●明日香巡り その2

○定林寺

 創建年は明らかではないが聖徳太子が建立した寺院の一つとされ元は「立部寺」とも呼ばれたといわれる。法灯は今でも守り続けられているが創建当時のものは残されてはいない。

  


  


  


  


  


  


  


  


○奥山久米寺跡

 奥山久米寺は謎の多い寺である。

 数次にわたる発掘調査によってこの寺が塔、金堂、講堂が南北一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置で、創建年代は七世紀前半であることが判明、その規模も山田寺、川原寺に匹敵する第一級の寺院であるが本来の寺名すら確認されていない。そのため考古学上では「奥山廃寺」と呼ばれている。

 最近の研究では仏教伝来時に蘇我稲目が仏像を安置した「小墾田の家」が基になった小墾田寺ではないかという説が提唱されているがその証拠は見つかっていない。

  


  


  


  


  
 桜と十三重の石塔


○大官大寺跡

  大官大寺跡は高市郡明日香村大字小山の水田の中にある、文武天皇の時代に造営された古代の金堂跡・塔跡の基壇である。現在国の史跡に指定されている。

 
伽藍は中門・金堂・講堂が南から北へ並び、中門と金堂をつなぐ回廊の中の東部に塔を配し、東大寺に匹敵する巨大なものであったが完成直前に消失し、その後再建されなかった。

  
 塔跡にある説明碑

  
 古くから礎石が露出していたが、現在はこれらの礎石は昭和13年から15年にかけて行われた橿原神宮造営に流用されたため現存していない。塔は基壇の規模から九重の塔ではなかったかと言われている。

  
 こちらは金堂跡 畑になっている。

  
 塔跡から金堂跡を見る

  
 塔跡より甘樫の丘を見る。周りは水田に取り囲まれている。


○向原寺

豊浦の宮が造られる以前、この地には蘇我稲目(いなめ)が向原の家を構えていた時期があった。『日本書紀』は、552年(欽明13)の仏教公伝の記事の中で、次のように記している。百済の聖明王が送って来た金銅の釈迦仏を前にして、欽明天皇はこの外国の神を我が国が受け入れるべきかどうか群臣に諮問した。群臣の間で意見が分かれたため、天皇は仏像を蘇我の稲目に授けて、試みに礼拝することを命じた。稲目は喜んで仏像をもらい受けると、小墾田(おわりだ)の家に安置して、仏道修行に励んだという。

 『日本書紀』は、上の話の後に「向原の家を清めて寺とした」という一文を書き添えている。この文章の意味が分かりづらい。小墾田の家とは別に向原の家があったのか、それとも二つの家は同じ場所を指すのか、判断をしかねる表現である。小墾田は飛鳥の地名で、その範囲は広く、現在の明日香村一帯を指す、と一般には解されている。しかし、推古天皇は新しい宮を造って11年後にそこに遷るが、この新しい宮の名は小墾田の宮とされている。この場合、小墾田の地名は豊浦と対比されるような狭い場所を示していると解される。



  


  


  


  


  


  


  


  


○甘樫坐神社
 
 甘樫坐神社は、奈良県高市郡明日香村の甘樫丘に鎮座する神社である。延喜式神名帳には「大和国高市郡 甘樫坐神社四座」と記載され、大社に列格、月次・相嘗・新嘗の奉幣に預ると記されておりかなり高位の神社であった。旧社格は村社である。

 推古天皇を主祭神とし、相殿に八幡宮、春日大明神、天照皇大神、八咫烏神、住吉大明神、熊野権現を祀る。もっとも推古天皇が主祭神となったのは江戸時代以降のことである。

 武内宿禰による創建と伝えられるが武内宿禰自身が伝説上の人物とされるので真実かどうかは定かではない。しかし蘇我氏と関係の深い神社であると思われる。

  
 右の建物は向原寺 甘樫坐神社は向原寺の裏に位置する。

  
 甘樫坐神社の拝殿

  
 立石 毎年4月、立石の前に釜を据えて湯を沸かし、笹を湯につけ、我が身を拭い清め無病息災を願う「盟神探湯神事」が行われる。

  


  

○文武天皇陵
 
  


  


  


  

於美阿志神社と檜隈寺跡

 於美阿志神社と檜隈寺は奈良県高市郡明日香村大字檜前にある東漢氏の氏神・氏寺である。東漢氏は飛鳥時代の蘇我氏を支えた渡来系の氏族として知られる。

  


  


  


  


  
 檜隈寺の塔心礎の位置に建つ十三重石塔(重要文化財)

  
 平安時代の作と言われるが十一番目から上は欠けている。

  

○飛鳥稲淵宮殿跡

  


  

○坂田寺跡

 坂田寺は奈良県高市郡明日香村阪田にあった鞍作氏の氏寺と言われている。鞍作氏はその名からわかるように鞍作などに携わる工人で、蘇我氏と深い関わりがあった。大官大寺・飛鳥寺・川原寺・豊浦寺とともに五大寺と呼ばれたこともあったというが今ではその面影もない。

  
 今では案内板と万葉歌碑が建つだけである。

  


  
 坂田寺跡近くにある「マラ石」 謎の石造物の一つ このあたりも昔は坂田寺の寺域であったらしい。


○飛鳥稲渕地区

  
 かかしコンテストの写真が掲げてあった。明日香は山田の案山子のふるさとである。歩くことはできないが世の中のことはなんでも知っている。

  
 関西大学飛鳥文化研究所の駐車場へ向かう道 見事な桜並木を一枚

  


  


  


  


○南淵請安の墓

 南淵請安(生没年不詳)は飛鳥時代の渡来氏族出身の学問僧である。大和国高市郡南淵村に住んだことからこの名がある。

 請安は推古天皇16年(608)、遣隋使小野妹子に従い高向玄理、僧旻ら8人の留学生、留学僧の一人として隋へ留学した。隋の滅亡(618年)から唐の建国に至る32年間もの長き期間滞在、舒明天皇12年(640)に高向玄理とともに帰国。隋・唐の進んだ学問知識を日本に伝え、その後の国家改革に大きな影響を与えたと言われる。。

 中大兄皇子や中臣鎌子も請安の塾に通ったと言われている。
 
  
 桜の木のある小さな丘に南淵請安の墓はある。

  


  
 この狭い道を登る。

  
 丘の頂上に小さな祠がありこの裏が請安の墓になっている。

  
 南淵請安の墓