝廷を支配していた藤原氏から政治の実権を奪い、「院政」を始めた上皇として知られている。
 それまでの藤原氏のおこなった政治は摂関政治と呼ばれていた。 

 自分の娘を天皇に嫁がせ、生まれた男子を天皇にする、そして自分は天皇の外祖父として天皇が幼少の頃は摂政、天皇が成人してからは関白として政治の実権を握るというのが摂関政治である。これを繰り返し行うことによって藤原氏は朝廷の実権を長期間にわたって維持してきたのである。

 ところが藤原氏の娘を母にもった後冷泉天皇のときに一人の子もできないまま天皇が崩御してしまったため、宇多天皇以来一七〇年ぶりに藤原氏と外戚関係をもたない弟の尊仁親王が後三条天皇として即位(一〇三四年)してしまった。

 後三条天皇は政治の実権を藤原氏から取りあげ、国政の改革を行う。子の白河天皇は、母は藤原氏の出身だったが、いったん取り上げた政治の実権を藤原氏に戻すことはなく父の路線を引き継いだ。應徳三年(一〇八六)に天皇の位を子の善仁親王(堀河天皇)に譲り、上皇になったのちも政治の実権は手放さなかった。これを「院政」という。

 政治の実権を奪われた藤原氏の地位は完全に下落し、逆に白河上皇は「意の如くにならざるもの、鴨河の水、双六の賽、山法師の三つ」という言葉が残るほど権勢を誇るようになった。
 大治四年(一一二九)、白河上皇が崩御すると、その権力と富はそのころ既に天皇を退位し上皇になっていた孫の鳥羽上皇に移る。

 永治元年(一一四一)、鳥羽上皇は子の崇徳天皇を退位させて、崇徳とは異母弟の躰仁親王(近衛天皇)を即位させた。しかし、近衛天皇は久壽二年(一一五五)、わずか十六歳で、子をもうけることなく崩御してしまった。
 そこで鳥羽上皇は崇徳の同母弟の雅仁親王(後白河天皇)を二十九歳で即位させ、その子を皇太子とした。

 翌年、鳥羽上皇が崩御する。するとその直後、これまで鳥羽上皇に押さえられ続け、不満を抱いていた崇徳上皇が実力で政権を奪うべく挙兵し、保元元年(一一五六)後白河天皇の間に戦いが起こる。これが武家の政治が始まるきっかけとなった保元の乱である。
 この戦いは後白河天皇側の勝利に終わり、崇徳上皇は讃岐に配流され、京都に帰れぬまま不遇の最期を遂げた。

 保元の乱からわずか三年後の平治元年(一一五九)、こんどは平清盛と源義朝の間に戦いが起こる。平治の乱である。平清盛が勝利をおさめ,平氏が政治の実権をにぎり、今度は「平氏にあらざれば人にあらず」と言われるほどの平家の全盛時代となってしまった。

 そのため政治の実権を奪われた後白河上皇は武家政権打倒の陰謀を次々に画策し、その手腕は源頼朝をして「日本国第一の大天狗」とあきれさせている。
 その後平氏は源氏によって滅ぼされ、源頼朝によって鎌倉幕府が開かれることとなる。

 後白河上皇の後を継いだ孫の後鳥羽上皇は承久三年(一二二一)鎌倉幕府倒幕のため挙兵(承久の乱)したがあえなく失敗、隠岐に島流しにされてしまった。
 これにより政治の実権は完全に武士に移るとともにあれほど盛んだった上皇達の熊野詣も終焉を迎えたのである。

 このように上皇達が盛んに熊野詣を繰り返していた時期はそれまで政治の実権を握っていた藤原氏が没落し、それに代わって武士が台頭し、朝廷といろいろな軋轢を生じていた時代と重なる。

 そして盛んに熊野詣を繰り返していた四人の上皇達は「治天の君」と呼ばれた天皇家の実権を握っていた実力者達なのである。天皇や「治天の君」ではない上皇はほとんど熊野詣をしていない。

 後白河上皇は三四回熊野詣をしているが熊野本宮大社には毎回必ず参拝しているのに対し、熊野速玉大社、熊野那智大社には十五回参拝したのみである。このことから上皇たちの熊野詣の目的は熊野本宮大社参拝であったことがわかる。

 熊野本宮大社の主祭神は家津御子大神(ケツミコノオオカミ)である。ずいぶん変わった名前だがこの神はスサノオのこととされている。 
 すなわちこの時代、藤原氏や武家たちとの権力闘争の矢面に立っていた「治天の君」達は熊野本宮大社を盛んに参拝し、そこに祀られていたスサノオに頭を垂れていたのである。


 後醍醐天皇と出雲大社

 天皇家とスサノオの関係はさらに続く。
 文保二年(一三一八)後醍醐天皇が即位する。
 後醍醐天皇は元寇の役ののち、鎌倉幕府に武士達の不満が募っていたのにつけ込み倒幕を計画したのである。

 まず正中元年(一三二四)に鎌倉幕府打倒を計画したが事前に発覚し失敗してしまった。
 しかし天皇の倒幕の意志は固く、元弘元年(一三三一)に再度倒幕をくわだてたが肝心の兵が集まらず失敗、天皇は捕らえられて翌年隠岐島に流罪となってしまった。
 しかしそれでも倒幕をあきらめなかった後醍醐天皇は元弘三年(一三三三)、名和長年ら名和一族の働きで隠岐島から脱出し、伯耆国船上山(鳥取県東伯郡琴浦町)で再度挙兵したのである。

 その後、後醍醐天皇は足利尊氏や新田義貞、楠木正成達の働きで鎌倉幕府を倒すのだが(建武の中興)、隠岐島から脱出した際、天皇は船上山から三月十四日、出雲大社に対して一通の綸旨(紙本墨書後醍醐天皇王道再興綸旨、重要文化財)を送っている。 

 その内容は出雲大社に天皇政治の再興を誓い奉り、その成就を祈念したものだがそのわずか三日後の三月一七日に、今度は三種神器の一つである草薙剣の代わりとして出雲大社の神剣のうち一振りを差し出すように命じた綸旨(後醍醐天皇宝剣勅望綸旨、重要文化財)を出している。

 その後、出雲大社から差し出された神剣を手にした後醍醐天皇はたいそう喜んだと伝えられている。
 前述したようにこの頃の出雲大社の祭神はスサノオである。草薙剣の代わりに出雲大社の神剣を所望した後醍醐天皇は自分をスサノオになぞらえていたのである。


 明治天皇と氷川神社

 さらに天皇家のスサノオに対する崇拝は明治維新にも及ぶ。
 明治天皇は明治元年(一八六八)九月、長年天皇の住まいであった京都御所を発って江戸に向かい、十月十三日に江戸城に入った。

 その直後の一七日には埼玉県さいたま市(旧大宮市)の氷川神社を「武蔵野国総鎮守」とする勅書を出し、十一日後の二八日に氷川神社に行幸し、祭祀を行っている。
 天皇が勅使を差し遣わして奉幣を行う神社のことを勅祭社というが、明治維新以降近代になってからの正式な勅祭社は、この氷川神社が最初である。

 ちなみに氷川神社の氷川は出雲を流れる簸川に由来するといわれている。
 また、行幸の直前の十月二十日に祭神をスサノオだけとし、それまで祀られていた大国主神、櫛稲田姫を祭神から外している。ただし、のちに元出雲国造であった千家尊福が埼玉県知事に就任した際に大国主神、櫛稲田姫は再び祭神に戻され現在に至っている。

 このようにスサノオは歴代天皇に大変崇拝されていたことがおわかりいただけると思う。それも天皇家にとって大きな節目ごとにスサノオに篤い崇拝をよせていたことになる。
 スサノオは神話の中においてアマテラスに反逆し追放される神として描かれ、その正体は蘇我馬子なのだからこれは一体どうしたわけであろうか。

 それに較べると皇祖神とされるアマテラスを祀る伊勢神宮への天皇の行幸は江戸時代までは持統天皇しか記録になく、初代天皇の神武天皇を祀る橿原神宮が創建されたのも明治二十三年(一八九〇)でしかない。それも地元の有志の運動によって建てられたというのだから、歴代の天皇の出雲神、とりわけスサノオに対する崇拝は際だっている。

 なぜ歴代の天皇はこれほどまでにスサノオを崇拝していたのであろうか。
 奈良時代の天武系の天皇が天武天皇を大国主神として出雲大社に祀り崇拝していたのは良く理解できる。天武系の天皇にとって天武天皇は偉大な先祖だったからだ。彼らは天武天皇を皇統譜の起点すなわち皇祖として認識し、天武天皇を大国主神として出雲大社に祀っていたのである。

 ではなぜ、平安時代以降の天智系の天皇は出雲大社の祭神をスサノオに切り替え、それ以後スサノオをこれほどまでに熱心に崇拝していたのであろうか。
 考えられる理由はただ一つだ。

 それは「実は天智系の天皇と蘇我馬子は血で繋がっている。それも太い繋がりがある。」と考えるほかない。

 天武系の天皇にとっての天武天皇がそうであったように、天智系の天皇は蘇我馬子を皇統譜の起点すなわち彼らにとっての皇祖として認識していたのではないだろうか
 そう考えれば出雲大社の祭神が平安時代になって大国主神からスサノオに切り替わったことが理解できるのである。

 このように歴代天皇のスサノオに対する態度は明らかに蘇我馬子と天智系の天皇には血の繋がりがあることを窺わせるものがある。
 しかし『日本書紀』の記述では天智天皇と蘇我馬子の間には一切血の繋がりはないことになっている。血の繋がりがあるということは『日本書紀』のどこかに欺瞞があるということになる。
 次に、このことを確かめるために『日本書紀』の記述から蘇我馬子と天智天皇の関係を探って見ることにしたい。