第六章 天智天皇の出自


 謎の皇子 押坂彦人大兄皇子

 『日本書紀』では中大兄皇子の父は舒明天皇となっている。このことに関しては何ら不審な点はない。舒明天皇が中大兄皇子の父であることは間違いないと思うが、問題は祖父の押坂彦人大兄皇子である。

 この人物が怪人物である。

 『日本書紀』によれば押坂彦人大兄皇子の系譜は次のようになっている。

         

               押坂彦人大兄皇子の系譜

 押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の第一皇子で、またの名を麻呂子皇子ともいい、母は息長真手王の娘で敏達天皇の皇后の広姫とされている。
 広姫の没後、豊御食炊屋姫(後の推古天皇)が皇后に立てられているので敏達天皇は皇后を二人立てていることになる。皇后を二人立てた天皇は歴史上何人かいるが六世紀から八世紀にかけては唯一の例となっている。

  『日本書紀』には太子彦人皇子とも書かれているので、時期は不明だが敏達期において太子の地位にあったとされ、舒明天皇の父であり、天智天皇、天武天皇、皇極天皇(斉明天皇)、孝徳天皇の祖父に当たる人物だから、皇統譜の上では大変重要な人物だ。
 ところがこの人物、調べれば調べるほど、驚くほど謎の多い人物である。

 『日本書紀』の大化二年(六四六)三月二十日条の中に「皇祖大兄」の名が見え、それに「彦人大兄をいう」の註が施されている。
 このことから押坂彦人大兄皇子は「皇祖大兄」と呼ばれていたことがわかる。しかし押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の皇子だから「皇祖」と呼ばれるのは不可解である。じつはこれは『日本書紀』の編纂者が残した『暗号』の中でも最も重要な『暗号』の一つなのだがこの謎は後に解きたい。

 さらに、生没年、没年齢に関する記載が一切ない。
 このうち生年、没年齢については『日本書紀』には天皇や皇族の生年、没年齢は書かれていない方が普通だから書かれていないのは問題ないのだが、これだけ重要な人物にもかかわらず没年について全く記載が無いのは不審としか言いようがない。

 舒明天皇の没年齢が「本朝皇胤紹運録」、「神皇正統記」などによると四九才である。この年齢は他の史料でもほぼ一致している。没年は六四一年だから生年は推古元年(五九三)ごろになる。そのころに押坂彦人大兄皇子が生存していたことはまずまちがいないだろう。

 また、推古天皇は敏達天皇(五八五年没)に一八才で嫁いで皇后となり二男五女をもうけている。三四才のとき敏達天皇が崩御し、三九才で天皇に即位(五九三年)しているので、押坂彦人大兄皇子の妃となった末子の桜井弓張皇女はすくなくとも推古天皇の即位後に妃になったものと思われる。

 その後桜井弓張皇女は山背王と笠縫王の二人の子を産んだとされているので、おそらく、推古天皇八年(六〇〇)以降も生存していたものと思われるが没年についての記載が全く存在しないのである。
 事跡についてもその記載はわずかしかないが、その内容は実に興味深いものがある。

 『日本書紀』の用明二年(五八六)四月二日条に

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 中臣勝海連が自分の家に兵を集めて、物部守屋を助けようとした。そして太子彦人皇子と竹田皇子の像を作り、その像を傷つけ、呪った。しばらくして事の成り難いことを知って、帰って彦人皇子の水派宮の方についた。
 舎人迹見赤檮(とねりとみのいちい)は勝海連が彦人皇子の所から退くのを伺い、刀を抜いて殺した。
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 敏達天皇一四年(五八五)三月一日に中臣勝海連は物部守屋とともに崇仏派の蘇我馬子に対抗して、天皇に仏教を排するよう奏上した人物で反蘇我馬子派の重要人物の一人とされている。

 その中臣勝海連が物部守屋を助けるため太子彦人皇子と竹田皇子を呪ったというのだが、物部守屋や中臣勝海連が最も敵対視していたはずの蘇我馬子の名がこの中にはない。
 その後物部守屋を裏切って押坂彦人大兄皇子の側につこうとした中臣勝海連を彦人皇子は許すことなく舎人の迹見赤檮に斬殺させたというのだから、押坂彦人大兄皇子はかなり激しい性格の人物と思われる。

 用明二年(五八六)四月二日というと敏達天皇の跡を継いで天皇に即位した用明天皇が重い病にかかり、物部守屋と蘇我馬子の確執がいよいよ激しくなった頃である。
 四月九日に用明天皇が崩御し、その後継をめぐり両者が戦いを交えたのは七月だからこの話はその直前と言うことになる。

 そのころに押坂彦人大兄皇子は竹田皇子とともに物部守屋側にもっとも憎まれていた人物とおもわれる。すなわち物部守屋と蘇我馬子の対立の渦中にあったということである。
 ところが面白いことに、物部守屋と蘇我馬子の戦いにおいて蘇我馬子の側に味方した皇族や重臣たちの名前が『日本書紀』の記述の中には出てくるがその中に押坂彦人大兄皇子の名がないのである。

 しかも押坂彦人大兄皇子の名がありませんよといわんばかりに蘇我馬子の側に味方した全ての皇子の名前をこの時に限ってすべて列挙している。なんとも微妙な書き方をするものである。『日本書紀』がこのような書き方をするときにはトリック、すなわち『暗号』の存在を疑わなければならない。
 そしてこれ以降、押坂彦人大兄皇子の名は歴史に全く登場しなくなる。病死したか、あるいは蘇我馬子に暗殺されたのではないかというのが通説とされているが、もちろんそのような記録は一切ない。

 『日本書紀』は押坂彦人大兄皇子の曾孫、元明天皇の監修の元に編纂されていたと思われるから、これほど重要な人物にこの程度の事跡しか残されておらず、没年の記載すら無いというのは実に不可解なことと言わなければならない。
 また、『日本書紀』の中の物部守屋と蘇我馬子の戦いの記述の中に次のような記載がある。

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 迹見首赤檮が大連(物部守屋)を木の股から射落として、大連とその子らを殺した。
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 迹見首赤檮は前述の押坂彦人大兄皇子の屋敷から出てきた中臣勝海連を斬り殺した舎人の迹見赤檮と同一人物である。なんと、押坂彦人大兄皇子は戦いに名が見えなくともその舎人の迹見赤檮は戦いに参加していたのである。

 迹見首赤檮はなかなか剛の者だったらしく、物部守屋とその子達を討ち取るという大活躍をしていたというのである。この迹見首赤檮の活躍によってそれまで馬子側の苦戦だった戦況が一変、戦いは馬子の勝利に終わることになる。
 この後、迹見首赤檮はこの戦いの功によって、馬子より田一万代(一代は百畝)を賜っている。

 ちなみにこの迹見赤檮は聖徳太子の生涯を記した『聖徳太子伝暦』によれば、聖徳太子の舎人とされている。
 舎人は天皇や皇族に近侍する官吏のことでその警護も担っていたから忠誠心の強い人物が選ばれていたはずである。「忠臣二君に仕えず」という諺もあるように忠誠心の強い人物はそう簡単には仕える主を代えたりはしないものだ。もし、そうだとすると聖徳太子と押坂彦人大兄皇子はきわめて近い関係だったことになる。


 押坂彦人大兄皇子の不可解な人間関係
 
 さらにその系譜の内容も大変不可解なものだ。
 押坂彦人大兄皇子には『日本書紀』の記載によれば四人の后がいる。糠手姫皇女、大俣女王、小墾田皇女、桜井弓張皇女の四人である。そのうち小墾田皇女、桜井弓張皇女は敏達天皇の皇后、推古天皇の娘だ。

 また、糠手姫皇女の母は敏達天皇の采女、伊勢大鹿首小熊の女の伊勢菟名子で、糠手姫皇女は敏達天皇と伊勢菟名子の間に生まれた子である。したがって三人とも父は敏達天皇ということになる。一方押坂彦人大兄皇子は前述したように敏達天皇と皇后の広姫の第一皇子とされている。ということは、押坂彦人大兄皇子はなんと自分の異母妹を三人も后にしていたことになる。

 この時代、近親結婚はさほど珍しいことではないが、自分の異母妹を三人も后にするとなると何とも異常なこととしかいいようがない。
 飛鳥時代、皇族で自分の妹を娶ったというケースは、押坂彦人大兄皇子の父とされる敏達天皇が異母妹の豊御食炊屋姫(推古天皇)を皇后にしているので前例がないわけではない。しかし皇族が自分の妹を娶る場合は皇后、正后に限られ、ましてや三人ともなると他に例をみない。「万葉的おおらかさ」と解釈するにも程度というものがある。

 これに較べると天武天皇が兄の天智天皇の娘を四人も妃にしていたことのほうがよっぽどまともである。
 押坂彦人大兄皇子はほんとうに敏達天皇の皇子だろうか。そもそも敏達天皇の第一皇子で太子とされながら天皇に即位しなかったという点も不審である。


 巨大古墳 牧野古墳の謎

 さらに押坂彦人大兄皇子にはその墓の記録が残されているのだがその規模が実に驚くべきものだ。
 『延喜式』の中の諸陵寮という項目には歴代天皇、皇族、貴族の陵墓の名称、位置やその規模が記載されている。右の図を見ていただきたい。陵墓の規模は墳丘の規模ではなく陵域を表している。


               表(延喜式に記載された主な陵墓)
被葬者名 没年 東西(町)・南北(町) 陵墓名
神武天皇 - 1・2 畝傍山東北陵
応神天皇 - 5・5 惠我藻伏崗陵
仁徳天皇 - 8・8 百舌鳥耳原中陵
雄略天皇 - 3・3 丹比高鷲原陵
継体天皇 531 3・3 三嶋藍野陵
欽明天皇 571 4・4 檜隈坂合陵
敏達天皇 585 3・3 河内磯長中尾陵
用明天皇 587 2・3 河内磯長原陵
崇峻天皇 592 ー ・ ー 倉梯岡陵
聖徳太子 622 3・2 磯長墓
推古天皇 628 2・2 磯長山田陵
押坂彦人大兄 ? 15・20 成相墓
茅渟皇子 ? 5・5 片岡葦田墓
舒明天皇 641 9・6 押坂内陵
孝徳天皇 654 5・5 大阪磯長陵
斉明天皇 661 5・5 越智崗上陵
天智天皇 671 14・14 山科陵
天武天皇 686 5・4 檜隈大内陵
藤原不比等 720 12・12 多武峯墓
藤原武智麻呂 737 15・15 後阿{施}墓
藤原良継 777 15・15 阿{施}墓


 これをみると押坂彦人大兄皇子の墓域が最大であることがわかる。
 その規模は実に南北二十町と東西十五町である。
 一町は約百九メートルだから南北約二千二百メートル、東西約千六百メートルもあったということになりその大きさはまったく尋常ではない。

 日本最大の墳墓といえば誰もが思い出すのは仁徳天皇陵である。確かに墳丘だけならそうであるが墓域で比較すればおそらくこの牧野古墳が日本最大の墳墓だろう。

 『延喜式』が編纂された時代は藤原氏の全盛期で、歴代藤原氏の墓の墓域はさすがに大きいのだが、それを除くと、次が天智天皇の十四町と十四町である。この二つがたいへん大きく、墳丘の長さが五百メートルもある仁徳天皇の陵域が八町四方、押坂彦人大兄皇子の父とされる敏達天皇が三町四方、押坂彦人大兄皇子の子の舒明天皇が南北六町東西九町、推古天皇の皇太子だった聖徳太子でも三町四方なので、天皇に即位したわけでもない押坂彦人大兄皇子の墓の墓域は抜群の大きさである。

 いったいどうしてこのように大きいのであろうか。
 大きいのは墓域だけではない。その墳丘もこの時代、最大級の大きさを誇っている。

 押坂彦人大兄皇子の陵墓の位置は『延喜式』の諸陵寮によると大和国広瀬となっている。現在の奈良県北葛城郡広陵町のあたりである。
 広陵町は法隆寺のある斑鳩から南へ約五キロメートル、斑鳩と明日香の間にある町で、広陵町という町の名前からして大きな陵墓の存在をうかがわせる。

 墓の名は『延喜式』によれば成相墓となっている。
 四世紀から五世紀にかけての古墳群があることで有名な馬見丘陵公園を東西に通り、竹取公園の前を通ってほぼ西に延びる緩い上り坂になった広い道路がある。この道を一キロメートル程行き、坂を上りきったところで、右手の住宅街の中に緑の樹木に覆われた一角が見えてくる。

     
                牧野古墳全景  奈良県広陵町

 これが押坂彦人大兄皇子の墓とされる牧野古墳のある牧野史跡公園である。
 牧野古墳を過ぎると道路は一転して下り坂に変わるので牧野古墳は巨大でなだらかな丘陵の頂点にあることになる。
 この近辺は近年新興住宅街として開発された所なのだが、残念なことに古墳の墳丘だけを残して周りはすっかり住宅地として開発されてしまっている。

 馬見丘陵には多くの古墳があるのだが、この牧野史跡公園の付近には牧野古墳と同時代の古墳が全くなく一基だけぽつんと孤立したような形で存在していて、明日香村のように同時代の古墳がたくさんあってどれが誰の墓だかわからないというようなことがない。
 そのため、牧野古墳が押坂彦人大兄皇子の成相墓であることはかなり確実とみられ、全国的にもたいへん珍しい被葬者の名前をほぼ特定することのできる古墳の一つとされている。

 被葬者が特定できると言うことは築造年代がほぼ正確に割り出せるわけで須恵器などの副葬品が意外に多く残されていたこととあいまって、この時代の古墳や土器の年代判定の基準とされているようだ。


 牧野古墳の巨大石室

 牧野古墳は直径約五十メートルの大型円墳で、墳丘は三段築成に造られている。二段目に横穴式石室の入り口があるのだが、残念ながら古くに盗掘されていて、発掘調査時には石室の入り口は開いていた。

      
                   牧野古墳の入り口                           石室内部

 石室の規模は玄室が長さ七メートル(七・七)、幅三・三メートル(三・五)、高さ四・五メートル(四・八)。羨道が長さ一〇・二メートル(一一・五)、幅一・八メートル(二・四)、高さ二・二メートル(二・六)。全長が一七・二メートル(一九・二)である。ちなみに( )内が明日香村にある巨大石室で有名な石舞台古墳の数値である。

 玄室には奥に横向きに刳抜式の家形石棺が置かれ、手前には組合せ式の石棺が置かれていたと見られているが、石棺は盗掘によってほとんど破壊されていた。
 石舞台古墳よりわずかに小型だがほぼ同じ規模の石室である。直径が五十メートルほどの円墳でありながら、大変大きな石室を持っている。このことからこの古墳が飛鳥時代に造られた古墳であることは明らかで、しかも当時としては最大級の規模を誇る古墳である。

 押坂彦人大兄皇子が推古天皇即位後も生存していたことからみて、築造されたのは推古天皇即位後であることは間違いない。したがって蘇我馬子が政権を掌握して以降の蘇我氏の全盛期にこの古墳は作られたことになる。
 しかもこの古墳は大きいだけでなくこの時代の交通の要所にある。

 いつの時代でもそうだったのだが大陸との窓口であった難波と大和を結ぶ交通路は大変重要であった。
 難波と大和を結ぶルートは牧野古墳の北を通り奈良、斑鳩とを結ぶ龍田越えルートと牧野古墳の南を通り難波と飛鳥を結ぶ竹ノ内越えルートの二つがある。
 すなわち牧野古墳はこの時代の交通の要所に作られていて立地的にも第一級の古墳で、おそらく難波と大和を行き来する人々はこの巨大な牧野古墳を横目で見ながら通ったことだろう。

 しかし、考えてもみてほしい。
 敏達天皇の太子だったとはいえ、天皇に即位したわけでもなく、たいした事跡も記録にないような人物が蘇我氏の全盛期にこのような立派な墓に葬られるということがあるだろうか。ましてや蘇我馬子に暗殺された人物がこのような大きな墓に葬られるはずはない。

 古代において権力者達は自らの力を誇示するために巨大な墓を築造した。墓の規模は葬られた人物の生前における力の大きさを表していると見られている。したがってこれほど大きな墓に葬られた押坂彦人大兄皇子は飛鳥時代の大実力者だったと見て間違いない。


 天智天皇は蘇我馬子の孫

 ではこの巨大古墳に埋葬された押坂彦人大兄皇子とは一体、何者なのだろうか。
 ここまでくればもうおわかりだろう。
 答えは簡単である。

 前章で述べたが、蘇我馬子と天智天皇の間には血の繋がりがあるらしいということを考えあわせると、押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は実は同一人物、すなわち押坂彦人大兄皇子は蘇我馬子の別名であるとしか考えようがない。そう考えれば押坂彦人大兄皇子にまつわるすべての謎は容易に解けるはずである。

 『日本書紀』は蘇我馬子の名を蘇我氏の系譜に記し、馬子の別名の押坂彦人大兄皇子を皇統譜に記し、一人の人物をあたかも二人であるかのように書いたということになる。このような記述の仕方は蘇我入鹿を蘇我氏の系譜に記し、蘇我入鹿の別名の高向王を皇統譜に記したのと同様のトリックである。
 押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子が同一人物ということは、押坂彦人大兄皇子の孫の天智天皇は実は蘇我馬子の孫だったということになる。

 したがって舒明天皇、天智天皇から今に繋がる天皇は蘇我馬子を皇祖、スサノオを皇祖神とする蘇我朝の天皇である。

 『日本書紀』で押坂彦人大兄皇子が「皇祖大兄」と称されていたのも、『出雲国造神賀詞』でスサノオが「かぶろき」と冠されていたのもこのためだったのである。
 『日本書紀』では押坂彦人大兄皇子を敏達天皇の子としているのでこれは明らかに欺瞞だ。『日本書紀』は押坂彦人大兄皇子が蘇我馬子の別名であるという重大なことを記載せず、押坂彦人大兄皇子を敏達天皇の子として記載していたのである。

 ここに『日本書紀』最大の欺瞞があるのである。
 ではなぜこのような皇統譜の改竄が行われたのであろうか。次の系譜を見ていただきたい。  

      

              押坂彦人大兄皇子の真の系譜

 実は蘇我入鹿と皇極天皇の子であった天武天皇を舒明天皇と皇極天皇の子とし、実は蘇我馬子の子であった舒明天皇を敏達天皇の孫としている。こうすることによって天武天皇以降の天皇の系譜を推古天皇以前の王朝の系譜と繋いだのである。

 『日本書紀』が編纂された飛鳥時代から奈良時代にかけては律令体制の整備が強力に進められていた時代である。そのため天皇の権威を高める必要があった。その目的のためには天皇の出自が蘇我氏であることを隠蔽し、皇統譜を神に繋がる万世一系のものにする必要があったのである。


 石舞台古墳は蘇我蝦夷の墓

 このように押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子は同一人物と考えられるので、蘇我馬子の墓は通説では石舞台古墳だといわれていたが実は牧野古墳ということになる。

 蘇我馬子は推古三四年(六二六)五月二〇日に死んでいる。
 舒明天皇元年(六二八)九月以降の記録に蘇我馬子の墓を作るために蘇我一族が集まったとの記載がある。あまりに巨大な墓域なので完全に整備するまでには相当な時間を要したものと思われるが、馬子が死んで二年四ヶ月以上たってまだ墓を作っている。このことからも明日香村の奥の狭い谷間にある石舞台古墳より牧野古墳のほうを蘇我馬子の墓と考えた方がよいだろう。

 そうすると石舞台古墳はいったい誰の墓なのだろうか。
 石舞台古墳のほうが牧野古墳より造りも精巧で新しい古墳と考えられているので蘇我馬子以降の人物と考えて間違いない。
 蘇我馬子以降の人物であのような大きな墓を築くことができた人物となると、その場所が蘇我馬子の邸宅があったといわれる嶋の庄付近であることを考えても蘇我蝦夷か、その子の蘇我入鹿しか考えられない。

     
                石舞台古墳 奈良県明日香村

 明日香村の遺跡発掘に長年たずさわった、考古学者の河上邦彦氏がその著書「飛鳥発掘物語」(産経新聞社)の中でこの古墳について興味深い指摘をしている。

 氏によると飛鳥川の支流の冬野川を挟んで反対側にある都塚古墳(一辺が約二十八メートル)が石舞台古墳(一辺が約五十メートル)と同じ方墳で石室の開口方向が同じ南西だそうだ。同時代の古墳の開口方向は大半が真南なのでこの二つの古墳は関係があるのではないかと述べている。
 また、石舞台古墳と都塚古墳は石の積み方がよく似ていると指摘されている。
 『日本書紀』の皇極天皇元年の条に蘇我蝦夷と蘇我入鹿の墓についてこのような記述がある。

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 双墓を今来に造った。一つを大陵といい、蝦夷の墓とした。一つを小陵といい、入鹿の墓とした。
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 蘇我蝦夷と蘇我入鹿は生前にそれぞれの大小二つの墓を今来に作ったという。
 河上氏は大小の同じような古墳が冬野川を挟んで並んで見えることからこの二つの古墳こそが今来の双墓、すなわち石舞台古墳が蘇我蝦夷の墓、都塚古墳が蘇我入鹿の墓ではないだろうかと述べているが、筆者もそのように考えてよいと思う。

     
   手前右に都塚古墳、中央の林の奥に石舞台古墳、中央左の小高い丘が甘樫丘

 石舞台古墳からは都塚古墳は間に林が邪魔をしているので見ることはできないが、石舞台古墳の近くに少し高台に通じる周遊遊歩道があり、この遊歩道を登っていくと眼下に雄大な石舞台古墳を見ることができる。そして左手に都塚古墳が見通せる。
 この二つの古墳は明日香村に存在する古墳の中でもたいへんよく目立つ位置にある古墳で、古墳からは飛鳥全体が良く見渡せる。おそらく昔は飛鳥からは二つの古墳はきれいに並んで見えたはずである。

 また都塚古墳のある地域は古来より坂田とよばれ、飛鳥時代に渡来氏族の鞍作一族が居住していた地域といわれていて、この近くには鞍作氏の氏寺といわれる坂田寺の跡が都塚古墳からそれほど隔たっていない所にある。

 法隆寺金堂の本尊銅造釈迦三尊像や安居院(飛鳥寺)本尊の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)を作った鞍作鳥(止利仏師)はこの一族の出身といわれている。
 『日本書紀』によると蘇我入鹿は「鞍作」とも呼ばれていたから鞍作一族とも深い関係があったことがわかる。このことからもこの古墳と蘇我入鹿の関係がうかがわれるはずである。

 明日香村には多くの古墳があるが石棺を見ることの出来る古墳はそう多くはない。都塚古墳には凝灰岩で出来た巨大な石棺がほぼ完全な形で残されていて今も見ることが出来る。もし石舞台古墳に訪れる機会があったらここも是非見学して欲しい。


 牧野古墳と桃の核

 『日本書紀』の推古天皇三十四年(六二六)五月二十日条によれば蘇我馬子は「桃原墓」に葬られたとあるが、面白いことに牧野古墳が発掘調査されたおり、その名の通り石棺の後ろから桃の核が見つかっている。

 たまたま馬具の中にあったために鉄錆が付着して腐敗を免れ奇跡的に残っていたらしいのだが、落ちていた位置から見て元は石棺の蓋の上に魔除けの供え物として置かれていたものと見られている。
 石棺の四隅に置かれていた桃が腐り、その核が転がり落ち、その中の一つが運良く残ったようだ。

 桃の字が逃に通じるところから、古代において桃の実は邪気を払う呪物として用いられていて、『古事記』の神話の中にも黄泉の国で雷に追われたイザナキが桃の実を投げつけて退散させる話がある。
 ちなみに桃の実がなる季節は初夏である。蘇我馬子がなくなったのは旧暦の五月二十日で、その月の内に葬られているのでこれはほぼ符合している。

 天智天皇が実は蘇我馬子の孫であるということは古代史の問題に留まらない。天皇家の正当性にも関わる極めて重要なことであるのでここは十二分な検証をしておきたい。


 『日本書紀』にみる中大兄皇子と蘇我馬子の関係

 天智天皇が蘇我馬子の孫であることは『日本書紀』の記述の中からもうかがうことができるのでここではいくつか列挙してみよう。
 まず、天智天皇の父、舒明天皇の即位の話から。

 推古天皇三十六年(六二八)三月七日に長い間天皇の位にあった推古天皇が崩御した。
 本来推古天皇の後継者は聖徳太子だったが、すでに聖徳太子は六年前に亡くなっている。推古天皇は生前に自分の後継者をはっきりとは決めていなかったので当然次の天皇選びが問題となった。

 候補者は田村皇子(後の舒明天皇)と聖徳太子の子で山背大兄皇子の二人である。
 後継者をめぐって、田村皇子を推す蘇我蝦夷と山背大兄皇子を推す馬子の弟といわれる境部臣摩理勢が対立するが、蘇我蝦夷は境部臣摩理勢を殺害し、その結果蝦夷の押す田村皇子が天皇に即位するわけだが、しかしこれは実に奇妙な話である。

 なぜなら山背大兄皇子の父は聖徳太子、母は馬子の娘の刀自古娘だから山背大兄皇子は蘇我氏の同族と言ってよいほど蘇我氏の血の大変濃い皇子である。
 一方田村皇子の父は押坂彦人大兄、母は糠手姫皇女だから、押坂彦人大兄を敏達天皇の太子とする『日本書紀』の記述にしたがえば蘇我氏とは血のつながりは全くないことになる。

 蘇我氏は天皇家との血縁関係を重視し、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇と次々と蘇我氏と血のつながりがある天皇を擁立して権勢を保持してきたのに、ここで山背大兄皇子を外し蘇我氏と血縁関係の全くない田村皇子を天皇に擁立するなどということは考えられないことである。

 蘇我蝦夷は田村皇子が敏達天皇の孫ではなく蘇我馬子の子だったから天皇に推挙したのである。

 つぎに大化改新のきっかけとなった大化元年(六四五)六月十二日に起きた乙巳の変の話しである。
 この事件で飛鳥板蓋宮において中大兄皇子達によって蘇我入鹿が暗殺されたわけであるが、事件にかかわった人物のなかでは中大兄皇子と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)の名は歴史の教科書に必ず載っているのでよく知られている。しかし、この事件にはもう一人重要な人物が関わっている。

 その人物とは蘇我倉山田石川麻呂である。彼は蘇我馬子の孫だから蘇我入鹿とは従兄弟の関係ということになる。蘇我本宗家滅亡には蘇我氏自らも関わっていたわけで、このことだけでもこの事件がただ単に中大兄皇子たちが天皇をないがしろにして専横を極める蘇我本宗家を滅ぼしたという単純な図式でないことがわかる。

 蘇我入鹿殺害後、急を聞いた東漢氏の一族が武装して集まって来るのだが彼らの動きには興味深いものがある。
 東漢氏は明日香村の檜隈の地(天武、持統天皇陵や高松塚古墳のある付近)に居住し、主に政治や軍事面で活躍した、蘇我氏の配下ともいうべき渡来系の雄族で、蘇我蝦夷や入鹿の館の警護も彼らが担っていた。征夷大将軍として名高い坂上田村麻呂はこの東漢氏の末裔である。

 東漢氏は飛鳥時代に起きた様々な事件に実働部隊として「大活躍」していたらしく壬申の乱の後、天武天皇に「七つの不可」、すなわち七つの大罪を犯したとして大叱責を受けるはめになったほどだ。

 主が殺害されたのだから彼らと中大兄皇子達との間に戦いが始まってもおかしくないのだが不思議なことに戦いは起こらなかった。
 当初彼らは蝦夷を助けるため集まり、戦おうとするのだが、蘇我の一族の高向臣国押に「われらは入鹿の罪によって殺されるだろう。蝦夷も今日、明日にも殺されることは決まっている。されば誰のために空しく戦い、皆、処刑されるのか」と説得され、戦わずに散ってしまったというだ。なんともつれない話である。

 既に入鹿が殺され、残されたのは高齢で病気がちの蝦夷とあっては、このまま最後まで蝦夷を守るために戦って滅ぶより大海人皇子の再起にかけたのだろう。その後壬申の乱で彼らは活躍することになる

 東漢氏を説得した高向臣国押だけでなく蝦夷の館を攻めた将軍の巨勢徳陀臣も高向氏と同様に蘇我氏の一族だから、中大兄皇子側には多くの蘇我の一族が味方に付いていただけではなく事件では中心的な役割を果たしていたことになる。

 蘇我の宗本家は中大兄皇子と蘇我の一族によって滅ぼされたと言っていいほどだ。事件は蘇我氏の内紛だったのである。

 事件の二年前に蘇我入鹿は皇位継承を巡って対立していた山背大兄王の一族を滅ぼしている。それを聞いた蘇我蝦夷は「ああ、入鹿はなんと愚かなことをしたのだ。お前の命も危ういものだ」と激怒した。山背大兄王の一族を滅ぼしたことで蘇我入鹿は蘇我一族の中ですっかり孤立してしまっていたのである。

 入鹿殺害後、中大兄皇子達は蘇我氏の氏寺といっていい飛鳥寺(法興寺、元興寺ともいう)に陣を設営したが、このときすべての諸々の皇子、諸王、諸卿大夫、臣、連、伴造、国造などがこれに従っている。
 中大兄皇子達は彼らに服属を要求し、その場として近くにある皇極天皇の宮殿ではなく飛鳥寺を選んでいる。自分たちが蘇我宗本家に取って代わり蘇我馬子の後継者になったことを誇示するためと考えられる。
 この後天智朝、天武朝において飛鳥寺は外交、政治の重要な舞台としてたびたび登場する。

 さらに、事件の約2ヶ月後の八月八日に、事件の直後、退位した皇極天皇の後に即位した孝徳天皇は使いを飛鳥寺に使いを遣わし、僧尼を集めて次のように詔を出している。

        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 欽明天皇の一三年に百済の聖明王が仏法を我が国に伝えた。このとき、群臣たちは皆これを広めようとしなかった。しかしながら蘇我稲目宿禰は一人その法を受け入れた。
 天皇は稲目宿禰に詔して、その法を信奉させた。敏達天皇の世に、蘇我馬子宿禰は父の遺風を尊重して、仏の教えを重んじた。しかし他の臣は信じなかった。そのため仏法はほとんど滅びようとしていた。

 天皇は馬子宿禰に詔して、その法を信奉させた。推古天皇の世に馬子宿禰は天皇のために、丈六の繍像、丈六の銅像を造った。仏教を顕揚し、僧尼をつつしみ敬った。
 自分はさらにまた、正教を崇め、おおきな道を照らし開こうと思う。

 沙門狛大法師、福亮、恵雲、常安、霊雲、恵至、寺主僧旻、道登、恵隣、恵妙をもって、十師とした。別に恵妙法師を百済寺の寺主にした。この十師たちは、多くの僧を教え導き、釈教を修行すること、必ず法の如くせよ。
 およそ天皇より伴造に至るまでの人々の造った寺が、営むことが難しければ、自分が皆助けてやろう。今、寺司たちと寺主とを任命する。
 諸寺を巡って、僧尼、奴婢、田畑の実情を調べて、すべて明らかにして奏上せよ
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 要するに、天皇は蘇我蝦夷、入鹿の暗殺事件の直後でありながら、入鹿の祖父の蘇我馬子や祖祖父の蘇我稲目の仏教における功績を大いに賞賛し、そして自分も彼らに習って仏教を尊ぶことを表明しているのだ。天皇が賞賛していたのは日本で仏教を広めたとされる聖徳太子ではないのである。

 歴史学者は蘇我の宗本家を滅ぼした直後にこのような詔が出されるのは実に奇怪なことだといっている。『日本書紀』に従うならば全くその通りであろう。しかし蘇我馬子は中大兄皇子や孝徳天皇の祖父なのだから何ら奇怪な話しではないのである。

 また、天智天皇三年(六六四)の六月に

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  嶋皇祖母命薨りましぬ
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 とある。天智天皇の祖母(敏達天皇の娘の糠手姫皇女)が死んだという記事なのだが、名前に「嶋」と付いていることに注意してもらいたい。
 蘇我馬子は「嶋大臣」とも呼ばれていたということが『日本書紀』に記載されている。これは蘇我馬子の邸宅に池があり、その池の中に小さな嶋が築かれていたことからそのように呼ばれていたと記載されているが、天智天皇の祖母に「嶋」と付いているのは祖母が蘇我馬子の妃であったことを示しているのではないだろうか。  

 中大兄皇子は皇太子の時にその宮殿(飛鳥稲淵宮)を蘇我馬子の邸宅の近くに建てて住んでいたし、大海人皇子も壬申の乱の時吉野へ向かう途中、嶋の宮に宿泊している。嶋の宮はこの蘇我馬子の邸宅のことで、飛鳥における大海人皇子の宮殿であった。

 天武天皇と持統天皇の子の草壁皇子も同様に嶋の宮に居を構えている。
 すなわち次期皇位継承予定者は次々と蘇我馬子の邸宅があったところに住んでいたことになる。
 次期皇位継承予定者にとって嶋の宮に住むことは、自分が蘇我馬子の正統な後継者で次期の天皇であることを世間に認知させるために必要なことだったと考えられる。

 さらに、天智天皇十年(六七一)九月に天智天皇は病に臥す。
 翌十月に、天皇は使いを遣わし、袈裟、金鉢、象牙、沈水香、栴檀香、及び数々の珍宝を飛鳥寺に奉納している。つまり自らの病の平癒を飛鳥寺に祈願しているのである。父母に縁のある百済寺や川原寺ではなく飛鳥寺なのである。

 飛鳥寺は蘇我馬子の発願によって建てられた蘇我氏の氏寺である。崇峻天皇を殺した人物が建て、天皇をないがしろにして専横を極めたとされる一族の氏寺に天智天皇が自らの病の平癒を祈願していたのだ。天智天皇は蘇我の一族であると見なければこのような天智天皇の行動はとうてい理解することができない。

 天智天皇の死の直前、大友皇子は近江京の内裏の西殿において主な臣下を集め、忠誠を誓わせている。
 その顔ぶれは左大臣蘇我赤兄臣、右大臣中臣金連、蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣である。紀氏も高向氏や巨勢氏同様、蘇我氏の一族だ。すなわち中臣鎌足の従兄弟と言われる中臣金連を除けば他は全て蘇我氏とその一族ということになる。皇子や王などの皇族すら一人も入っていない。

 天智天皇は主な重臣を蘇我氏とその一族で固めていたわけで、このことからしても天智天皇は蘇我の一族であることがわかろうというものだ。そうでなければこれほど蘇我氏に偏った人事を行なう必要はどこにも見いだすことはできない。

 以上のことから舒明天皇は蘇我馬子の子であり、天智天皇は蘇我馬子の孫であることは十分理解していただけたと思う。もし天智天皇に蘇我氏とまったく血の繋がりがないということなら飛鳥時代、飛鳥にはおおよそ理解しがたいような思考の持ち主ばかりがいたということになってしまうだろう。


 飛鳥時代にあった王朝の交代

 『日本書紀』の記述に従えば舒明天皇は敏達天皇の孫、天智天皇や孝徳天皇は敏達天皇の曾孫となっているが実はそうではなかったことになる。
 すなわち前王朝は推古天皇で断絶し、その後を蘇我馬子の子や孫たちが継承し、天皇に即位していたことになる。これは王朝の交代があったということである。

 天皇家は万世一系だとはよく言われることだがそうではなかったのだ。

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 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
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 これは大日本帝国憲法の第一条である。
 大日本帝国憲法は皇統の万世一系を国家の基礎を構成する最も重要な要素としていたが、実はその大日本帝国は万世一系ではない天皇によって統治されていたのである。

 このような王朝交代があったことは『古事記』の記述からもうかがえる。
 『古事記』の記述は推古天皇で終わっているが、もちろんこれは推古天皇以降の記録が無かったからではない。
 記録は残っており書こうと思えばそれもできたはずだが、『古事記』は天皇が万世一系であることを示し、その正当性を主張するための書物のようなものなので、王朝交代があったなどという本当の事を書くわけにはいかない。

 仮に偽りを書いたとしても推古天皇から半世紀しかたたない天武天皇の時代では、真実を知る人たちがまだ多くいたと思われるのですぐに嘘とばれてしまい、かえって藪蛇なことになりかねない。
 都合の悪いことは書かないと言うのが最も賢い手段なのだ。
 推古天皇以降の事を歴史書に記述するにはさらに半世紀、『日本書紀』まで待たなければならなかったのである。


 天智天皇と天武天皇の真の関係

 蘇我馬子、天智天皇、天武天皇の関係を表にすると次のようになる。 

        

          天智天皇と天武天皇の関係

 この図から明らかなように天智天皇は蘇我馬子の孫で天武天皇は蘇我馬子の曾孫だったことになる。
 すなわち天武天皇は天智天皇より年齢は上でも世代は一つ下ということである。
 この時代は年齢より世代が重視されていたのだろう。したがって世代が上で目上の人物を弟とするわけにはいかない。そのため世代が一つ上の天智天皇が目上ということで兄とされ、天智天皇より年上ながら天武天皇が弟ということにされたのではないかと思われる。

 また蘇我氏は実は皇族であったことになり、蘇我入鹿の子の天武天皇が天智天皇の皇太子となり、その後天皇に即位できたのである。
 飛鳥時代において蘇我氏が皇族だったことは冠位のことからもわかる。

 推古天皇十一年(六〇三)に聖徳太子によって冠位十二階が制定される。
 しかし、この冠位を受けた中に馬子をはじめ蘇我氏の名は一人も見あたらない。蘇我氏は臣下として冠位を授かる立場ではなく、皇族として冠位を授ける立場にいたのである。

 さらに大海人皇子の妃であった額田王が大海人皇子との間に一子をもうけた後、中大兄皇子に嫁いだのは、蘇我入鹿の妃であった宝皇女(皇極天皇)が蘇我入鹿との間に大海人皇子をもうけた後、舒明天皇に嫁いだことをそのまま踏襲したものであることもこれでわかる。一般に言われるように額田王に横恋慕した兄の中大兄皇子が弟の妃を取り上げたと言うわけではなかったのである。

 このような婚姻関係が存在したのは天皇家と蘇我宗本家の絆を深めるための政略結婚である。
 天皇と蘇我宗本家が母を同一とする兄弟となるなら、本来これほど強力な政略結婚もなかっただろう。