第九章 出雲の謎と天皇家の出自


 なぜ出雲が神話の舞台か

 『古事記』の神話の三分の一以上は出雲を舞台としている。
 ではなぜ、『古事記』の神話は出雲を舞台に書かれているのだろうか。これには様々な意見が出されている。
 一つは実際に出雲にヤマトとは別の大きな政治的な勢力が存在したという説である。
 しかし、これは出雲にそのことを証明する考古学上の発見がなく、いままでに説明してきた物語の内容からも完全に否定してよいだろう。

 最も一般的な説としては中央のヤマトから見て東方に日の出の地として伊勢、それに対する世界として、西方に日の沈む地としての出雲が存在するという説である。
 すなわち東の「陽」の伊勢に対して、西の「暗」の出雲があるという「陰陽」の二元的な考え方で、この説は学会でもかなり広く支持されていて半ば定説となっている。 

 だがこの説では大和の西には多くの国があるのになぜ大和から遠く離れた山陰の出雲がわざわざ選ばれたのか説明できない。
 しかし出雲の問題を日本国内に限定して考えていたのでは出雲の謎は解けない。
 筆者は大和から出雲の方向を見るとその先は朝鮮半島であることに注目したい。つまり、出雲は日本海を挟んで朝鮮半島と相対する地域であるという事が重要ではないだろうか。

 弥生時代から飛鳥時代にかけて数多くの渡来人が新天地を求め、あるいは北方からの異民族の脅威に押され朝鮮半島から日本にやって来た。
 『日本書紀』には応神天皇朝に多くの渡来人が大和に住みついたことが記載されているし、斉明天皇六年(六六〇)の百済の滅亡時やその八年後の高句麗の滅亡時には数多くの亡命者が渡来している。

 朝鮮半島からの渡来人たちは優れた文化、技術を日本列島にもたらし、それが日本の文化の基になり、また渡来人たちもわれわれ日本人の祖先になっていくわけだが、それらの渡来人たちにとって朝鮮半島は先祖の魂が眠る地ということになる。いうなれば朝鮮半島が本貫ということになる。

 本貫というのは一族の先祖の出身地のことで、日本人はあまり気にしないが韓国の人たちにとっては大変重要である。日本では考えにくいことだが、韓国では同姓で本貫が同一だと「同姓同本」といって、一族と見なされる。そのため同姓同本の男女が結婚する場合にはかなりの困難が伴うのが普通である。

 朝鮮半島に対して本貫意識を持つ渡来人たちは先祖を祀るための神社を朝鮮半島に相対する地域である出雲に次々と建てたのではないだろうか。
 そのために出雲が先祖の地に通じる地域として神聖視されるようになり、「神の国」とされたのではないかと筆者は考えている。
 そこで神話の舞台としてこの「神の国」の出雲が選ばれたのではないだろうか。

 それを裏付けるように出雲の神社は高い山の頂上に建てられていたり、海岸近くに建てられている神社が多いのが特徴となっている。少しでも先祖の地に近いところに建てたいという意識が働いていたではないだろうか。このことは出雲大社の神座が西向きにつくられていることにも通じている。

 たとえば、出雲の熊野大社(島根県松江市八雲町)だが、現在は谷間の平地に建てられているが、古くは大社の南にある天狗山(出雲風土記では熊野山)の頂上に建てられていた。

     
                 熊野大社 島根県松江市

 天狗山とはずいぶんと変わった名前だが、昔天狗が住んでいたわけではない。この山は元々、ここに社殿があったことから天宮山と呼ばれており、この天宮が訛って天狗山と呼ばれるようになったという。

 この天狗山は島根県八束郡八雲村熊野地区と広瀬町(天狗山の北東に位置する町で牧野古墳の北東に広瀬神社が位置することと関係があるものと思われる)との境にそびえる標高六一〇メートルの山で、八束郡では最も高い山となっている。この山から朝鮮半島の方向にはこれ以上高い山は存在しない。そのためこの山の頂上からは出雲全体を眼下に見渡すことが出来る。

 この山の頂上のあたりには磐座という古代祭祀を行った跡が存在し、今でも年に一回ここで元宮祭とよばれる祭祀が熊野大社の神官によって行われている。
 この天狗山に建てられていた熊野大社の記事が『日本書紀』にある。
 斉明天皇五年(六五九)一二月一五日条に

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 この年、出雲国造に命じて神の宮を修造させた。
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 この神の宮は従来、出雲大社とする説と熊野大社とする説があるが、この話は天武天皇以前の話なので熊野大社のことである。
 斉明天皇はこのような場所にスサノオを祀る社を建てていたのである。

 また出雲で一番朝鮮半島に近い日御碕には同じくスサノオを祀る出雲大社の奥の院ともいわれる日御碕神社がある。
 上の宮と下の宮があり、上の宮にスサノオが祀られているが上の宮は元々、背後の隠ヶ丘の頂上に建てられていたと言われて、この神社から朝鮮半島に向かってはもう日本海の海原が広がっているだけである。

 出雲大社も今は海岸線から一キロメートルほど内側にあるが、中世の絵図面によれば昔の海岸線はもっと出雲大社の近くに描かれている。さらに古くは、社殿は直接海岸に接していたとも言われている。

 そのような朝鮮半島に対する本貫意識は飛鳥時代の前期に大和に建てられた建物からも窺える。
 たとえば聖徳太子が建てた法隆寺だが、現在の法隆寺は七百年頃に再建された伽藍でほぼ南向きだが、天智天皇九年(六七〇)四月三十日に全焼した当初の建物跡は若草伽藍として知られて、建物の中心線が真北から約二十度西に振って建てられている。また聖徳太子の宮殿であった斑鳩宮も若草伽藍と同じ方向に建てられている。

 同様に飛鳥にあった蘇我馬子の邸宅や渡来系氏族の鞍作氏の氏寺、坂田寺も同様に真北から約二十度から三十度、西に振って建てられていたことが発掘調査によってわかっている。
 これらの建物を建てた人々は建物の方向を自分たちの先祖の地に向けたのではないだろうか。

 もっとも朝鮮半島や出雲の方向はもっと西の方角なのでこのぐらい振ったぐらいでは全く足らないのだが、この時代今日のような正確な地図があったとは思えないので約二十度から三十度というのがその当時の認識だったのだろう。
 このようなことから蘇我氏も朝鮮半島の地を本貫とする渡来人の末裔と考えてよい。

 神話の中にも蘇我氏の祖先が朝鮮半島から渡来して来たと思わせる箇所がいくつかあるので紹介しよう。


 朝鮮半島からやって来た蘇我氏の先祖

 『日本書紀』の神代上巻に高天原を追放されたスサノオが出雲へ降りる時の話があるが、その一書(第四)に次のようなことが記載されている。

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 スサノオの所業が大変悪かった。そこで神々は千座置戸の罰を科して、ついに追放した。このときスサノオは子の五十猛神をひきいて、新羅の国に降り、曽尸茂梨のところにおいでになった。しかし「この国に私は居たくない」と不満を言った。ついに土で船を作り、それに乗って東の方に渡り、出雲の国の簸の川の上流にある鳥上の山に着いた。
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 高天原を追放されたスサノオが新羅を経て出雲にやって来たというのである。スサノオが神社によっては新羅大明神とも称されるのはこの話に由来する。

 また神話の最初に登場する三柱の神、いわゆる造化三神と呼ばれる、天御中主尊(『古事記』では天御中主神)、高皇産霊尊(高御産巣日神)、神皇産霊尊(神産巣日神)の内の高皇産霊尊だが、この神は三柱の神の中で最も重要な神で、神話の中に再三登場し、天孫降臨においては司令神的な役割をしている。また宮中八神の筆頭に祀られていた神で天皇家にとって最も重要な神とされている。

 この神の名前に注意してほしい。ここに『暗号』が含まれている。高皇産霊と言う名だが高霊の間に皇産が挿入された形になっている。これは高霊で皇が産まれたと読めないだろうか。
 さらに山幸彦の子の名は天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命で、この中にはウガヤの字が『暗号』として含まれている。

 高霊というのは朝鮮半島南部の洛東江上流にある地名で大伽耶国の中心だったところだ。大伽耶国は上伽耶(ウガヤ)とも呼ばれていた。
 上伽耶という名からもわかるように下伽耶(アラガヤ)という国もあり、この二つの伽耶に周辺の諸々の小国を併せた地域が日本で任那とよばれていた地域である。

 また飛鳥時代の朝廷が百済と大変親しかったことはよく知られている。
 このことを象徴するものに大阪府枚方市中宮の百済王神社がある。

 百済滅亡後、日本に残留した百済最後の王、義慈王の王子・善光(禅広)は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜って臣下となり、その子孫が河内守に任じられて中宮の地を賜り、一族ともどもこの地に住みついたといわれている。
 その百済王氏の氏寺として造営されたのが百済寺で、氏神として造営されたのが百済王神社である。

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................. ... ......百済王神社  大阪府枚方市

ppp
               社殿に掲げられた扁額

 この神社には歴代の百済の王が百済国王として祀られているが、この百済国王と並んで祀られているのがスサノオで、拝殿には右に百済国王、左に牛頭天王と書かれた扁額が掲げられている。
 この神社ではスサノオのことを進雄命と表記している。他の神社では須佐之男命、あるいは素戔嗚尊と表記しているのでこれはたいへん珍しい表記である。おそらくスサノオは中世以降に合祀されたものではなく、神社創建時からスサノオが祀られていたのだろう。

 蘇我氏の祖がもし新羅出身なら、新羅によって祖国を滅ぼされた百済王氏がスサノオを祀ったりはしないだろう。スサノオを祀っていた百済王氏は蘇我氏すなわち天皇家とは深い関係があったと考えられる。
 京都に都を遷した桓武天皇はこの地をしばしば訪れ、百済王氏と親交を深めたと伝えられている。

 これらのことから、朝鮮半島から渡来してきた蘇我氏の先祖は、百済と強い繋がりを持った任那出身の有力者で、新羅を経由して大和にやって来たというような人物ではないかと推測されるのである。


 蘇我氏の祖は百済の貴族 木満致

 蘇我氏の出自については謎に包まれている。
 しかし、ここにある有名な説がある。
 蘇我氏の祖を応神朝に大和にやって来た木満致とする古代史学者の門脇禎二氏の唱える説である。

 『古事記』によれば蘇我氏の祖は波多、許勢、平群、木、葛城、若子の諸氏とともに第八代孝元天皇の孫、武内宿禰(建内宿禰)から分かれたとされ、その系譜は次のようになっている。

 孝元天皇—比古布都押之信命—建内宿禰—蘇賀石河宿禰

 しかし孝元天皇はいわゆる欠史八代の一人として実在した可能性は薄いとされる。
 また武内宿禰は景行天皇から仁徳天皇まで二百年以上に渡って仕え、彼自身も三百年以上の長寿だったとされ、そのため延命長寿の神とされている。戦前には忠臣の誉れが高く紙幣の肖像にもなっていたほどだがとても実在の人物とは思えない。

 蘇賀石河宿禰以降の蘇我氏の系譜は『公卿補任』、『蘇我石川両氏系図』等によると次のように伝えられている。

 蘇我石河宿禰—満智—韓子—高麗—稲目

 そして稲目以降兄弟姉妹に大きく広がる系図になっている。
 このうち蘇我石河宿禰はそれ以降とは名前も異なっており後世の創作の可能性が高い。従って確実に実在していたと考えられるのは満智、韓子、高麗の三人である。

 このうち最初の満智は『日本書紀』によれば履中天皇朝(在位四〇〇〜四〇五年)に平群木菟宿禰、物部伊{?}弗宿禰、円大使主とともに国政に携わったとされている。 
 
 また奈良時代の官僚の斎部広成が大同二年(八〇七年)に編纂した歴史書の『古語拾遺』には雄略朝(在位四五六〜四七九年)に満智は宮廷の内蔵(皇室の財庫)、斎蔵(神宝の財庫)、大蔵(政府の財庫)の三蔵を検校したと記されている。
 国の財産管理を一手に任せられていたわけで有能な人物であるとともにかなりの実力者であったことがわかる。

 一方木満致については
 『日本書紀』の応神天皇二五年(二九四)条に引用の『百済記』に、

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 木満致は木羅斤資が新羅を討ったときに、その国の女を娶って生まれ、その父の功により任那を支配した。我が国(百済)にきて日本に行き来した。大和朝廷の職制を賜り、百済の国政を執った。
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 『百済紀』によれば木満致は父の木羅斤資が新羅の婦人を娶って生んだ子で任那を支配して、百済と日本を行き来したというのだ。
 さらに『日本書紀』の応神天皇二五年条には

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 百済の直支王が薨じた。その子の久爾辛が王となった。しかし王は年が若かったので、木満致が国政を執った。しかし王母と通じ、無礼が多かった。天皇はこれを聞いて彼を日本に召した。
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 と記されている。王母と通じていたとか、無礼が多かったとあるが『日本書紀』は蘇我氏のことをあまり良くは書かないのでこれは潤色だろう。彼は大和朝廷と百済の間を行き来し重要な役割を担っていたと思われる。
 一方、朝鮮半島の史書『三国史記』(一一四五年完成)の百済本紀蓋鹵王二十一年(四七五)条には、

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 高句麗の軍隊によって王都漢城が包囲されたとき、王は王子の文周(もんしゅう)に避難を命じ、文周は直ちに木{ら}満致(もくらまち)・祖弥桀取(そびけっしゅ)と「南行」した。
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 とある。百済は高句麗に攻められたため王子の文周は父の蓋鹵王の命令で木{ら}満致とともに南に向かったというのだ。この木{ら}満致というのは『百済紀』の木満致のことである。

 その後文周は新羅の兵一万を連れて百済に戻るがすでに城は破壊され蓋鹵王も殺されていた。
 その後、文周は即位(四七五年)する。しかしこのときにはもう木{ら}満致の名はない。この後も朝鮮の歴史の中から木{ら}満致の名は姿を消す。

 これらのことから木{ら}満致は王子の文周とともに援軍を求めて新羅に行ったものと思われる。木{ら}満致の母は新羅の人なので新羅との交渉では大いに活躍したのだろう。
 ところが文周王は百済に帰国後、四七八年に臣下の解仇らに暗殺されてしまった。こうなると文周王を支援していた木{ら}満致はもはや百済へ戻ることは出来なくなる。

 この後、木{ら}満致はその活動の拠点を朝鮮半島から大和に移すことを決断し、滞在していた新羅から我が国にやって来たと考えられるのである。
 我が国にやって来た木{ら}満致はその豊富な経験を生かし、大いに活躍したと見られている。

 木満致が我が国にやって来た応神天皇二五年は西暦二九四年である。また木{ら}満致が新羅に南行した百済本紀蓋鹵王二十一年は西暦四七五年である。
 この間には一八一年のずれがあるがこれは干支でほぼ三運(一運は六〇年)にあたる。応神天皇二五年の記載は蘇我満智のことを干支三運繰り上げて木満致の名で記載したとも考えられる。
 また蘇我満智の満智という名は木満致の満致と同音である。

 そこで蘇我満智と応神朝に大和にやって来たとされる木満致(木{ら}満致)を同一人物ではないかとするのが門脇禎二氏の唱える説である。
 筆者は門脇氏の説を支持する。

 このように一人の人物を、別名を使ってあたかも二人の人物に見せかけるのは高向王や押坂彦人大兄皇子同様『日本書紀』の常套手段である。
 また木{ら}満致が任那出身で新羅を経由して我が国にやって来たというのはスサノオが新羅から我が国にやって来たという神話の示唆する内容とも良く合致している。


 「木満致」と「大倭木満致」

 なお『日本書紀』には多くの写本が残されているが、その写本の多くは木満致の名を「大倭木満致」と記している。

 「大倭」というのはたいへんな尊称で、別の書き方をすれば「大日本」のことで、本州のことを『古事記』は大倭豊秋津島、『日本書紀』は大日本豊秋津洲と表記している。天皇の和風諡号(懿徳天皇【大倭日子{すき}友命】、孝安天皇【大倭帯日子国押人命】、孝霊天皇【大倭根子日子賦斗邇命】、孝元天皇【大倭根子日子国玖琉命】、持統天皇【大倭根子天之廣野日女尊】)にも使われている。

 ところが『日本書紀』の最古の写本といわれる田中本(奈良末期〜平安初期)には大倭木満致ではなく単に木満致と記されているので、おそらく『日本書紀』の原本には「大倭」は無かったと思われ、平安時代以降「大倭」の尊称が書き加えられたのだろう。

 なぜこのような書き加えがなされたのであろうか。
 木満致が普通の渡来人ならこのような書き加えをしなければならない理由はまったく見あたらない。天皇がこのような書き加えを指示したとも思えない。おそらく天皇家の祖先が木満致であることを知っている人物が真実を書き残すために、こっそりとこのような書き加えをしたのではないか。

 この「大倭」の二文字こそ天皇家の正体が秘められた決定的な『最終暗号』なのである。

 木満致が我が国にやって来た後、任那は新羅によって侵略され、欽明天皇二十三年(五六二)には任那は滅び、事実上新羅の領土と化す。
 その後大和朝廷は任那を天皇の固有の領土と主張し、新羅に対して新羅の調とは別に「任那の調」を要求し、場合によっては軍事的圧力をかけている。

 その後、任那の一部を支配した百済に対しても同様の「任那の調」を要求し、新羅、百済ともにその要求に応じている。
 つまり両国は任那が天皇の固有の領土という大和朝廷の主張を名目的ではあるが認めていたのである。

 また百済は斉明天皇六年(六六〇)に唐、新羅の連合軍によって滅ぼされてしまう。
 その後、鬼室福信ら百済の遺臣たちは百済復興の戦いを続けるが、中大兄皇子は国の総力を挙げて百済復興を支援することを決意、大国の唐を敵に回すという大きな危険を冒してまで百済復興支援のために大軍を朝鮮半島に派遣した。

 この計画は白村江の戦いの敗北(六六三年)によって潰え、百済は完全に滅亡し、逆に日本は防人を九州北部に配置し、各地に城を築くなど国防の強化をするはめになってしまった。
 その後中大兄皇子は亡命してきた百済の王族、貴族達を受け入れ、朝廷内において優遇している。
 大和朝廷の朝鮮半島に対するこれらの政策も天皇家の祖先が任那を支配していた百済の貴族であることによってよく理解できると思う。


 百済の王でもあった日本の天皇

 三種の神器といえば歴代の天皇が代々継承している三種の宝物でいわゆるレガリア(王権の象徴)で、現在では八咫鏡、天叢雲剣、八尺瓊勾玉が知られているが古代においてはこの三種の神器とは別に、「大刀契(たいとけい)」と呼ばれる百済伝来の神器が、三種の神器に準ずるものとして、天皇の代替わりごとに伝授、継承されていた。大刀となっているのでおそらく百済王家伝来の神剣だろう。

 いつ頃まで継承されていたか正確な記録は存在しないが南北朝時代まで継承されていたようだ。
 この「大刀契」は百済が滅亡した後、日本に亡命してきた百済の王族から天皇家に献上されたものといわれている。
 天皇家が百済と何の繋がりもなければ、このような既に滅びてしまった百済の神器を三種の神器に準ずるものとして扱う何の意味もなければ、その資格もない。それどころか縁起でもない話である。しかし百済の貴族を先祖に持つ日本の天皇家にはその意味も資格もあったのである。

 天武天皇二年(六七三)六月二日、天武天皇は百済人の沙宅昭明の死に際して、彼に外小紫の位を贈るとともに「大佐平」の位を賜っている。この「大佐平」の位というのは百済の王が臣下に授ける最高位の位とされている。

 古代において日本の天皇は百済の王でもあったのである。

 なおこの沙宅昭明という人物について『日本書紀』は聡明叡智で秀才とうたわれた人物であると特筆している。
 また天武天皇が彼に贈った外小紫という位は、当時かなりの高位で主に中央出身以外で功績のあった人物にその死去に際して贈られており、他には村国男依、大分恵尺といった壬申の乱の功臣が贈られている。

 沙宅昭明もかなりの功労者であったようで、武人ではないのでおそらく彼は天武天皇のたいへん有能なブレーンだったのだろう。

 大国主神の国造りの神話では大国主神の相棒として少名毘古那神(日本書紀では少彦名命)という小さくても智恵のある神が登場し、この二柱の神が力をあわせて国を造るのだが少名毘古那神は国造りの途中で、突然黄泉の国に去ってしまう。
 少名毘古那神のモデルはこの沙宅昭明と考えられる。