●磯長王陵の谷


 磯長谷は大阪府南河内郡太子町を流れる石川の支流の飛鳥川に沿った二上山の西斜面に位置している。この地は難波と大和の飛鳥を結ぶ古代の官道、竹内街道が通る交通の要所でもあった。

 そこには第30代・敏達天皇、第31代・用明天皇、第33代・推古天皇、第36代・孝徳天皇の陵のほか、ほか聖徳太子とその母、穴穂部間人皇后と妃の膳部大郎女の三人を合葬した陵がある叡福寺など飛鳥時代前期の歴代の天皇の墳墓、皇族の墓が数多く営まれている。このことから磯長王陵の谷とも呼ばれている。


○敏達天皇陵(河内磯長中尾陵)

 敏達天皇:第30代天皇
 在位:敏達天皇元年4月3日(572年4月30日) - 同14年8月15日(585年9月14日)。
 和風諡号は渟中倉太珠敷尊(日本書紀、古事記では沼名倉太珠敷命)別名、他田天皇ともいう。

 初め百済大井宮(大阪府河内長野市太井など諸説あり)を皇居としたが、575年、訳語田幸玉宮(おさたのさきたまのみや、現在の奈良県桜井市戒重。他田宮)へ遷った。

 当時は廃仏派の大連物部守屋と崇仏派の大臣蘇我馬子が鋭く対立していた。崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、仏を祭ると同時期に疫病が流行したため、585年に物部守屋が廃仏派よりだった天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やした。その年の8月15日病が重くなり死去したと言われている。

 母の墓でもあった河内磯長中尾陵(太子西山古墳、大阪府南河内郡太子町大字太子)に葬られた。

  


  


  


  


  


○用明天皇陵(河内磯長陵)

 用明天皇:第31代天皇
 在位:敏達天皇14年9月5日(585年10月3日)- 用明天皇2年4月9日(587年5月21日)

 欽明天皇の第四皇子。母は蘇我稲目の娘の堅塩媛。和風諡号は、橘豊日天皇(日本書紀、古事記では橘豊日命) 諱は池辺皇子。また、即位前は大兄皇子とも称した。

 用明天皇は蘇我稲目の孫で、最初の蘇我系の天皇である。そのため崇仏派であり仏法を重んじたといわれる。一般的には聖徳太子の父としてよく知られているが私はこれには疑問を持っている。

 しかし在位は短く疱瘡のため、在位2年足らずの587年4月9日(古事記では4月15日)に崩御した。

 磐余池上陵に葬られたが後に河内磯長陵(大阪府南河内郡太子町大字春日)に改葬された。

  


  


  


  


  


  


○推古天皇陵(磯長山田陵)

 推古天皇:第33代天皇
 在位:崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日)- 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)

 第29代欽明天皇の皇女。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(日本書紀、古事記では豊御食炊屋比売命という)。諱は額田部皇女。母は大臣蘇我稲目の女堅塩媛。夫は第30代敏達天皇。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟である。

 用明天皇の病没後、穴穂部皇子を支持する物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い、蘇我氏の勝利に終わった。そこで皇太后(額田部皇女)の詔により泊瀬部皇子(崇峻天皇)が即位した。しかし、5年後の祟峻5年11月に崇峻天皇が馬子によって暗殺されてしまい、翌月に、先々代の皇后であった額田部皇女が、群臣に請われて、豊浦宮において即位した。

 翌年、厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子となり摂政となった。馬子とともに冠位十二階(603年)・十七条憲法(604年)を次々に制定して、法令・組織の整備を進めた。また推古天皇15年(607年)、小野妹子を隋に派遣し、大陸の文化を導入するとともに仏法興隆にも努めた

 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)、75歳で小墾田宮において崩御。息子・竹田皇子が眠る墓に合葬された。その所在は奈良県橿原市五条野の植山古墳といわれている。後年、大阪府南河内郡太子町山田にある磯長山田陵(山田高塚古墳)に改葬された。

  


  


  


  


  


  


  


○孝徳天皇陵

  


  


  


  


  


  


○叡福寺