第八章 高松塚古墳の被葬者の謎


 オケ、ヲケの物語

 今までの説明で天武天皇が蘇我入鹿の子であり、天智天皇が蘇我馬子の孫、すなわち蘇我入鹿の従兄弟であることを論証してきた。しかし余りにも通説と異なる結論にまだ信じがたいと思われる読者は少なくないのではないだろうか。
 そのような読者のためにここでは別の角度からこのことを証明してみたい。

 先に『古事記』の説話の多くが天武天皇自身の体験、見聞、周辺の人間関係を利用して書かれたものだということを解説したはずである。これまでの論証で天武天皇は蘇我入鹿の子であり、天智天皇が蘇我入鹿の従兄弟であるらしいということも判明した。

 ではこのような人間関係で書かれた説話が『古事記』の中に存在するだろうか。
 そのような説話が『古事記』の中に存在するとすれば、そのことによって筆者のこれまでの説明を裏付けることができるはずである。

 もし読者が『古事記』をお持ちなら、読むのは一時止めて『古事記』のなかにそのような話があるか捜してもらいたい。系譜等が記載されていたならそれを参考にすれば簡単に見つけることができるはずである。
 はたしてそのような物語が『古事記』の中に存在するだろうか。

 実は、そのような物語が『古事記』の中に存在するのである。それは『古事記』の最後に登場する仁賢天皇(意{ケ}、オケ)、顕宗天皇(袁{ケ}、ヲケ)の物語である。
 この物語は皇統譜で見ると、ちょうど履中天皇から武烈天皇の間の物語となる。

 ところがこの間の天皇はその前後の応神、仁徳、継体、欽明天皇とされる陵墓が二百メートル以上の巨大な前方後円墳なのに、小型の古墳ばかりが多く、安康天皇に至っては古墳ではなく単なる山の一部ではないかとさえいわれているほどだ。また、雄略天皇陵も前方後円墳となっているが、形がいびつで円墳にその近くにあった方墳を後世に組み合わせて作ったものではないかと見られている。

 履中天皇陵は全長三六〇メートルの日本で三番目の巨大古墳だが、考古学的には父とされる仁徳天皇陵より古い古墳と言われていて履中天皇陵という比定もあてにならない。 
 『日本書紀』に書き記された天皇の事跡についても、系譜だけ、また系譜と説話だけの天皇も多くその存在感が乏しい天皇が多いのが特徴で、このようなことから従来から存在のかなり疑わしい天皇が多いと指摘されている。

 さらに、オケ、ヲケの話自体も、登場人物の名前がオケ、ヲケの兄弟や雄略天皇の兄でシロヒコ、クロヒコの兄弟のように語呂合わせのような名前だったり、清寧天皇のように皇后や御子もなく、髪の毛が白いから白髪武広国押稚日本根子尊と名付けられたりとほとんど実話であったとは思えない。
 登場人物の多くが存在感の希薄な架空の人物と考えられるので、この話も実話ではないと考えて差し支えないだろう。

 つぎにこの話を紹介しておこう。
 話の舞台は近江の蚊屋野から始まる。この蚊屋野は、天智天皇が即位後に大海人皇子とともに狩りをし、例の額田王の「あかねさす・・・・」の歌が歌われた蒲生とほぼ同じ場所にある。


 近江の佐々紀山君の祖である、名は韓?(カラブクロ)という者が大長谷王(後の雄略天皇)に、「近江の久多綿の蚊屋野には、たくさん猪や鹿がいます。その足は茂った林のようで、頭に突き出ている角は、枯れた松のようです」と申し上げた。そこで、大長谷王は市辺押歯王(オケ、ヲケの父)を連れて近江にお出かけになり、その野に着くと、それぞれ別々に仮宮を作ってお泊まりになった。

 そして翌朝、まだ日が昇らないうちに、市辺押歯王はいつも通りの様子で、馬に乗ったままで大長谷王の仮宮の傍にやって来てこられて、その大長谷王子の伴の者に、「まだ目を覚まされないのか。早く申し上げよ。夜はすでに明けた。狩り場に出かけようと」と言って、すぐに馬を進めて出て行かれた。

 そこでその大長谷王の傍に仕えている者たちが、「気に入らない物言いをする王子です。用心すべきでしょう。武装なさってください」と申し上げた。そこで衣服の中に鎧を着込み、弓矢を携えて、馬に乗って出て行き、たちまち市辺押歯王に馬を並べると、矢を抜いてその市辺押歯王を射落とし、その体を斬って飼葉桶に入れ、そのまま土に埋めた。

 そこで市辺押歯王の王子たち、オケ王とヲケ王の二柱はこの変事を聞いてすぐに逃げ去られた。そして、山代の苅羽井に着かれて乾飯を召し上がっていたとき、顔に入れ墨をした老人が来てその乾飯を奪った。
 そこでその二柱の王が言うには、「乾飯は惜しくない。しかしお前は誰だ」と仰せになると、その老人は「私は山代の豚飼いだ」と答えた。
 そして、玖須婆の河を逃げ渡って播磨国に行き、その国の住人で名は志自牟という者の家に入って、身分を隠し、馬飼い、牛飼いとして使われていた。

 ・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・

 大長谷王の御子の白髪大倭根子命(シラカノオホヤマトネコ)は、磐余の甕栗宮において、天下を治められた。
 この天皇には皇后はおらず、また御子もいなかった。そこで、天皇の御名代として白髪部を定められた。
 そして、天皇が亡くなられた後、天下を治めるべき王がいなくなった。
 そこで皇位を受け継ぐ王を探すと、市辺押歯王の妹、忍海郎女、またの名は飯豊王が、葛城の忍海の高木の角刺宮におられた。

 さて、山部連小楯を播磨国の長官に任じた時、小楯はその国の人で名は志自牟という者の新築祝いの宴に参加した。そこで酒盛りをして、宴もたけなわとなったころ、順番にみな舞を舞うことになった。
 そして、火を焚く役の少年が二人、かまどの傍にいたので、その少年たちにも舞を舞わせた。

 その少年の一人が、「兄さんが先に舞ってください」と言うと、その兄は、「弟が先に舞いなさい」と言った。このように譲り合っていると、そこに集まっていた人たちは、その譲り合う様子を見て笑った。
 そこでとうとう兄が舞い終えて、次に弟が舞う番となり、歌った歌は

 物部の わが夫子が        武人である我が君が
 取り佩ける 大刀の手上に     腰に帯びている太刀の柄には
 丹画き着け              赤い色を塗りつけ
 その緒は 赤幡を載せ       緒には赤い布をとりつけ
 赤幡を 立てて見れば       天子の赤い旗を立てて敵の方を見やると
 い隠る 山の三尾の         敵の隠れている山の峰の
 竹をかき苅り              竹を根元から刈り
 末押しなびかすなす         その先を地面に敷きなびかすように
 八紘の琴を 調べたるごと     八紘琴の調子を整えて演奏するように
 天の下治めたまひし         見事に天下をお治めになった
 伊耶本和気の 天皇の御子    イザホワケ天皇の御子
 市辺の 押歯王の          市辺の押歯王の
 奴末                   私は子であるぞ

  と歌った。
 そこで、小楯連はこれを聞いて驚き、床から転げ落ちた。そしてその部屋の人たちを追い出して、その二人の王子を左右の膝の上に抱き寄せ、泣き悲しんだ。
 すぐに人民を集めて仮宮殿を作り、その仮宮殿に二人をお住ませになり、早馬の使いを大和へ走らせた。
 その叔母の飯豊王はこの知らせを聞いて喜び、角刺宮に二人を呼び寄せられた。

 ・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・

 二人の王子たちは、それぞれ天皇になることを譲り合われた。オケ命が、その弟のヲケ命に、「播磨国の志自牟の家に住んでいた時、もしあなたが名を明かさなかったら、こうして天下を治める君主にはなっていなかったでしょう。これはあなたの手柄です。そこで、私は兄ではあるけれども、やはりあなたがまず天下を治めなさい」と仰せになり、堅くお譲りになった。
 そのため辞退することが出来ずに、弟のヲケ命がまず天下を治めることになった。

 顕宗天皇がその父の市辺押歯王の遺骨を探されたとき、近江の国にいる賤しい老婆がやって来て「お父上のお骨を埋めたところは、私だけが知っています。また、その特徴のある歯の形でわかるでしょう」と申し上げた。
 そこで、人々を使って土を掘り起こし、その遺骨を探した。
 そしてその遺骨を見つけて、蚊屋野の東の山に、お墓をつくって葬り、そして先の韓{袋}の子どもたちを墓守りとした。

 ・・・・・・・・・中略・・・・・・・・・・・・・

 天皇は,その父王を殺した大長谷天皇を深く恨み、その霊魂に報復をしようとお思いになった。
 そこで、大長谷天皇の御陵を壊そうと考え、人を遣わそうとしたとき、その同母兄オケノ命が申しあげるには「この御陵を破壊するのに他人を遣わすべきではありません。私自身が行って、天皇のお考えのように破壊してまいりましょう」と申し上げた。そこで天皇は「それではあなたのお言葉の通りにお行きなさい」と仰せになった。

 こういうわけでオケノ命は自ら行かれて、その御陵の傍らを少し掘って皇居に帰り、天皇に「もう掘り壊しました」と申し上げた。
 それで天皇はオケノ命がはやくお帰りになったことを不思議に思われて、「どんなふうに破壊なさったのですか」と仰せになった。オケノ命は答えて「その御陵の傍らの土をすこし掘りました」と申し上げられた。

 天皇は「父王の仇を討とうと思ったら、かならずその陵をすっかり破壊するはずであるのに、どうして少しだけ掘ったのですか」と仰せになった。

 オケノ命はお答えして、「そのようにした理由はこのようなことです。父君の恨みをその霊魂に報復しようと思うのは実にもっともなことです。けれども、あの大長谷天皇は、父の怨敵ではあるけれど、ひるがえって考えますと私たちの従父であり、また、天下をお治めになった天皇です。ここで今、たんに父の仇であるという気持ちにのみとらわれて、天下をお治めになった天皇の御陵をすっかり破壊してしまったなら、後世の人が必ず非難するでしょう。ただ父の仇だけは討たなければなりません。そこで、その陵の傍らをすこしだけ掘ったのです。もはやこのようなはずかしめで、後の世に私たちの報復の志を示すのに十分でしょう」と申し上げた。 

 このように申し上げられると、天皇は「これはたいへん道理にかなっています。あなたのお言葉のとおりで結構です」と仰せられた。



 いつの時代でもそうだが成功した人間は自分の栄光の歴史を後世に残したいと願うものである。その時中心になる話は成功してからの話ではない。
 たとえば事業に成功し、一代で大会社の社長になった人物が人々の前で話したがるのは、事業に成功してからの裕福な生活の自慢話ではない。必ず成功するまでの苦労話と決まっている。天武天皇も同じ気持ちを持っていたはずである。

 しかし、ここでもし自らの歴史を直接に書き残せない事情があったとしたらどうであろうか。
 自分の話を何とか後世に残すために、別の時代における他の人物の話しに置き換えてでも残そうと考えたとしても不思議ではない。

 このオケ命とヲケ命の父の市辺押歯王がその従兄弟の大長谷王に殺害されたことに始まり、様々な苦難の後、天皇に即位するこの二人の王子の苦難と栄光の物語こそ、天武天皇の父の蘇我入鹿が乙巳の変において殺害されて以降の体験に基づいて作られた説話と考えられる。

 オケ命とヲケ命の周りの人間関係と天武天皇のおもな人間関係を比較してみよう。

     
   

 この二つの系譜は天武天皇が顕宗天皇と仁賢天皇の二人の天皇になっていることを除けばほぼ重なり合っている。雄略天皇以後の皇位継承の順序も天智天皇以後のそれとほぼ同一である。仁徳天皇から武烈天皇までの系譜は蘇我氏の系譜を基にしてつくられたものと考えられ、そこに登場する皇統譜も説話も架空のものなのだろう。

 皇統譜のこの部分は中国の歴史書に登場するいわゆる「倭の五王」(履中天皇から雄略天皇とするのが有力な説である)に相当する部分と考えられているが、中国側の記述と「日本書紀」の記述がほとんど符合しないのも皇統譜が架空のものであることを裏付けている。

 この説話の主人公のオケ命とヲケ命は二人の王子になっているがこの二つの系譜の比較からわかるように天武天皇を二人の皇子としたものと思われる。この二人の皇子が天武天皇をモデルにしていることは志自牟の家で弟が舞を舞ったときに歌った歌からわかる。

 この歌の出だしでヲケ命は「物部の わが夫子が 取り佩ける 大刀の手上に 丹画き着け その緒は 赤幡を載せ 赤幡を 立てて見れば」と歌っている。
 この歌は壬申の乱における大海人皇子自身のことをヲケ命に託して歌ったものだろう。

 自分の太刀の柄には、赤い色を塗りつけ、緒には赤い布をとりつけ、赤い旗を立てたと歌っているのだが、この赤い色というのは壬申の乱において大海人軍が近江朝廷軍と区別するために付けた印の色である。『日本書紀』には近江朝廷軍と区別するために赤い布を衣服の上に付けさせたと記されている。
 さらにオケ命とヲケ命の父が暗殺されたと聞いて直ちに逃げたという話しから大海人皇子は事件当時、飛鳥にいたらしいことがわかる。おそらく甘橿丘の蘇我入鹿の館にいたのではないだろうか。

 彼は危急を聞いてすぐに飛鳥から脱出したのだろう。壬申の乱の時もそうであるがすばやい決断と逃げ足の早さがこの人の真骨頂である。
 そしてどこかの豪族の元に何年か潜伏した後、飛鳥に復帰したと思われる。その時、無事を喜ぶ者、報復を恐れる者、飛鳥は大騒ぎになったことだろう。

 なお出雲大社では国造が死去すると、その嗣子は直ちに国造の館を出て一目散に熊野大社に向かう。そこで国造を継承するための儀式(火継式)が行われ、その間に前国造の遺骸が運び出される。その後神事を終えた新国造が帰館し、氏子たちが新国造の誕生をおおいに祝うという。

 蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変の真実は出雲大社の神事として今に伝えられていたのである。


 雄略天皇のモデルは天智天皇

 また雄略天皇のモデルは天智天皇と考えられる。
 雄略天皇は「大悪天皇」と呼ばれたほど猜疑心が深く、また残虐な天皇として描かれている。
 シロヒコ、クロヒコという兄を言いがかりとしか思えないような些細な理由で殺害したり、眉輪王という幼い皇子や自分の后の父、葛城円大臣を殺害したり、また新羅を攻めて敗北したり、高句麗に攻められて一時滅亡した百済の復興を支援したりと、これら雄略天皇の事跡は天智天皇の事跡と実によく似ている。

 天智天皇は乙巳の変の直後、吉野へ出家していた異母兄の古人大兄皇子を殺害し、孝徳天皇の崩御後はその皇子の有馬皇子を罠にはめてまだ十九歳の若さで殺害している。
 さらに天智天皇の二人の后の父で乙巳の変の同志だった右大臣の蘇我倉山田石川麻呂を謀反の疑いで死に追いやってもいる。

 また百済が唐と新羅の連合軍に敗れて滅亡し、その復興のため大軍を朝鮮半島に派遣したものの白村江の戦いで敗北したのは有名だ。

 雄略天皇はその人物像、事跡がそっくりなことからも天智天皇がモデルになっているとみてよい。
 万葉集は雄略天皇の歌から始まっているので、雄略天皇の存在を架空であるとまで断定することはできないが、その事跡は天智天皇の事跡を基にして書かれたものである。

 さて、話の主人公のオケ、ヲケの兄弟であるが、この二人が何でも譲り合う大変仲の良い兄弟として描かれているのはなんともほほえましいが天武天皇の心の内を窺わせるようで実に面白い。

 天武天皇は天智天皇のことを父親の仇として当然憎く思っていたであろうが、一方この二人は同じ母を持つこの世で唯一の血の繋がった兄弟として心の底には熱いものが流れていたのではないだろうか。
 それだけに血を分けた兄弟でありながら、天智天皇が天武天皇の父を殺害し、また天武天皇が天智天皇の子を死に追いやったように、何もかも奪い合う険悪な兄弟関係であったことに無念の思いがあったに違いない。
 この無念の思いがオケ、ヲケの兄弟に反映されているのでないだろうか。

 またこの思いは天武天皇八年(六八〇)五月五日に吉野の宮で皇后、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、河嶋皇子(天智天皇の皇子)、芝基皇子(同)に兄弟が助け合い、争わないことを誓わせた、いわゆる「吉野の盟約」に繋がっていると筆者は思うのだがどうであろうか。

 清寧天皇の後、まず弟のヲケの皇子が顕宗天皇として即位し、つぎに兄のオケの皇子が仁賢天皇として即位する。仁賢天皇は雄略天皇の皇女の春日大娘皇女を后とし武烈天皇が生まれるが、ここで仁徳天皇から続く皇統が断絶する。
 ここで皇統は大きく切り替わり、越前からきた応神天皇の五代目の子孫とされる継体天皇にと話が繋がっていく。


 市辺押歯王の墓

 この話ではまず弟のオケの皇子が顕宗天皇として即位するわけだが、この話の後半は大変興味深い話となっている。

 顕宗天皇は即位すると雄略天皇に殺され、亡骸を馬の飼葉桶に放り込まれ、そのまま土に埋まられるという粗末な形で埋葬されていた父の市辺押歯王の遺骨を探し出し、新たに墓を作り埋葬したというのである。
 オケ、ヲケの話が天武天皇の体験をもとにして書かれたものなら、天武天皇は即位した後、乙巳の変において中大兄皇子達に暗殺され、どこかに埋葬されていた父の蘇我入鹿の遺骸を探し出し、丁寧に埋葬し直したことになる。

 おそらく父の蘇我入鹿だけではなく祖父の蝦夷の墓も作り、埋葬し直したと考えられる。
 そしてその墓は天武天皇の父や祖父にふさわしい立派な墓だったはずである。
 こういうとピンと来るものがあるはずである。

 その蘇我蝦夷、入鹿の墓こそが華麗な壁画で知られる高松塚古墳、あるいはキトラ古墳ではないだろうか。


 高松塚古墳の被葬者は蘇我蝦夷、キトラ古墳は蘇我入鹿

 高松塚古墳は昭和四十七年三月に奈良県明日香村で発見された極彩色壁画で大変有名な古墳である。極彩色壁画の発見は当時「歴史的大発見」として全国的に大きな話題となった。
 それまでは簡単な図柄の装飾古墳はいくつか発見されていたが、このような立派な極彩色壁画を持った古墳が我が国に存在するとは誰も考えていなかったのである。
 この古墳についてはその後もことあるごとに報道されているので知らない人はほとんどいないだろう。

 発見後、古墳の被葬者は誰であるかと言うことに大きな関心が集まり、考古学者、歴史学者、あるいは歴史作家など多くの人たちによって議論されたが未だに決定的な被葬者は割り出されていない。
 被葬者の候補として様々な人物の名が上げられた。天武天皇、草壁皇子、忍壁皇子、高市皇子、弓削皇子、百済王善光、最近有力視されている石上朝臣麻呂等々おそらくその数は十人近いと思うが、いずれも決め手に欠け、決定的な被葬者は不明のままで今に至っている。

 被葬者についてのほとんどの説は『日本書紀』の記述に依拠している。しかしその肝心の『日本書紀』の記述に嘘が書かれていたり、重要なことが書かれていなかったりしたのでは、学者や研究者がどんなにがんばったところで被葬者が誰か判明するはずがない。
 最近では被葬者についての議論もすっかり出尽くしたようで、あまり聞かれなくなってしまった。しかし墓である以上被葬者が誰であるかは最も重要な事であるはずだ。

 高松塚古墳は奈良県明日香村平田地区にあり、高松塚古墳から約七百メートル北方に天武、持統天皇陵(檜隈大内陵)があり、約二百メートル北方に真の文武天皇陵ではないかと言われる中尾山古墳がある。キトラ古墳は南方に約千百メートルの位置にあり、これらの古墳はほぼ南北に連なっている。いわゆる『聖なるライン』である。

  


 天武、持統天皇陵の檜隈大内陵の名からわかるようにこの辺りは飛鳥時代、檜隈と呼ばれていて現在でも明日香村桧前と呼ばれている。ここには於美阿志神社とよばれる古社がある。場所は高松塚古墳とキトラ古墳のちょうど中間あたりだ。

 於美阿志神社の祭神は東漢一族の祖の阿知使主で、社名の於美阿志は「使主阿知」が転化したものといわれている。またここは、七世紀に建立された東漢一族の氏寺であった檜隈寺跡でもあり、境内には重要文化財の十三重の石塔が残されている。

 このことからこの近辺は渡来系氏族の東漢氏の一族が多く居住していた地域だったとされている。
 古墳の被葬者を考えるとき最も重要なことはその古墳が築かれた時代にその場所はどのような人たちが住み、どのようなことがあった所かということである。

 この時代、被葬者に全く縁もゆかりも無いところに墓が造られるということはまずありえない。亡命者の百済王善光や物部一族の石上朝臣麻呂の墓がこのような場所にあるはずはないのだ。
 天武天皇陵がこのような場所に存在するのは天武天皇と東漢氏が深い関係にあったからである。
 前述したが東漢氏は蘇我宗本家の配下といっていい一族で、このことからでも天武天皇が蘇我宗本家につながる人物であることがわかる。同様に高松塚古墳、キトラ古墳の被葬者も蘇我宗本家につながる人物と考えてよい。

 高松塚古墳は直径二十三メートルの二段築成の円墳で版築によって作られていた。版築とは土を何層にも突き固めて築き上げていく寺の基壇にもよく使われる丁寧な工法で、飛鳥寺や川原寺にもこの工法が使われていた。
 キトラ古墳も同じく版築で作られていたが直径十三・八メートル、高さ三・三メートルの二段築成の円墳で規模は高松塚古墳に較べてかなり小型である。

 面白いことに高松塚古墳の直径二十三メートル、キトラ古墳の直径十三・八メートルという墳丘の規模は石舞台古墳(一辺が約五十メートルの方墳または上円下方墳)、都塚古墳(一辺が約二十八メートルの方墳または上円下方墳)のそれぞれ約半分にあたる。

 また高松塚古墳、キトラ古墳と構造がよく似た古墳にマルコ山古墳がある。この古墳は高松塚古墳のほぼ真西の方向、千三百メートルの位置にあり、直径が高松塚古墳とほぼ同じ二十四メートルの二段築成の六角墳といわれているが、石槨内には漆喰が塗られているだけで壁画は描かれていなかった。

 壁画がなく石槨の内容では劣るはずのマルコ山古墳が高松塚古墳とほぼ同じの直径二十四メートルもあるのだから、キトラ古墳も直径が二十四メートルであってもおかしくないはず。キトラ古墳は意識的に高松塚古墳より小さく作られているのではないだろうか。

 すなわち高松塚古墳とキトラ古墳の間には石舞台古墳と都塚古墳と同じように大小の序列が存在しているのではないだろうか。もちろん高松塚古墳のほうが序列は上である。
 高松塚古墳の石槨内にはあまり多くはないが遺骨が残されていたので被葬者についてある程度の情報は得られている。

 それによると身長は約一六三センチメートルの当時としてはかなり長身の、筋骨の発育の良好な男性で、推定年齢は熟年或いはそれ以上、老年者である確率も否定できないとされている。
 キトラ古墳も遺骨が残されていたので鑑定結果は出ている。

 被葬者の身長は不明だが骨太の男性で推定年齢は五十歳代の熟年者が有力とされている。
 また高松塚古墳は人物壁画の美しさが良く話題にされるがここで注目すべきは壁画の示す内容だ。すなわち壁画に何が描かれ、その内容は何を意味するものであるかということである。

 高松塚古墳の壁画には描かれていたものは

 一、 天文図
 二、 日像、月像
 三、 四神像(玄武、白虎、青龍、朱雀は不明)
 四、 一六人の人物群像

 以上の四つで、これ以外には何も描かれていない。
 石槨の天井には天文図が描かれていた。天文図とはいえ高松塚古墳の場合は政治的にかなり様式化された図柄となっている。

  

            高松塚古墳星宿図 高松塚壁画館パンフレットより

 天井の中央、約一メートルの範囲内に径0・9センチほどの金箔を張り付け、それぞれを赤い線で結ばれて表現されていたその星座の内容は次のようなものである。

 まず中央に「天極五星」と「四補四星」が描かれている。天極五星とは「天の中心の星」とそれに連なる「後宮の星」、「庶子の星」、「天帝の星」、「皇子の星」の四つである。「四補四星」は天帝を補佐する星と言われている。これらの星を紫微垣の星といい、宮中を表現するものとされている。

 これら紫微垣の星を中心にその周りに東方七宿、西方七宿、南方七宿、北方七宿の二十八宿が描かれていたのである。
 古代の中国では天は地上を反映し、地上は天を反映したものと考えられていた。

 すなわちこれらの星々は天帝による全天の支配を表現し、それはまた地上における帝王を中心とした国の支配体制を意味しているのである。

 「日像、月像」、「四神像」については『続日本紀』の大宝元年(七〇一)正月の条に次のような注目すべき記載がある。

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 天皇は大極殿に出御して官人の朝賀を受けられた。その儀の様子は正門には鳥形の幢を立て、左には日像、青龍、朱雀の幡を立て、右には月像、白虎の幡を立て、蕃夷の国の使者が左右に分かれて並んだ。こうして文物の儀がここにおいて整備された。
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 これは高松塚古墳の「日像、月像」、「四神像」の壁画の配置とよく似ている。
 「四神像」は周から漢にかけて儒学者がまとめた礼に関する書である「礼記」に基づき、天帝の守護神とされていて、単なる守り神というわけではない。

 この時代の「四神像」の例として有名なものに薬師寺の「四神像」がある。
 薬師寺は天武天皇八年(六八〇)に天武天皇が皇后の病気平癒を祈願して建立されたものだが、その本尊の薬師如来の台座に「四神像」の彫刻が施されている。

 薬師寺には数多くの仏像があるが「四神像」があるのは薬師寺の本尊の薬師如来のみで他の仏像には存在しない。
 四神像は中心にあるものを守っている。それがこの時代の「四神像」に対する認識なのである。
 そして薬師如来の、向かって右に日光菩薩、向かって左に月光菩薩の「日」と「月」が祀られていて、これはまさに高松塚古墳に通じている。

 すなわちこの古墳の被葬者は十六人の従者を従え、四方を四神像によって守護され、国の支配体制をあらわす天文図を見上げながら永遠の眠りに着いていたのである。
 したがってこの古墳の被葬者は国を支配していたような人物以外にはありえず、天皇もしくはそれに準ずる人物としか考えられない。

 遺骨の鑑定結果が熟年以上の男性であることを考えあわせ、被葬者は天武天皇自身であるという説もあるほどだ。
 しかし天武天皇の陵は現在比定されている檜隈大内陵でほぼ間違いないとされている。鎌倉時代に盗掘され、このときの調査記録『阿不幾及山陵記』や藤原定家の『明月記』に内部の状況の記録が残されていてその内容が『日本書紀』と一致するからである。従って天武天皇の可能性はない。

 また天武天皇の皇子であるという説もある。
 しかし天武天皇の皇子の中でも序列の最上位は、持統天皇との間に出来た草壁皇子であるが、草壁皇子の墓は奈良県高取町佐田にある束明神古墳といわれている。

 束明神古墳は対角線の長さが三十メートルの八角形墳で石室も長さ三・一メートル、幅二メートル、高さ二・五メートルと七世紀末の古墳としてはかなり大規模な古墳で、この古墳が草壁皇子の墓であることは被葬者の年齢、地元の伝承等からもかなり確実とされているが石室内に壁画はおろか、壁面には漆喰も塗られていない。

 従って草壁皇子以下の序列の皇子が高松塚古墳に葬られたとは思われず、天皇、皇族以外の人物ではなおさらありえない。
 唯一考えられるとすれば壬申の乱の功労者で太政大臣にもなった高市皇子だが、『延喜式』の諸陵寮によれば皇子の墓は大和国廣瀬郡にあった三立岡墓とされているので高市皇子の可能性もありえない。

 キトラ古墳も人物群像はないがかわりに十二支像が描かれ、高松塚古墳同様に四神像や日像、月像も描かれていた。天井には極めて精密な天文図が描かれていて、この天文図は東アジア最古のものと言われ、この時代としては大変正確な物といわれている。

 人物群像こそないがキトラ古墳の被葬者も高松塚古墳同様極めて高い身分の人物と考えられる。
 推古天皇が即位して以降、平城京遷都(七一〇年)までの時代に国を支配していたような高い身分の人物といえば天皇、さもなくば大和朝廷を牛耳り、事実上日本の支配者であった蘇我馬子、蝦夷、入鹿の三人に限られる。

 しかし天武天皇以外の天皇の陵もそれぞれ他の場所が陵として比定されているし、前述の河上邦彦によれば形のはっきりしない孝徳天皇を除けば舒明天皇以降の天皇陵は八角形墳とみられるが高松塚古墳とキトラ古墳は円墳であることが確認されている。したがってこの二つの古墳は天皇陵とは考えにくい。

 そうすると被葬者の可能性があるのは蘇我馬子、蝦夷、入鹿の三人ということになる。
 このうち蘇我馬子の墓は牧野古墳と考えられる。となると残るのは蝦夷、入鹿の二人だけとなる。

 さらに天武天皇は天文には大変関心をもっていたといわれている。
 『日本書紀』の天武天皇の巻の最初に  

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 天文、遁甲を良くした
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 との記載があり、天武天皇四年(六七六)一月五日には初めて占星台を作ったとの記録が残っている。この時代、天文とは占星術のことを意味している。また壬申の乱において天武天皇は東国へ脱出する途中、天を見て、最後には自分が天下を得るだろうと占っている。

 石室内に天文図が描かれた古墳は日本では他に例がない。このころの時代の遺物として天文図も存在していない。従って高松塚古墳、キトラ古墳を築造した人物は天文に関して極めて高い関心と知識を持った人物と見て間違いないだろう。

 蘇我蝦夷、蘇我入鹿の没年齢についての記録はないが斉明天皇(皇極天皇)が崩御したのが六六一年で没年齢は『本朝皇胤紹運録』や『神皇正統記』などによると六八歳となっている。そうすると乙巳の変(六四五年)では皇極天皇は五二歳だったと思われるので蘇我入鹿の没年齢は五十から六十歳と見て良いだろう。蘇我蝦夷は七十から八十歳のかなり高齢だったと思われる。これは人骨の鑑定結果ともほぼ一致している。

 これらのことから高松塚古墳、キトラ古墳は天武天皇によって築造された蝦夷、入鹿の墓だと筆者は考えている。
 ではどちらの墓が蝦夷で、入鹿だとなるのだが墳丘が大きく壁画の内容も国の支配者によりふさわしく、さらに石舞台古墳、都塚古墳の関連性から見て高松塚古墳が蘇我蝦夷の墓で、キトラ古墳は蘇我入鹿の墓と、筆者は考えている。

 古墳が築かれた時期は、壬申の乱の後、大海人皇子が飛鳥に帰ったのは九月十二日だから年内にあれだけの古墳を造ることはおそらく無理だろう。
 古墳が築かれたのは、共に壬申の乱の翌年、六七三年頃ではないだろうか。


 高松塚古墳の墓守

 さらにこのオケ、ヲケの物語には興味深い話が続く。
 市辺押歯王を誘い出し、その殺害に関わった韓{袋}と言う名の人物が顕宗天皇の即位後その責任を取らされ、その子供たちを墓守りにしたと言う話が記載されている。
 『日本書紀』によれば誅される寸前に平謝りに謝り、その姿があまりに哀れであったので許されたとなっている。

 どうやら乙巳の変のおり蝦夷、入鹿殺害に関してその責任を取らされ、子孫に墓守をするように命じられた人物がいるようだ。
 驚いたことにこの話の通り、先祖代々高松塚古墳を祀り続けてきた人たちが今も存在している。

 その人たちは明日香村の上平田在住の村民で、「橘」の家紋を共通にする人たちと言うから、元は同じ一族だったのだろう。
 旧暦の十一月十六日に高松塚古墳において祭祀を行っていたらしいが、現在では古墳での祭祀はなくなっており各戸に祀られている。

 明日香村には数多くの古墳が存在しているがこのような祭祀が昔から続けられているのはこの古墳だけだそうで、祭祀がいつ頃から行われていたかも不明だそうである。
 古墳を先祖代々祀り続けていると言う話も他ではあまり聞いたことがない。

 乙巳の変の時、蘇我蝦夷の館を警護していた東漢一族は蝦夷を見捨てて戦わずして退散、そのため蝦夷は殺されてしまったが壬申の乱の後にこのことが問題視されたのではないだろうか。
 もっとも壬申の乱から二十七年も昔の話である上に、東漢一族は壬申の乱において大海人軍として大奮戦していたのでこの件で関係者が刑に処せられることはなかっただろうが、罰としてその子孫に蝦夷の墓の墓守をすることを天武天皇に命じられたのではないだろうか。

 飛鳥時代の記憶はいまなお明日香の人々に受け継がれているのである。

 また古墳の祭祀に関して興味深い事実がある。高松塚古墳の東約五百メートルに八坂神社がある。ところがキトラ古墳の東三百メートルにも神社がありこの神社は八王子神社と呼ばれている。
 八坂神社だから祭神は当然スサノオである。八王子神社の八王子というのはスサノオの八柱の御子神のことだ。したがって八坂神社と八王子神社は祭神が親子関係にあることになる。この二社は二つの古墳の、被葬者の関係を暗示しているように思えてならない。

 考古学者はこのようなことにはあまり注目しないが飛鳥時代以降の終末期古墳ともなれば古墳の近くに存在するかあるいは存在した社寺との関係は被葬者の推測に大変に重要だと思う。
 このような例をもう一つ挙げてみよう。例の牧野古墳である。

 牧野古墳にも関係のありそうな神社がいくつかある。まずこの古墳のほぼ真北の斑鳩町には龍田神社が、ほぼ真東には舒明天皇の時代に創建されたと伝わる小北稲荷神社があり、共に古墳と関わりがありそうな神社だ。
 しかしそれより重要なのは古墳の北東方向に北東の鬼門を守護する大忌神を祀る広瀬神社があり、西北方向に西北を守護する風神を祀る龍田大社があることである。

 この二社は天武天皇四年(六七六)に天武天皇の命で現在地に於いて祭祀が始められ、国家的行事として年に二回祭祀が行われたことが『日本書紀』に記されている。
 その後も歴代天皇にたいへん崇拝され、平安時代には国家の一大事に特別に奉幣がおこなわれる神社の二十二社にも選ばれている。現在も旧官幣大社として多くの人々の信仰を集めている。

  


 広瀬神社と龍田大社は牧野古墳からは東西ほぼ対称の位置にあるのでこの二社は牧野古墳の被葬者のために創建されたと見てよい。
 このことからも牧野古墳が「皇祖大兄」押坂彦人大兄皇子、すなわち蘇我馬子を葬った成相墓であるとみてまず間違いないだろう。

 そして最期の話も大変興味深い。
 オケ、ヲケの兄弟は父の仇を討つために雄略天皇の墓を壊そうと思い、墓を壊しに兄が行くのだが、墓の側の土を少しだけ掘って帰ってくる。
 父の仇とはいえ、天皇の墓なのですっかり壊してしまったなら後世の人に悪口を言われかねない。しかし父の仇は討たねばならない。そのため少しだけ壊した。それで十分だというのである。

 すなわち自分たちには分別があるといっているのだ。
 しかしこの話、聞きようによっては、以前に分別のない人物がいて人の墓をすっかり壊してしまったと皮肉をいっているようにも聞こえないだろうか。

 すっかり壊されてしまった墓といえばすぐに思い浮かぶのは石室を覆う封土がなくなり、石室が剥き出しになっている明日香村の石舞台古墳のことである。
 この話からも石舞台古墳は蘇我蝦夷の墓で、壊した犯人は天智天皇と考えてよさそうである。

 そしてこの話しを最期に、後は系譜だけを残して『古事記』の物語はすべて終了する。