第七章 天孫降臨と聖徳太子


 ウケヒの神話の謎を解く

 次ぎに示す蘇我馬子とその子孫、推古天皇の関係と先に示したウケヒの図を比較してみてほしい。よく似た形になっていることがわかるはずだ。

      

        推古天皇と蘇我馬子の真の関係                    ウケヒの神話


 このことから天の安河で、アマテラスの吹き出した息の中から生まれた三柱の女神が物実によってスサノオの子とされ、スサノオの吹き出した息の中から生まれた五柱の男神が物実によってアマテラスの子とされたのは推古天皇の娘が蘇我馬子に嫁ぎ、蘇我馬子の子や孫達が推古天皇の後継者として天皇に即位したということに基づく神話であることがわかる。

 すなわち王朝の交代を象徴する神話だったのである。
 この神話が特に丁寧に語られていたのは、このことが蘇我氏すなわち天皇家にとって最も重要な出来事だったからにほかならない。

 また、この図の中で聖徳太子を蘇我馬子の子としているが、それは次に述べる天孫降臨の神話から説明することができる。


 天孫降臨の神話

 天孫降臨の神話では、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(ホノニニギ)がアマテラスの命で地上を統治するために降臨することになるわけだが、当初の予定では降臨するのは天の安河のウケヒでスサノオの吹き出した息の中から最初に生まれ、その後アマテラスの太子になった正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(アメノオシホミミ)であった。

 アメノオシホミミが降臨せずにホノニニギが降臨するようになった事情は『古事記』にはこのように語られている。


十二、葦原の中つ国の平定

 アマテラスの仰せで、「豊葦原の千秋長五百秋(チアキナガイホアキ)の水穂国(ミズホ)は、わが子のアメノオシホミミが統治すべき国である」と、統治を御委任になって、アメノオシホミミを高天原からお降しになった。
 ところがアメノオシホミミは、天の浮き橋にお立ちになり、「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国は、ひどく騒がしいことだ」と仰せになって、また高天原に帰って、アマテラスに指図を仰がれた。

 そこでタカミムスヒとアマテラスの命令で天の安河の河原に多くの神々を集めて、オモヒカネに考えさせて「この葦原中国はわが子の統治する国として支配を委任した国である。しかしわが子はこの国には乱暴な国つ神が多くいると思っている。このためにはどの神を遣わして平定させたらよいであろうか」と仰せになった。

 オモヒカネと多くの神々は相談して「アメノホヒを遣わすのがよいでしょう」と申し上げた。
 それでアメノホヒを遣わしたのだが、たちまち大国主に媚びてしまって、三年たっても復命しなかった。
 そのようなわけでタカミムスヒとアマテラスはまた神々に「葦原中国に遣わしたアメノホヒは長い間復命しない。今度はどの神を遣わしたらよいであろうか」とおたずねになった。

 そこでオモヒカネは「天津国玉神(アマツクニタマ)の子、天若日子(アメノワカヒコ)を遣わすのがよいでしょう」とお答え申し上げた。そこで鹿を射る弓と矢をアメノワカヒコに授けて遣わした。
 ところがアメノワカヒコは葦原中国に降りるとすぐに大国主神の娘の下照比売(シタテルヒメ)を娶り、またその国を自分の物にしようと思い、八年たっても復命しなかった。

 そこでタカミムスヒとアマテラスはまた神々に「アメノワカヒコは長い間復命しない。今度はどの神を遣わして、アメノワカヒコが長く留まる理由をたずねようか」と仰せになった。
 そこで多くの神々とオモヒカネが「鳴女という名の雉を遣わすのがよいでしょう」と答え申し上げた。そこで鳴女に「お前が行きなさい。そしてアメノワカヒコに『おまえを葦原中国に遣わした理由は、その国の乱暴な神たちを服従させよということである。なぜ八年にもなるのに復命しないのか』と問いなさい」と仰せになった。

 そこで鳴女は高天原より降って、アメノワカヒコの家の、門の神聖な楓の木に止まって、天つ神の仰せになったことをつぶさに伝えた。
 そこで天佐具売(アメノサグメ)が鳥の言うことを聞いて、アメノワカヒコに「この鳥は鳴く声が大変悪い、射殺してしまいなさい」と進言した。アメノワカヒコは天つ神から賜った弓と矢でその雉を射殺してしまった。
 その矢は雉の胸を貫き、逆に射上がって天の安河の河原にいたアマテラスと高木神のところに届いた。この高木神はタカミムスヒの別名である。

 高木神がその矢を取りご覧になると、矢の羽に血が付いていた。そこで高木神は「これはアメノワカヒコに授けた矢である」と仰せになり、多くに神にお見せになって「もしアメノワカヒコが命令に背かず、悪い神を射た矢がここに届いたのなら、アメノワカヒコには当たらない。もし汚い心があるなら、アメノワカヒコにこの矢が当たって死ぬだろう」と仰せになった。
 そこでその矢を取って、その矢が来た穴より下に衝き返したところ、朝の床に寝ていたアメノワカヒコの胸に当たり、アメノワカヒコは死んだ。またその雉は帰ってこなかった。
 「雉のひたつかい」という諺はこれが起源である。

 さて、アメノワカヒコの妻の、シタテルヒメの泣く声が風に乗って高天原まで届いてきた。
 そこで、高天原にいるアメノワカヒコの父のアマツクニタマや妻子が聞いて、降って来て泣き悲しみ、すぐにそこに喪屋を作った。
 河の雁を死者に食事をささげ持つ役とし、鷺を掃除をする役とし、翡翠を食事を作る役とし、雀を米をつく女とし、雉を泣き女として役を定め、八日八晩にぎやかに死者を弔った。

 このときに、阿遅志高日子根神(アヂシキタカヒコネ)がやって来て、アメノワカヒコの喪を弔った。
 高天原より降ったアメノワカヒコの父と妻は泣きながら「わが子は死なずに生きていた。我が夫は死なずにここにおられた」と手足に取りすがって泣いた。このように見間違えたのはこの二柱の神の容姿が大変良く似ていたからで、それで間違えたのである。

 そこでアヂシキタカヒコネはたいへん怒って「私は親しい友人だから弔いにやって来たのだ。なぜに私を汚らわしい死人に見立てるのか」といい、佩いていた十拳の剣を抜いて喪屋を切り倒し、足で蹴飛ばしてしまった。
 これが美濃の国の、藍見川の川上にある喪山である。喪屋を切った太刀の名は大量(オオハカリ)といい、またの名を神度剣という。
 そうしてアヂシキタカヒコネが怒って飛び去ったとき、その妹の高比売命は兄の名を知らしめようとして、このように歌った。

 天なるや 弟たなばたの うながせる 玉のみすまる みすまるに 穴玉はや み谷 二渡らす 阿治志貴 高日子根の神ぞ
 (天上の若い機織女が、頸にかけている糸を貫き通した玉飾り、その玉のように、谷二つを渡られる阿治志貴 高日子根の神である)

 この歌は夷振(ヒナブリ)である。

 ここでアマテラスは「今度はいずれの神を遣わしたら良いであろうか」と仰せになった。
 そこでオモヒカネと多くの神が「天の安河の川上の天の石屋にいる、名は天尾羽張神(アメノヲハバリ)を遣わしたらよいでしょう。もしこの神でなければ、その神の子、タケミカヅチノヲを遣わすのがよいでしょう。またそのアメノヲハバリは天の安河の水をせき止めて、道を塞いでいるので、他の神は行くことが出来ません。そこで別に天迦久神(アメノカク)を遣わしてたずねるのがよいでしょう」と申し上げた。

 そこでアメノカクを遣わし、アメノヲハバリにたずねると、アメノヲハバリは「かしこまりました。お仕えしましょう。しかしこれにはわが子の建御雷神(タケミカヅチ)を遣わすのがよいでしょう」と答えて、すぐにタケミカヅチをたてまつった。そこで天鳥船神(アマノトリフネ)をタケミカヅチに添えてお遣わしになった。

十三、大国主神の国譲り

 このようなわけで、この二柱の神は出雲国の伊耶佐(イザサ)の浜に降って、十拳の剣を抜き、波の上に逆さまに刺し立て、その剣の先にあぐらをかいて座った。
 そして大国主神に「アマテラス、高木神の命令であなたの意向をたずねにやって来た。あなたの治めている葦原中国はアマテラスが、わが子が治める国として支配を委任になった国である。そこであなたの考えはどうであろうか」といわれた。

 そこで大国主神は「私にはお答えできません。わが子の八重事代主神(ヤヘコトシロヌシ)がお答えするでしょう。しかし、鳥や魚を捕りに美保の崎に行ったまま、まだ帰ってきません」とお答えになった。
 そこで天鳥船神を遣わし、ヤヘコトシロヌシを呼び寄せ、たずねたところ、その父の大国主神に「かしこまりました。この国は天つ神の御子に奉りましょう」と答えて、すぐにその乗ってきた船を踏み傾け、天の逆手を打って、青柴垣の中に隠れてしまいました。

 そこで大国主神に「いま、おまえの子のコトシロヌシがこのように申した。他に意見を言うような子がいるか」とおたずねになった。
 すると「もう一人、わが子に建御名方神(タケミナカタ)がいます。これ以外にはいません」と答えている間に、そのタケミナカタが千人引きの大石を手の先に捧げてやって来て「誰だ。我が国にやってきてひそひそ話をするのは。それでは、力くらべをしようではないか。では、私がまずおまえの手を取ろう」と言った。

 そこでその手を取ったとたん、氷の柱に変わり、また剣の刃に変わった。タケミナカタは恐れをなして退いた。
 そこでこんどはタケミカヅチがタケミナカタの手を取ろうと申し出てその手を取ると、若い葦を掴むように掴みつぶして放り投げるとたちまちタケミナカタは逃げていった。

 タケミカヅチはタケミナカタを追いかけ、信濃の国の諏訪湖まで追いつめて殺そうとしたとき、タケミナカタが「恐れ入りました。わたしを殺さないでください。ここ以外、他には行きません。また父の大国主神やヤヘコトシロヌシの言葉に従います。この葦原中国は天つ神の御子の言葉通りに献上いたしましょう。」と申し上げた。
 そこでタケミカヅチはまた出雲に帰ってきて、大国主神に「おまえの子のコトシロヌシ、タケミナカタの二柱の神は天つ神の御子の仰せに従いましょうと言った。ところで、あなたの考えはどうであろうか」といわれた。

 これに答えて「わが子の、二柱の神の言うとおりに私も従いましょう。この葦原中国は仰せのとおり献上いたしましょう。ただ私の住むところとして、天つ神の御子が皇位をお継ぎになる立派な宮殿のように地下の岩盤に太い柱を立て、千木を高々とそびえ立たせた神殿をお作り下さるなら、私は遠い幽界に隠れましょう。また私の子の多くの神たちもヤヘコトシロヌシが神の後に立ち先に立ってお仕えしたなら背く神はないでしょう」とお答えになった。

 そこで天つ神たちは出雲国の多芸志の小浜に立派な御殿をお作りになって、水門の神の孫の櫛八玉神(クシヤタマ)が料理人となって御馳走を奉った。

 そして櫛八玉神が鵜になって海の底に潜り、海底の粘土をくわえ出て多くの器を作り、海藻の茎を刈って燧臼に作り、菰の茎で燧杵に作って、火を鑽りだして「このわたしが鑽りだした火は高天原では、カムムスヒの御祖の新しい宮殿の煤が長く垂れるまでたき上げ、地下は地下の岩盤を焼き固め、延縄を長くのばして釣りをする海人が口の大きい尾や鰭の張った鱸をざわざわと引き寄せ上げて、割竹の台が撓むほどに多くの魚の料理を奉ります」とお祝い申し上げた。

 そこでタケミカヅチは高天原に参上して、葦原中国を平定した状況を報告された。
 そこでアマテラスと高木神は、日嗣の御子のアメノオシホミミにたいして「今、葦原中国を平定し終わったと申してきた。だから、先に委任したとおりその国に天降って統治なさい」と仰せになった。

 ところが、その日嗣の御子のアメノオシホミミが答えて、「私が天降ろうとして支度をしている間に、子が生まれました。名は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギ、以下ホノニニギ)と申します。この子を降すのが良いでしょう」と申し上げた。

 この御子はアメノオシホミミが高木神の娘の万幡豊秋津師比売命(ヨロヅハタトヨアキツシヒメ)と結婚して生んだ子で、天火明命(アメノホアカリ)と、次にホノニニギの二柱である。
 こういうわけでアメノオシホミミの申されたとおりに、ホノニニギに「この豊葦原の水穂国は、あなたが統治なさるべき国であると委任します。だから命令に従って天降りなさい」と仰せになった。

十四、天孫降臨

 ここでホノニニギが天降ろうとしたときに、天から降る道の辻にいて、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす神がいた。
 そこでアマテラス、高木神はアメノウズメに命じて「あなたはか弱い女だが、向き合う神に面と向かって気後れしない神です。そこで、あなた一人で行ってその神に『アマテラスの御子が天降りする道にこのようにしているのは誰か』とたずねなさい」と仰せになった。

 そこで問われた神は「わたしは国つ神で、名は猿田毘古神(サルタビコ)である。このようにしているわけは天つ神の御子が天降ると聞いたので道案内に仕え奉ろうとしてお迎えに参ったのです」と申し上げた。
 ここで、アメノコヤネ、フトダマ、アメノウズメ、伊斯許理度売命(イシコリドメ)、玉祖命(タマノオヤ)併せて五柱の部族の長を従えて天降りされた。

 そのとき、八尺の勾玉、鏡、草薙の剣、常世のオモヒカネ、手力男神(タヂカラヲ)、天石門別神(アメノイハトワケ)も添わせて、「この鏡はもっぱらわが御霊として、わたしを拝むように奉りなさい。つぎにオモヒカネはわたしの祭りに関することを取り扱って政治をしなさい」と仰せになった。
 この二柱の神(アマテラスとオモヒカネ)は五十鈴宮にお祭りしている神である。

 つぎに登由気神(トユケ)、この神は度会に祭られている神である。つぎにアメノイハトワケ、またの名は櫛石窓神(クシイハマト)といい、またの名は豊石窓神(トヨイハマト)という。この神は宮廷の門にいる神である。
 つぎにタヂカラヲは佐那那県に鎮座している。
 また、アメノコヤネは中臣連等の祖、フトダマは忌部首等の祖、アメノウズメは猿女君等の祖、イシコリドメは作鏡連等の祖、タマノオヤは玉祖連等の祖である。

 さてそこで、天つ神に命じられたホノニニギは、高天原の岩座を離れ、天に八重にたなびく雲を押し分け、堂々と道をかき分けかき分けて天の浮き橋に立ち、そこから筑紫の日向の、高千穂の峰に天降りされた。
 そのとき天忍日命(アメノオシヒ)、天津久米命(アマツクメ)の二人は立派な靫を背負い、頭椎の太刀を腰に着け、櫨弓を持ち、真鹿児矢を持って、ホノニニギの先に立ってお仕えした。そのアメノオシヒは大伴連等の祖、アマツクメは久米直等の祖である。

 そこでホノニニギは「ここは朝鮮に向かい、笠沙の御崎にまっすぐに道が通り、朝日が差し、夕日が照るたいへんよい場所である」と仰せになって、地下の岩盤に太い柱を立て、千木を高々とそびえ立たせた宮殿をお作りになり、住まわれた。
 そしてホノニニギはアメノウズメに「道案内に奉仕したサルタビコは、正体を明らかにしたあなたが送りなさい。そして、その神の名はあなたがもらい受け、今後も奉仕しなさい」と仰せになった。こうして猿女君らはサルタビコの男神の名をもらい受け、女を猿女君と呼ぶことになったのである。

 そこでサルタビコが阿邪訶にいて、漁をしていたとき、ひらぶ貝に手をかまれて海に沈み溺れてしまった。そこで海の底に沈んでいたときの名は底どく御魂といい、その泡が裂けるときの名はあわさく御魂という。

 ここにサルタビコを送って帰ってきて、ただちに全ての大小の魚を追い集めて「おまえたちは天つ神の御子にお仕え申し上げるか」と問うた時、すべての魚たちは「お仕えしましょう」と答えた中で、なまこだけは、そうは答えなかった。そこでアメノウズメはなまこに「この口は答えない口」と言って、細い小刀でその口を裂いた。そこでなまこの口は今でも裂けているのである。

 こういうことで代々、志摩国から初物の海産物が献上されたときには、それを猿女君らに賜るのである。


 蘇我馬子と聖徳太子は親子

 推古天皇の後継者として天皇に即位したのは舒明天皇である。しかし当初から推古天皇の後継者が舒明天皇だったわけではない。
 アマテラスの太子でありながら天孫降臨しなかったアメノオシホミミと同様に推古天皇の皇太子としてその後継者とされながらついに天皇に即位することのなかった人物がいる。
 その人物とは聖徳太子である。

 なお聖徳太子という呼称は奈良時代中期以後に成立したものである。したがって『記・紀』には聖徳太子の名は登場しない。『古事記』は上宮之厩戸豊聡耳命、『日本書紀』では厩戸皇子の他、豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と記載されている。本書では混乱を避けるため通称の聖徳太子を使わせていただいている。

 アメノオシホミミはこの聖徳太子がモデルと考えられる。聖徳太子は豊聡耳皇子(トヨトミミ)とも呼ばれていたので、アメノオシホミミはその名からきているのだろう。
 聖徳太子が推古天皇の後継者として皇太子となりながら、天皇に即位できなかったのは推古天皇が長生きしたためその在位がおもいのほか長期になり、彼が推古天皇より早く死んでしまったからなのだが、天孫降臨は高天原での話なので死んだとするわけにはいかず、子が出来たのでその子を降臨させることにしたという話にしたと思われる。

 天安河でのウケヒでスサノオがアマテラスの持っていた玉を使って吹き出した息の中から生まれた五柱の男神は推古天皇の後継者として皇位を継承した、蘇我馬子の子達のことであることは前述したが、アメノオシホミミはその五柱の男神の一人で、しかも最初に生まれている。

 このことから聖徳太子は実は蘇我馬子の子だったのではないだろうか。

 近年、聖徳太子は架空の人物で実は存在しなかったという説がだされ、色々議論もあるようだが、聖徳太子の存在はアマテラスの太子として神話にしっかり反映されている。
 ただし聖徳太子は、母は欽明天皇の娘の穴穂部間人皇女とされているが父は『日本書紀』に記述してある用明天皇ではなく蘇我馬子だとすると推古天皇以前において、彼は実は皇族ではなかったということになる。

 崇峻天皇五年(五九二)崇峻天皇が蘇我馬子によって弑逆され、つぎに天皇に即位する適当な人物がいなくなる。しかしそうかといってすぐには皇族ではない自分の子を崇峻天皇の後継者として天皇に即位させるのはあまりにも露骨すぎ、他の氏族の承認を得られなかったのではないだろうか。

 そのため聖徳太子が即位するまでの中継ぎとして推古天皇を即位させたものと思われる。
 聖徳太子は推古天皇の後に天皇に即位する予定で推古天皇の摂政として蘇我馬子とともに政治を担う傍ら、推古天皇後の自らの即位に備えて斑鳩宮や法隆寺を造営していたのだろう。


 蘇我馬子は大々王

 飛鳥寺の由来を書き記した文献に『元興寺伽藍縁起并びに流記資材帳』がある。
 この文献は東大寺や大安寺など二十の縁起をまとめた醍醐寺所蔵の『諸寺縁起集』の中の一つであるが、この縁起の中に大々王なる正体不明の人物が登場する。この文献にも『暗号』が使われている。

 この縁起の中に用明天皇が馬屋門皇子と大々王に法師寺を建てるべき場所を見定めるよう命令し、その後、聡耳皇子と馬古大臣(蘇我馬子)がともに寺を建てる場所を見定めたと記載されている。
 馬屋門皇子と聡耳皇子は同一人物でともに聖徳太子のことである。同一人物をあえて別々の名で記すことによって、大々王と馬古大臣が、名が異なっていても同一人物だと『元興寺伽藍縁起并びに流記資材帳』の作者は暗示しているのである。

 このような一人の人物を、別名を使ってあたかも複数の人物に見せかけるやりかたは『日本書紀』とも共通している。作者は蘇我馬子の正体を隠しつつ、このような『暗号』を使って何とか歴史の真実を後世に残そうと苦心しているのである。

 さらにこの縁起の中で大々王は聡耳皇子を我が子だとも言っている。蘇我馬子と聖徳太子は親子だといっているのである。これは神話の内容とも見事に一致している。
 『縁起』の内容から推古朝において蘇我馬子は大王より上の大々王と称されていたと思われるが、このことは馬子の墓、牧野古墳の規模からも頷けるはずである。


 『日出ずる処の天子』は蘇我馬子

 『隋書』倭国伝の中で推古天皇八年(六〇〇)、倭国王が隋に使者を送ったことが記されている。『日本書紀』には記されていないがこれが第一回目の遣隋使である。
 この時、隋の高祖文帝は倭国の使者を謁見しているがこのとき倭国の使者は倭王の姓を阿毎、字は多利思比狐(タリシヒコ)といい、阿輩{き}弥と号していると述べている。また王の妻は{き}弥といい、太子は利歌弥多弗利と号しているとも述べている。

 倭王の名はタリシヒコとなっているが名前に男性を表すヒコと付いていることと妻が存在することから倭王は男性ということになるが、この時代の日本の天皇は女帝の推古天皇なのでこれでは『隋書』と『日本書紀』は大きく食い違うことになる。女帝に妻が存在するわけがないのである。

 これをどう解釈するかは古代史研究の難問の一つになっていて、様々な説があるのだが主な説としては次のようなものがある。

 一、 女帝だと未開の国と思われるから男帝と言い換えた。
 二、 タリシヒコは大和ではなく九州にあった国の王である。
 三、 タリシヒコは聖徳太子のことである。
 四、 タリシヒコは蘇我馬子のことである。

 このように様々な説があり、一般的には三の聖徳太子のことであるというのが通説とされているが、聖徳太子は蘇我馬子の子であること、蘇我馬子が大々王と称されていたらしいことから倭王のタリシヒコは蘇我馬子と考えるのが妥当である。太子の利歌弥多弗利は蘇我蝦夷か聖徳太子のことだろう。

 さらに推古天皇十五年(六〇七)、小野妹子を遣使として隋の煬帝に、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや云々」というたいへん有名な出だしで始まる、倭国の王は当時東アジアの超大国であった隋の王と対等だといわんばかりのなんとも居丈高な国書を送り煬帝を激怒させたが、この書の中の「日出ずる処の天子」を多くの歴史家は聖徳太子として紹介しているが、天子というのは帝王のことであるからこれも蘇我馬子の事と考えられる。

 いかにも傍若無人な蘇我馬子らしい内容の国書で、「和を持って尊しとなす」の聖徳太子ではとてもこのような国書は書けなかっただろう。
 もっともこの国書に対する煬帝からの返書もかなり強烈なものだったらしく、小野妹子は国書を帰国の途中で百済人に盗まれたと言い訳し、「天子」に渡すことはなかった。推古天皇や聖徳太子に渡すのならともかく、渡す相手が蘇我馬子では怖くて渡せなかったのだろう。

 推古天皇の死後、田村皇子が舒明天皇として即位するが彼は蘇我馬子の子なので、舒明天皇は皇統が蘇我氏に切り替わって最初の天皇として即位したと言うことになる。
 この蘇我氏にとっては記念すべき天皇即位の話が神話の中で舒明天皇がモデルのホノニニギの天孫降臨神話として描かれているのである。

 ホノニニギが天孫降臨して以降の話はつぎのような物語となっている。



十五、木花之佐久夜毘売

 さて、ホノニニギは笠沙の岬で美しい女に出会った。

 そこで「誰の娘だ」とおたずねになると、女は「オオヤマツの娘、名は神阿多都比売(カムアタツヒメ)、またの名は木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)と言います」とお答えした。そこで「おまえの兄弟はいるか」とたずねられると、「姉に石長比売(イワナガヒメ)がいます」とお答えした。 そこで「わたしはあなたと結婚したいと思うがどうであろうか」と仰せになると「わたしはお答えできません。わが父のオオヤマツミがお答え申すでしょう」とお答えした。

 そこでその父のオオヤマツミに結婚を乞うために使いを遣わしたところオオヤマツミはたいへん喜び、姉のイワナガヒメを添えて多くの台に乗せた献上物を持たせて奉った。
 ところがその姉はたいへん醜くかったので、恐れをなし親元に送りかえし、ただその妹のコノハナノサクヤビメだけを留めて、一夜の契りをお結びになった。

 そこでオオヤマツミはイワナガヒメが返されたのをたいへん恥じて、「わが娘を二人一緒に奉ったのはイワナガヒメを遣わせば、天つ神の御子の命は雪がふり、風が吹いても常に石のようにいつまでも変わらないでしょう。またコノハナノサクヤビメを遣わせば、木の花が咲き誇るが如く栄えるようにと願い、奉ったのです。しかしイワナガヒメを送り返し、コノハナノサクヤビメを留められたので天つ神の御子の寿命は木の花のようにはかなくなられるでしょう」と言った。このような理由で今にいたるまで天皇たちのお命は長くないのである。

 しばらくしてコノハナノサクヤビメがホノニニギのもとにやって来て「わたしはあなたの子どもを孕みました。いま出産の時になりました。この天つ神の御子はわたしだけで産むわけにはいきません。だからうち明けるのです」と申し上げた。

 そこでホノニニギは「コノハナノサクヤビメはただ一夜の契りで妊娠したというのか。これは私の子ではあるまい。きっと国つ神の子に違いない」と仰せになった。
 これに答えて「わたしが孕んだ子が、もし国つ神の子ならば産むときに無事に産まれないでしょう。もし天つ神の子ならば無事に産まれるでしょう」と言い、ただちに戸のない大きな御殿を作り、その中に入り、土で塗り塞ぎ、子を産むときに火をその御殿につけて子をお産みになった。

 その火が盛んに燃えているときに産んだ子の名は火照命(ホデリ)、これは隼人阿多君の祖である。つぎに産んだ子の名は火須勢理命(ホスセリ)、つぎに産んだ子の名は火遠理命(ホヲリ)、またの名は天津日高日子穂穂手見命(アマツヒコヒコホホデミ)の三柱である。


十六、山幸彦と海幸彦

 さて、ホデリは海佐知毘古(海幸彦)として大小、いろいろな魚を捕り、ホヲリは山佐知毘古(山幸彦)として大小、いろいろな獣を捕っていた。
 そこでホヲリはその兄のホデリに「それぞれの獲物を捕る道具を取りかえて使ってみよう」といって、三回お願いしたが許されなかった。しかしついにやっとのことで、取りかえることが出来た。
 そこでホヲリは魚釣りの道具で魚を釣ってみたが一匹も釣ることが出来ず、その釣り針を海の中に失ってしまった。

 そこで、その兄のホデリがその釣り針を返すように「山の獲物も海の獲物もそれぞれ捕る道具は自分の道具がよい。それぞれ返そうではないか」といったときに、弟のホヲリが「兄の釣り針は魚釣りをしても一匹も釣れず、ついには海に失ってしまいました」とお答えした。しかし兄は釣り針の返還を強く求めた。
 そこで弟は腰につけていた十拳の剣をつぶして五百の釣り針を作ったが兄は受け取らなかった。そこで千の釣り針を作ったが兄は受け取らず「やはりもとの釣り針をかえせ」と言った。

 そこで弟が泣き悲しんで海辺にいたとき、塩椎神(シオツチ)がやって来て「どうして虚空津日高(ソラツヒコ)は泣き悲しんでいるのか」と問うと、「わたしと兄と釣り針を交換し、兄の釣り針を失ってしまったのです。そこで釣り針を返すよう求められたときに多くの釣り針を作り弁償しようとしたのですが受け取らず『やはりもとの釣り針をかえせ』と言うので、泣き悲しんでいるのです」とお答えになった。

 そこでシオツチは「わたしによい考えがある」といって、すぐに竹を隙間なく編んだ小船を作った。そしてその船にホヲリを乗せて「わたしがその船を押し流しますので、しばらくそのまま進んでください。よい潮の道があるでしょう。そしてその潮に乗って進むと、魚の鱗のように作られた宮殿に着きます。それがワタツミの宮殿です。その宮殿の門に至ったならば、傍の泉の上に神聖な桂の木があります。そこでその木の上に座っていると、その神の娘があなたを見て、取りはからってくれるでしょう」と言った。

 そこで教えられたとおりに少し進むとまったくシオツチの言ったとおりであったので、すぐにその桂の木に登り、座っていた。
 すると、ワタツミの娘の豊玉比売(トヨタマビメ)の召使いが美しい器を持ってきて水を汲もうとしたとき、泉に光るものがあった。上を見てみると美しい男がいた。

 たいへん不思議に思っているとホヲリは召使いを見て水が欲しいと仰せになった。すぐに召使いは水を汲んで器に入れ献上した。そこで水を飲まずに首に巻いていた玉を外し、口に含んでその器にはき出された。するとその玉は器に付き、召使いはその玉を離せなかったので玉が付いたままトヨタマビメに奉った。

 そこでトヨタマビメはその玉を見て、召使いに「もしかしてだれか門の外にいるのですか」とおたずねになると、召使いは「泉の上の、桂の木の上に人がおられます。たいへん美しい男性です。我が宮の王にも勝るたいへんりっぱな人です。その人が水を所望するので、献上したところ水を飲まずにこの玉を吐き入れられたのです。この玉は離すことが出来ません。そこで玉を入れたままにして持ってきて献上したのです」とお答えした。

 そこでトヨタマビメは不思議なことだと思い、出てみるや、すぐに一目惚れして、心を通じ合わされた。
 そしてその父に「わが宮の門のところにりっぱな人がいます」と仰せになった。
 そこでワタツミが自ら出て、その男を見て「この人は天津日高の御子で虚空津日高という方である」といって、すぐに宮殿の中に連れて入った。

 そして海驢の皮を敷物として幾重にも敷き、またその上に絹を幾重にも敷いて、その上にホヲリを座らせて、台の上に様々なものを乗せた御馳走をさしあげ、すぐに娘のトヨタマビメと結婚させた。そして三年間その国にお住みになった。

 そこでホヲリはその最初のことを思い出して大きな溜息をされた。そこでトヨタマビメはその溜息を聞き、父に「三年お住みになっていますが、いつもは溜息をつくことが無いのに今夜は大きな溜息をつかれました。なにかわけがあるのでしょうか」と申し上げた。

 するとその父の大神はその婿に「今朝わが娘が語るのには「三年お住みになっていますが、いつもは溜息をつくことが無いのに今夜は大きな溜息をつかれました。」と言っておりました。何かわけがあるのでしょうか。またあなたがここに来られた理由は何でしょうか」とおたずねになった。

 そこでその大神に、兄が釣り針を失ったことを責め立てた様子をくわしく語った。
 そこでワタツミは大小すべての魚を呼び集め、「この中に釣り針を取った魚がいるか」とおたずねになった。
 すると多くの魚たちが「このごろ、赤鯛がのどになにか刺さって、物を食べることができないと悩んでおりました。きっとこれを取ったのでしょう」と申し上げた。

 そこで赤鯛の喉を調べてみると釣り針があった。すぐに取り出して洗い清め、ホヲリに奉ったときに、ワタツミが教えて言うには、「この釣り針をあなたの兄に返すとき、『この釣り針は心がふさぐ釣り針、気持ちが落ち着かない釣り針、貧乏になる釣り針、愚かになる釣り針』ととなえて、後ろ向きに渡しなさい。そして兄が高いところに田を作ったならば、あなたは下に田を作りなさい。そうしたならば、わたしが水を支配していますから三年で必ず兄は貧しくなるでしょう。もしそうなったことを恨んで攻めてきたなら、塩盈珠(シオミツタマ)を出して溺れさせ、もし苦しんで許しを乞うたなら塩乾珠(シホフルタマ)を出して生かしてやり、こうして悩まし、苦しめてやりなさい」といわれて、塩盈珠と塩乾珠のあわせて二つを授けた。

 そしてすぐに、すべての鰐鮫を呼び集めて「いま、天津日高の御子の虚空津日高が上の国へ出発しようとしている。だれが幾日で、お送りして帰って来ることができるか」とおたずねになった。
 そこでそれぞれが身の丈のままに日を限って申し上げた中で、一尋の鰐が「わたしは一日で送って帰ってくることが出来ます」と言った。
 そこでこの一尋の鰐に「それではおまえがお送り申し上げなさい。ただし海の中を渡るとき、恐い思いをさせてはいけません」とつげて、すぐにその鰐の頸にホヲリを乗せて送り出した。

 そこで約束通り鰐鮫は一日の内にお送り申し上げた。
 その鰐を返そうとするとき、佩いていた細い小刀を外してその頸に付けて返した。そこでその一尋の鰐はいまでも佐比持神(サヒモチ)というのである。

 こういうわけでホヲリは海神が教えたとおりにその釣り針をお返しになった。そこでそれから後、兄はだんだん貧しくなり、さらに荒々しい心を起こして攻めてきた。
 攻めてきたときは塩盈珠を出して溺れさせ、助けを乞うてきたならば塩乾珠を出して救い、こうして悩まし苦しめたときに、兄は頭を下げて「わたしはいまより後は、あなたの昼夜の守護人となってお仕えしましょう」と言った。そこでいまに至るまでホデリの子孫の隼人は、その溺れたときの様々な仕草を演じて天皇にお仕えしているのである。

一四、鵜葺草葺不合命の誕生

 その後、海神の娘のトヨタマビメ自らやって来て「わたしはすでに身ごもっています。ちょうど今、出産の時になりました。天つ神の御子は海で産むべきではないと思い、このようにやってきたのです」と言った。
 そこですぐに海辺の渚に,鵜の羽を葺草にして産屋を作った。しかしその産屋にまだ葺草がふき終わらないのに、おなかの子が産まれそうで我慢できなくなった。そこで産屋にお入りになった。

 そこでまさに産もうとするときに、ホヲリに「すべての他国の人は産むときには元の国の形になって産みます。いまわたしは元の身体になって産もうと思います。お願いですからわたしを見ないでください」と言った。
 そこでホヲリは不思議なことを言うものだと思い、まさに子どもを産もうとするところを密かに覗くと八尋の鰐となって腹這いになってのたうち回っていた。ホヲリはこれを見て驚き、恐れ,逃げていった。

 そこで、トヨタマビメは覗き見られたことを知り、恥ずかしいとお思いになって、すぐに産まれた子を置いて「わたしは海の道を通じて、ここに通おうと思っていました。しかしわたしの姿を覗き見られてしまいました。これはとても恥ずかしいことです」といわれて、すぐに海神の国とこの国の境をふさいで海神の宮に帰っていった。
 そこでこの産まれた御子を名付けて天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズ)という。

 しかしその後、覗き見られたのを恨みはしたが、夫が恋しいという気持ちに耐えられず、その御子を養育するという縁で、その妹の玉依毘売(タマヨリビメ)に託して歌を献上された。
 
 紅玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり
 (赤い玉はその緒まで美しく光るが、それにもまして白玉の様なあなたの姿は貴くうつくしいことでした)

 と歌われた。そこでホヲリは答えて歌われた。

 沖つ鳥 鴨著く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世のことごとに 
 (鴨が寄りつく島で、私が共寝をした妻を忘れはしないだろう、私の生きているかぎり)

 と歌われた。そこで日子穂穂手見命(ヒコホホデミ)は高千穂の宮に五百八十年間おいでになった。
 御陵は高千穂の山の西にある。

 このウガヤフキアヘズが、その叔母のタマヨリビメを娶って産まれた子は五瀬命(イツセ)、つぎに稲氷命(イナヒ)、つぎに御毛沼命(ミケヌ)、つぎに若御毛沼命(ワカミケヌ)、またの名は豊御毛沼命(トヨミケヌ)、またの名は神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコ、神武天皇)の四柱である。
 そしてミケヌは波の上を踏んで常世の国に渡り、イナヒは亡き母の国の海原にお入りになった。


 ホノニニギは笠沙の御崎でコノハナノサクヤビメという美しい女性に出会う。このコノハナノサクヤビメは舒明天皇の皇后になった宝皇女(皇極天皇)のことと考えられる。その後、ホノニニギはコノハナノサクヤビメと結ばれる。そしてすぐにコノハナノサクヤビメは子を孕むのだがここでホノニニギは奇妙な事を言い出す。

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 コノハナノサクヤビメはただ一夜の契りで妊娠したというのか。これは私の子ではあるまい。きっと国つ神の子に違いない。
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 コノハナノサクヤビメはホノニニギと結ばれる前に国つ神と男女関係を持っていたというのだ。皇極天皇は舒明天皇に嫁ぐ前に高向王に嫁いでいたという『日本書紀』の記述を思い出してほしい。この国つ神というのはスサノオや大国主神に繋がる神のことである。
 皇極天皇の前夫の高向王(蘇我入鹿)の存在がここに反映されている。コノハナノサクヤビメ(皇極天皇)の孕んだ子は国つ神(高向王)の子かもしれないと匂わせているのである。

 その後、コノハナノサクヤビメは皇極天皇と同様、二男一女の三人の子を生む。ホスセリと言う女の子とホデリ(海幸彦)、ホヲリ(山幸彦)という例によって仲の悪い兄弟だ。
 ここで有名な海幸彦と山幸彦の神話が語られる。

 兄に無理難題を突きつけられ、海神の神の宮に行った弟のホヲリが海神から授かった玉を使って兄のホデリを屈服させ、ホノニニギの後継者となり海神の娘、トヨタマビメと結ばれるという神話だが、この神話は前述したが大国主神の根の国訪問同様、天武天皇の体験をもとにして創られた神話である。

 したがってホヲリは天武天皇、トヨタマビメは持統天皇がモデルと考えられる。
 そして二人の間に一人の子が生まれる。ウガヤフキアヘズだ。ウガヤフキアヘズは天武天皇と持統天皇の間の子、草壁皇子がモデルということになる。

 草壁皇子の妃は母の持統天皇の異母妹、阿閉皇女(後の元明天皇)であるが、ウガヤフキアヘズが娶るのも草壁皇子同様、母のトヨタマビメの妹、タマヨリビメとなっている。
 ウガヤフキアヘズとタマヨリビメの間に生まれたのが神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)、すなわち初代天皇の神武天皇である。
 次にホノニニギからウガヤフキアヘズまでと舒明天皇から草壁皇子までの間の系図を較べてみよう。

    

 この二つの系図の人間関係とその皇統の流れはたいへんよく似ている。このことから天孫降臨の神話とそれに続く神話は聖徳太子、舒明天皇から草壁皇子までの出来事と人間関係を基にして作られた神話であることがわかるであろう。

 これまでの説明で神話は推古天皇から天武天皇までの人間関係と出来事をもとにして書かれたものであったことがお判りいただけたはずである。言い方をかえれば日本神話とは日本の支配者となった天武天皇と蘇我氏の真の由来を書いたものだったのである。
 『日本書紀』は皇統を改竄し万世一系のものとしたため、真実の歴史は書き残されることはなかった。しかし天武天皇が書いた神話は歴史ではないがためにかえってそこには真実が残されていたのである。