元興寺伽藍縁起并流記資財帳


 桜井等由羅宮に天の下治しめしし等与弥気賀斯岐夜比売命生年一百。歳次癸酉正月九日に、馬屋戸豊聰耳皇子、勅を受けて、元興寺等の本縁および等与弥気の命の発願ならびに諸の臣等の発願を記すなり。
 揩井等由羅の宮(豊浦宮)で天下を治められた等与称気賀斯岐夜比売の命(推古天皇)がお生まれになってから百年目の癸酉(613)正月九 日に、馬屋門豊聡耳皇子(聖徳太子)が、天皇の勅を受けて、元興寺等の本縁及び等与称気の命(推古天皇)の発願并びに諸々の臣等の発願を記 したものである。


 大倭の国の仏法は、斯帰嶋の宮に天の下治しめしし天国案春岐広庭天皇の御世、蘇我大臣稻目宿禰仕え奉る時、天の下治しめす七年歳次戊午十 二月、度り来たるより創まれり。 百済国の聖明王の時なり、太子像ならびに灌仏の器一具、及び仏起を説く書巻一筐を度して言さく、「当に聞 く、仏法既にこれ世間無上の法、その国も亦修行すべきなり」と。時に天皇、諸の臣等に告りたまわく、「この他国より送り度りし物、用いるべ きや用いざるや、善く計りて白すべし」と告りたまひき。
 大倭の国の仏法は、斯帰嶋の宮で天下を治められた天国案春岐広庭天皇(欽明天皇)の御代に、蘇我大臣稲目宿禰が仕えていたとき、戊午(5 38)十二月(紀では仏教公伝は欽明天皇十三年壬申(552)十月とある)に、百済国より渡ってきたのが始まりである。百済国の聖明王は、 悉達太子像并びに灌仏の器一式、及び仏起を説く書巻一篋を渡して曰わく「聞くところによれば、仏法は既にこの世の最高の法であり、貴国も修 行すべきである」と。これを受けて天皇は、諸々の臣等に対し、「この百済国より送られてきた物を、採用すべきか、それとも採用せざるべきか 、よく相談して申しなさい」と仰せになった。


時に余の臣等白さく、「我等が国は、天つ社・国つ社の一百八神を、一所に礼ひ奉れり。我等は国つ神の御心を恐れるが故に、他国の神を礼拝ふ べからず」と白しき。但、蘇我大臣稻目宿禰獨り白さく、「他国に貴き物とするは、我等が国も亦貴しとするを宣しとすべし」と白しき。その時 、天皇、即ち大臣に告りたまはく、「何れの処に置きて礼ふべきや」と。大臣の白さく、「大々王の後宮と分け奉れる家を坐と定むることを宣し とすべし」と白しき。時に天王、大大王を召して告りたまはく、「汝が牟久原の後宮は、我、他国の神の宮とせむと欲るなり」と。時に大々王の 白さく、「大御心に依り、佐賀利奉らむ」と白しき。時に、その殿に坐して礼ひ始めき。
そのとき、他の臣等(物部尾輿、中臣鎌子)は、「我国は天つ社・国つ社の百八の神を一所に祀っております。国つ神の御心(祟り)が恐ろしい ので、他国の神を礼拝すべきではありません」と申し上げた。しかし一人蘇我大臣稲目宿禰だけは「他国で貴んでいる物は我が国でも貴ぶのがよ いでしょう」と申し上げた。そこで天皇は大臣に対して、「どこに安置して祀るべきだろうか」と仰せになった。大臣は、「大々王の後宮と離れ家を安置場所としたらよいで しょう」と申し上げた。天皇は大々王をお呼びになり、「おまえの牟久原(向原)の後宮を、私は他国の神の宮としたい」と仰せになった。その とき大々王は、「大御心に従い、後宮を離れましょう」と申し上げた。そこでその御殿に安置して礼拝し始めたのである。


 しかる後に、百済人・高麗人・漢人、私に少々修行をして在りき。その時、一年を隔てて、しばしば神の心発りき。時に余の臣等の言さく、「 かくのごとく神の心しばしば発るは、他国の神を礼ふ罪なり」と。時に稻目の大臣の言さく、「他国の神を礼わざる罪なり」と。余の臣等言さく 、「神の子等とある我等が言すを聞かずして、国内を乱るや」と。その時に天王聞しめし賜ひて、大臣に告りたまはく、「国内しばしば乱れ病死 の人多きは、他国の神を礼う罪と言ふなり。宜しく許すべからず」と告りたまひき。時に大臣、久しく念々白さく、「外状は余の臣等に随ひて在 るとも、内心には他国の神を捨てじ」と白しき。 時に天王告りたまはく、「我も亦のごとくかく念はむ」と告りたまひき。
 その後、百済人・高麗人・漢人が、ひそかに細々と修行をしていた。そのころ、一年ごとにしばしば災い(神の怒り)が起きた。そこで他の臣 等は、「このように災いがしばしば起こるのは、他国の神を祀っているからだ」と言った。そのとき稲目の大臣は、「他国の神を祀らないからだ 」と言った。他の臣等は、「神の子である我々の言うことを聞かないでいると、国内がますます乱れるだろう」と言った。天皇はそれを聞いて、 大臣に対し「国内がしばしば乱れ、病死する者が多いのは、他国の神を祀っているからだという。仏法を禁止しよう」と仰せになった。そこで大 臣は、長く考えた末「外向きには他の臣等に従いますが、内心は他国の神を捨てることができません」と申し上げた。そのとき天皇は、「私もそ のように思う」と仰せになった。


 しかる後、三十余年を経て、稻目大臣病を得、危ふきに望めり。時に池辺皇子と大々王二柱の前に後言して白さく、「仏法を修行したまふべし と我れ白すに依りて、天皇修行し賜ふなり。しかるに余の臣等、猶まさに滅して捨てむと計る。故、これ仏神の宮として官に奉りてし牟久原の後 宮は滅むとも、物主の大命に任になれり。但、天皇と我とは心を同じくす。皇子等も亦底かに心を同じくし、終に仏法を忌み捨つることなかれ」 と白しき。その時、大々王は日並四皇子嫡后と坐しき。 池辺皇子は他田皇子の即次と坐しき。 これを以て、後言して白しき。
 その後、三十余年の後、稲目の大臣が病に伏し、危険な状態になった。そこで池辺皇子(後の用明天皇)と大々王の二柱の前で、次ぎのような 遺言をした。「仏法を修行すべきでしょうと私が申し上げたことによって、天皇も修行をされている。しかしながら、他の臣等は、取り壊して捨 てようとしている。もしこの仏神の宮としている牟久原の後宮が取り壊されても、天皇のお考えに従いなさい。ただ天皇と私は心を同じくしてい ます。皇子等もまた、密かに心を同じくし、なにとぞ仏法を忌み捨てないでください」 そのとき、大々王は、日並四皇子(後の敏達天皇)の正 妻と並んで座っていた。池辺皇子は他田皇子(後の敏達天皇)の隣に座っていた。このような状況で、遺言は述べられたのである。


 しかして已丑の年、稻目大臣薨れる後に、余の臣等共に計りて、庚寅の年に堂舎を焼き切り、仏像・経教を難波江に流せり。時に二柱の皇子等 言さく、「この殿は仏神の宮にあらず、借に坐し在すのみそ。これは大々王の後宮そ」と告りたまいて、焼き切らしめざりき。但堅く惜しむこと を得ず、太子の像は出して、灌仏の器は隠し蔵めて出さざりき。今この元興寺に在るはこのこれなり。
 このようにして、己丑の年(569)に、稲目の大臣が亡くなった後、他の臣等が共謀して、庚寅(570)に堂舎を焼き払い、仏像・教典を 難波江に流そうとした。そこで二柱の皇子等は、「この御殿は仏神の宮ではなく、仮安置していたのみである。これは大々王の後宮である」と申 して、焼き尽くされるのを免れた。ただし非常に残念なことに太子像は持ち出されてしまったが、灌仏の器は隠してあったため持ち出されること を免れた。いま、元興寺にあるのがこれである。


 しかる後、辛夘の年、神の心増益し、国内に病死の人多く在りき。大きに旱して雨ふらず。また天より雨大雨る。後、終に大宮に神火出でて焼 けり。天皇卒かに驚愕きたまひ、たちまちに病を得、危ふきに望みたまふ。時に池辺皇子と大々王との二柱を召して告りたまはく、「仏神は恐き 物にありけり。大父の後言忘るることなかれ。愼々仏神は憎み捨つべからず。大々王のその牟久原の後宮は、更に望む心無く、終に仏に奉り、共 に取りて自が物とすることなかれ。その代りは、耳无宮気弁田を既に得て後宮とせむ」と告りたまひき。 時に二柱の皇子等、その命を頂き受け 賜はる。しかるに、同年夘、天皇崩りましき。
 その後、辛卯の年(571)に、神の怒りが増し、国内では多くの人が病気で死んだ。日照りが多く、雨が降らなかった。逆に大雨になったり もした。ついには宮殿に火災が発生し焼けた。天皇は、驚いて、たちまち病気となり、危険な状態になった。そこで池辺皇子と大々王の二柱をお 呼びになり「仏神は恐ろしいものである。大父(稲目)の遺言を忘れてはいけません。決して仏神を憎んで捨ててはなりません。大々王の牟久原 の後宮は、今後も物欲を捨て、終生仏を祀り、共同して管理し、自己のものとしないように。この代わりに耳无宮気弁田を既に得たので、これを 後宮としなさい」と仰せになった。そして二柱の皇子等は、その命を丁重に承った。しかし、同年、天皇は崩御された。


 崩りまししより第十一年辛丑の年、他田天皇の大前に大后大々王の白さく、「先の己丑の年、大父祖大臣後言して、『仏法は憎むく、捨つるなき そ』と。かくのごとく後言を受けて在り。しかるに庚寅の年、仏法の諌止に依り、故哩侍りき。また辛夘の年、父の天皇の後言を承りて在るなり 。池辺皇子と我れと二人を召して告宣はく、『仏法は憎み捨つべからずとなり。また大々王は、その牟久原の後宮は、更に望む心なく、終に仏神 に奉り、取りて自が物とすることなかれ』と告宣ひき。かくのごとく、二時の後言を承りて在り。しかるに仏法の諌止に依り、十余年の間、故哩 侍りき」と白しき。時に他田天皇告宣ひて、「猶今の時に臣等、等しき心なし。故、もしせむと欲れば、竊々行ふべし」と告りたまひき。
 崩御から十一年目の辛丑の年(581)に、他田天皇(敏達天皇)の前で、大后大々王は、「先の己丑の年(569)に、大父祖(稲目)大臣か ら仏法を憎むことなく、捨てないようにとの遺言を受けた。しかし、庚寅の年(570)に、仏法の諌止により(仏法を)怠ってしまった。また辛 卯の年(571)には、父天皇(欽明天皇)の遺言も受けている。池辺皇子と私の二人をお呼びになって『仏法を憎んで捨てることのないように 。また、大々王は、その牟久原の後宮は、今後も物欲捨て、終生仏神を祀り、自分のものにしないように』と仰せになった。このように、二度、 遺言を受けたわけです。しかし、仏法の諌止により、十余年の間、(仏法を)怠ってしまった」と仰せになった。 そのとき他田天皇は、「いまでも 他の臣等は、我々と同じ考えではない。もし事(仏法)を行なうとしたら、密かに行うべきだ」と仰られた。


 時にかくのごとく命を承り已りて、壬寅の年、大后大々王と池辺皇子の二柱、心を同じくして、牟久原の殿を桜井に遷して、癸夘に始めて桜井 道場作し、灌仏の器を隠し蔵めき。しかる後、癸夘に稻目の大臣の子馬古足禰、国内にわざわいを得て筮卜に問へる時、言はく、「これ父が世に 祀る神の心なり」と。時に大臣、恐れ懼みて仏法を弘めむことを願ひ、即ち出家すべき人を求むるに、都て応ずる者なかりき。但、この時に、針 間国に、脱衣の高麗の老比丘、名は惠便と、老比丘尼、名は法明とありき。時に按師首達等の女、斯末売、年十七にて在り。阿野師保斯の女、等 已売、錦師都瓶善の女、伊志売、合せて三の女等、法明に就いて仏法を受け学びて在り。倶に白さく、「我等、出家して仏法を受け学ばむと欲」 と白しき。大臣即ち喜びて出家せしむ。嶋売は法名善信、等己売は法名禅蔵、伊志売は法名惠善なり。その時、大臣、大々王と池辺皇子との二柱 、歓喜し、桜井道揚に請せて住まはしめきたまひき。
 このように命を承り終わった後、壬寅の年(582)に、大后大々王と池辺皇子の二柱は、同じ考えのもと、牟久原の御殿を揩井に遷し、癸卯 の年(538)に初めて桜井道場とし、灌仏の器を隠して納めた。その後、癸卯の年(583)に稲目大臣の子の馬子宿禰は、国内に災害が起こ り、筮卜に問うたとき、「これは父の世に祀った神の心である」と答えた。そこで馬子大臣は、恐れ懼んで仏法を広めようと願い、出家するひと を求めたが、それに応ずるものは一人もいなかった。しかし播磨の国に高麗の老仏僧の恵便と、老仏尼の法明というものがいた。そのとき按師首 達等の娘の嶋女は十七才であった。阿野師保斯の娘の豊女、錦師都瓶善の娘の石女、これら三人の娘が、法明に就いて仏法を学んでいた。三人は 、「我らは出家して仏法を学びたいと思います」と申し上げた。大臣は喜び、すぐに三人を出家させた。そのとき、大臣、大々王と池辺皇子の二 柱は歓喜し、三人を桜井道場に住まわせることにした。


 次に、甲賀臣、百済より石の弥勒菩薩像を持ち度り来たれり。三柱の尼等、家の口に持きて供養し礼拝ひき。時に按師首、飯食の時に、舎利を 得て、以て大臣に奉りき。大臣、乙巳の年二月十五日、止由良佐岐に刹の柱を立てて大会を作す。この会のこの時、他田天皇、仏法を破らんと欲 たまひ。即ちこの二月十五日、刹の柱を斫き伐り、重ねて大臣及び仏法に依る人々の家を責め、仏像・殿を皆破り焼き滅し尽くしき。佐俾岐弥牟 留古造をして、三の尼等を召さしむ。泣きて出で往く時、大臣を観き。三の尼等を將て都波岐市の長屋に至りし時、その法衣を脱がして仏法を破 り滅しき。その時に桜井道場は、大后大々王の命以て、犯さるることはなかりき。「我が後宮そ」と告りたまひて、焼かしめたまはざりき。
 そのころ甲賀臣が百済から弥勒菩薩の石像を持ち帰ってきた。三柱の尼等は家の間口に置いて供養し、礼拝した。そして按師首が斎食の儀のと きに舎利を手にいれ、それを大臣に献上した。大臣は乙巳の年(585)二月十五日に、止由良佐岐(紀では大野丘の北)に刹の柱を立てて大会 を催した。この会のとき、他田天皇は仏法を破り捨てようと、この二月十五日に、刹の柱を切り割き、次いで大臣や仏法を奉ずる人々の家を攻め 、仏像や御殿をすべて破壊し、焼き尽くしてしまった。佐俾岐弥牟留古造(紀では佐伯造御室)に三人の尼を呼び寄せさせた。泣きながら出てい くとき、大臣の方を見た。三人の尼等を率いて都波岐市(椿市)の長屋に着いたとき、その法衣を脱がして仏法を破り捨てた。そのとき桜井道場 は大后大々王の一言により、攻められるのを免れた。「ここは私の後宮である」と仰せになったので、焼かれなかったのである。


 仏法破亡の時、即ち国内に悪瘡流興りて、人民の病死するもの多かりき。時に病者、自ら皆言はく、「我え焼けり。我れ斫けり。我れ切れり」 と言ひき。その時、三の尼、出でずして堅く守りき。時に大臣、また痾を得たり。故、他田天皇の大前に白さく、「また三宝を敬はむことを欲り す」と。天皇、但、大臣のみ許したまふ。大臣、更に三の尼等を請せて、三宝を敬礼ひき。
 仏法が破り捨てられたとき、国内に悪瘡が流行し、病死する人が多かった。そのとき病人皆が、「自分が焼かれ、裂かれ、切られるようだ」と 言った。三人の尼等は外に出ず、自分等の身を守るのに必死だった。大臣は、またも病にかかった。そこで他田天皇の御前で「また三宝を敬いた いと思う」と申し上げた。天皇は大臣にだけ仏法を許された。大臣は再び三人の尼等に頼んで三宝を敬わせた。


 他田天皇、同じき乙巳の年に崩りましき。次いで池辺皇子、即ち天皇に立ちたまひき。 馬屋門皇子の白さく、「仏法を破り滅さば、わざわい 増益す。故、三の尼は桜井道場に置きて、宜しく供養したまふべし」と。時に天皇許し賜ひて、桜井寺に住まはしめて供養をしたまひき。時に三 の尼等、官に白さく、「伝え聞く、出家の人は戒を以て本とすと。しかるに戒師なし。故、百済国に度りて戒を受けむと欲りす」と白しき。
 他田天皇は同年乙巳の年(585)に崩御された。次いで、池辺皇子が天皇に即位された。馬屋門皇子が申されるには、「仏法を破り捨てよう とすれば、災いはさらに増えるだろう。ぜひとも三人の尼等は桜井道場に住まわせ、仏法を供養(三宝を敬うこと)させねばならない」と。そこ で天皇はお許しになり、桜井寺に住まわせて供養させた。そのとき三人の尼等が官に「伝え聞くところによると出家をする人は戒を受けなければ ならない。しかしここには戒師がいない。だから、百済国に言って戒を受けたいと思います」と申し上げた。


 しかるに久しからざる間に、丁未の年、百済の客来たれり。官の問ひて言はく、「この三の尼等、百済国に度りて受戒せむと欲りす。この事云 何にすべきや」と。時に蕃客、答えて曰さく、「尼等が戒を受くる法は、尼寺の内に先づ十尼師を請せて、本戒を受け已る。即ち法師寺に詣り、 十法師を請す。先の尼師十と合せて二十師が所にて本戒を受くるなり。しかれども、この国は但尼寺ありて、法師寺及び僧なし。尼等もし法のご とくせむとすれば、法師寺を設け、百済国の僧尼等を請せ、戒を受けしむべし」と白しき。時に池辺天皇、命以て、大々王と馬屋門皇子二柱に語
り告宣はく、「法師寺を作るべき処を見定めよ」と告りたまひき。時に百済の客白さく、「我等が国は、法師寺と尼寺の間、鍾の声互いに聞え、 その間に難き事なし。半月々々に日中の前に往還する処に作るなり」と。 時に聰耳皇子、馬古大臣と倶に、寺を起す処を見定めたまひき。丁未 の年。時に百済の客、本国に還りき。 時に池辺天皇、告宣はく、「まさに仏法を弘め聞かむと欲りするが故に、法師等并びに造寺の工人等を欲 りす。我れに病いあり。故、忽速かに送るべし」と。しかれども、使者の来たらざる間に、天皇崩りましき。

 しかし、ほどなくして、丁未の年(587)に百済国から客が訪れた。官がこの客に「この三人の尼等は百済国に渡って戒を受けたいと思って おります。どうしたらよいでしょうか」と尋ねた。そのとき百済の使者がこれに答えて、「尼等が戒を受けるには、まず尼寺のなかから十人の尼 師に本戒を受けさせます。その後、法師寺に赴いて、十人の法師にお願いします。先の尼師十人と合わせて二十人の師が本戒を受けます。しかし 、この国には尼寺しかなく、法師寺も僧もおりません。尼等がもし正式に戒を受けようとするなら、法師寺を設け、百済国の僧や尼等に要請して 、戒を受けるがよいでしょう」と言った。そこで池辺天皇は大々王と馬屋門皇子の二柱に「法師寺を建てるべき場所を見定めなさい」とお命じに なった。そのとき百済の客が「我国では、法師寺と尼寺の間は鐘の音が交互に聞こえ、それほど離れておりません。半月ごとに午前中に行き来出 来るところに建てております」と言った。そこで聡耳皇子と馬古大臣がともに寺を建てる場所を見定めた。その年に、百済の客は本国に帰った。 そして池辺天皇が「私は仏法を広めたいと思う。そのためには法師等や寺を造る大工が必要である。しかし私は病気にかかっている。だから、早 急に対処するように」と仰せになった。しかし使いが来る前に、天皇は崩御された。


 次いで椋梯天皇、天の下治しめしし時、戊申の年、六口の僧、名は令照律師、弟子惠総、令威法師、弟子惠勲、道嚴法師、弟子令契、及び恩卒 首真等四口の工人、并びに金堂の本様を送り奉上りき。今、この寺に在るはこれなり。時に聰耳皇子、大々王の大前に白さく、「昔、百済国に法 師等及び工人を遣はされむことを乞い奉上れり。この事云何にせむ」と。時に大后大々王、告宣はく、「先の種々の事を以て、今の帝の大前に白 さむ」と告りたまひき。時に聰耳皇子、具ひらかに先の事を白したてまつる。時に天皇告宣はく、「先の帝の時、期ひたまひし所のごとくにせよ 」と。時に三の尼等、官に白さく、「但、六口の僧のみ来たりて、二十師を具せず。故、猶百済国に度り受戒せんと欲りす」と白しき。時に官、 諸の法師等に問ひけらく、「この三の尼等、度りて戒を受けむと欲りす。この事云何に」と。時に法師等の答うる状、先の客の答のごとくして異 なるところなし。時に尼等、「強ちに度らむと欲りす」と白しき。 時に官、許し遣はしき。弟子の信善・善妙を合わせて、五の尼等を遣はし、 戊申の年を以て往きたり。
 次いで、椋橋天皇(崇峻天皇)が天下を治められていた戊申の年(588)に、令照律師、弟子の恵聡、令威法師、その弟子恵勲、道厳法師、 その弟子令契の六人の僧と、恩率首真等の四人の大工と、本堂の模型を送られてきた。いま、この寺に残っているのがこれである。このとき聡耳 皇子が大々王の御前で「昔、百済国に法師と大工を派遣してほしいとお願いしたことがあります。これにどう対処いたしましょう」と申し上げた 。そこで大后大々王は「それらのことは、いまの帝の御前で申し上げましょう」と仰せになった。そこで聡耳皇子は天皇の御前でそれらのことを 詳しく申し上げた。すると天皇は「先の帝が願ったとおりにしなさい」と仰せになった。また三人の尼等が官に「但し、六人の僧が来ただけでは 二十師にはなりません。そこで百済国に渡って戒を受けたいと思います」と申し上げた。そこで官は、諸々の法師等に「この三人の尼等が百済国 に渡って戒を受けたいと言っております。このことについてどう思われますか」と問うた。そのときの法師等の答えは、先の客人の申したのと同 じで、異なるところがなかった。そのとき尼等は「是非とも渡りたいと思っております」と申し上げた。そこで官は渡航を許した。尼等の弟子の 信善・善妙を含めた五人の尼等を遣わし、戊申の年(588)に百済国に渡った。


 時に聰耳皇子、大后大々王の大前に曰さく、「仏法を弘むる事、官、既に許し賜へり。今、云何にするや」と。時に大后大々王、聰耳皇子と馬 古大臣との二人に告宣はく、「今は百済の工等を以て二寺を作らむとするなり。しかれども、尼寺は始めに標せるごとし。故、今は法師寺を作れ 」と告りたまひき。時に聰耳皇子・馬古大臣の二柱、共に法師寺を起つる処に、戊申の年を以て仮垣・仮僧房を作り、六口の法師等を住まはしめ き。また桜井寺の内に屋を作り工等を住まはしめ、二寺を作らむがために、寺木を作らしめき。
 聡耳皇子が大后大々王の御前で「仏法を広めることを官は許されました。これからどういたしましょうか」と申し上げた。そこで大后大々王は 、聡耳皇子と馬古大臣の二柱に「今は、百済の大工に二寺を造らせましょう。しかし、尼寺はすでに述べたように建造されているから、法師寺を 造りなさい」と仰せになった。そこで聡耳皇子と馬古大臣の二柱は、共に法師寺を建てる場所に、戊申の年(588)に仮の垣根と仮の僧房を造 り、六人の法師等を住まわせた。また桜井寺の中に家屋を造り、大工をそこに住まわせ、二寺を造るために寺院の骨組みとなる木組を作らせた。


 庚戍の年を以て、百済国より尼等還り来たり、官に白さく、「戊申の年に往き、即ち六法戒を受け、己酉の年三に大戒を受け、今庚戍の年に 還り来たれり」と白しき。 本の桜井寺に住みき。 時に尼等の白さく、「礼仏堂を忽かに作り賜へ。また半月々々に白羯磨をせむため、并びに 法師寺を速かに作り具へ賜へ」と白しき。かくのごとくして、桜井寺の内に堂略構を作りて置き在りき。
 庚戌の年(590)に、百済国より尼等が帰国し、官に「戊申の年(588)に百済国に渡り、すぐに六法戒を受け、さらに己酉の年(589 )の三月に大戒(具足戒)を受け、今、庚戌の年に帰って参りました」と申し上げた。そしてまた元のとおり、桜井寺に住んだ。そのとき尼等が「 礼仏堂を急いで造りましょう。また、半月ごとに白羯磨を行なうために、法師寺を急いで造って頂きたい」と申し上げた。このようにして桜井寺 の中に諸堂があらまし造られるようになったのである。


 しかれども、大々王天皇命の等由良の宮に天の下治しめしし時は癸丑の年に、聰耳皇子を召して告りたまはく、「この桜井寺は、我れも汝も忘 れ捨つるを得ず。牟都々々斯於夜座す弥与に仏法初めし寺にて在り。また重き後言の大命を受けて在る寺に在るなり。我等在りりてすらや、この 寺まさに荒れ滅びなむとす。汝が命、至心を以て斯帰嶋の宮に天の下治しめしし天皇の奉為めに懃に作り奉れ。しからば、我れは、この等由良の 宮をば寺と成さむと念う。故、宮門に遷し入れて急速に作れ。今も知らず、我が子、急速に仕え奉るべし。我がためには小治田に宮を作れ」と告 りたまひき。また、「尼等の白羯磨をせむために法師寺を急速に作り斎まつれ」と告りたまひき。これを以て癸丑の年に宮の内に遷し入れ、先ず 金堂・礼仏堂等を略作り、等由良の宮を寺と成しき。故、等由良寺と名づけたり。
 しかし、大々王天皇命が等由良の宮で天下を治められていた癸丑の年(593)に、聡耳皇子をお呼びになり「この桜井寺は、私もそなたも忘 れ去ることができない。牟都々々斯於夜座す御代に仏法を始めた寺である。また欽明・用命両天皇の遺言によって造られた寺である。我らが存命 であってさえも、この寺は今にも荒れ果てようとしている。あなたは斯帰嶋の宮で天下を治められていた天皇(欽明天皇)のためにも、寺を造り 奉りなさい。そして私はこの等由良の宮を寺にしようと思う。宮中へ寺を遷して速やかに造りなさい。さあ、わが子よ、速やかにことに当たりな さい。私のためには、小治田に宮を造りなさい」と仰せになった。また、「尼等が白羯磨を行えるように、法師寺を急いで造りなさい」と仰られ た。そこで癸丑の年(593)に、宮中に寺を遷し、先ず最初に金堂と礼仏堂等をあらまし造り、等由良の宮を寺にした。それゆえ等由良寺と名 づけたのである。


 また大々王天皇の天の下治しめしし時。天皇生年一百。歳次癸酉の春正月元日、善事白すなり。同日、聰耳皇子の白さく、「今我等が天朝の生 年の数算、まさに百の位に達り、道俗の法を並べて、世に建興・建通といふ。竊に惟ふに、かくのごとき事、あに至コに非ざらむや。仏法最初の 時、後宮を破らしめず、桜井に遷して道場を作りたまふ。その時、三女、出家す。時に、即ち大きに喜々びたまいて、その道場に住まはしめて、 仏法の牙を生ず。故、元興寺と名づけたまふ。
 また、大々王天皇推古天皇が天下を治められたとき、天皇がお生まれになってから百年目の癸酉の年(613)の春正月元旦に、善事を仰せになった。同日、聡耳皇子が申された。「今、我らが天朝の生年を数えると、まさに百の位に達し、道俗の法を並べて、世間では建興・建通と言う。密かに思うのは、このようなことがどうして至徳ではないのであろうか。仏法が最初にもたらされたとき、後宮は破られず、揩井に遷して道場を作りました。そのとき、三人の女が家出しました。そこで大いにお喜びになり、その道場に住まわせたところ、仏法の兆しが生まれてきました。そこで元興寺と名づけました。


その三の尼等は、經にはく、比丘の身を以て得度すべき者は、即ち比丘の身を現はして説法をすと いふは、それこれを謂うなり。今亦、更に仏法興りて世に弘まり、元興寺を建つ。本の名は、故、稱して建興寺と称名けたまふ。次に法師寺は、 高麗・百済より法師等重ねて来たり、仏法を奏し、寺を建て、建通寺と称名けたまふ。皇后の帝の世に当りて、道俗の法を並べて、建興・建通と いふ。故知る、大聖の現影にましますことを。経に曰はく、王の後宮にては、変じて女身となりて説法をすというは、それこれを謂うなり。即ち 知る、これを以てこの国の機に相応ずることを。故、そのコ義に随ひ、法興皇と称名けたまはむ。三の称名を以て、永く世に流布しまつるべきな り。かくのごとく諸の臣に符さむ」と。かくのごとく白し已り、即ち発願して白言さく、「仰ぎ願はくは、三宝の頼を蒙ふり、皇帝陛下、乾坤と 共にあり、四海安楽にして、正法増益し、聖化の無窮にましまさむことを」と白しき。
その三人の尼等が、経典によると比丘の身で得度しようとするものは即ち比丘の身を現して説法を行なう、と言ったのは、このことをいうのです。今また、更に仏法が興って世に広まり、元興寺を建てました。最初の寺の名は、そこで建興寺と名づけました。また法師寺は、高麗・百済から法師等がたびたび訪れたので、仏法を奏し、寺を建てて、建通寺と名づけました。皇后の帝の世に当たって、道俗の法を並べて、建興・建通と言います。だから、大影にましますことを知ることができるわけです。経典によると、王の後宮では、女身となって説法を行なうというのは、このことを言うのです。これによってこの国の機に相応することを知ることができます。そこでその徳義により、天皇を法興皇と名づけました。この三文字の名をもって、永く世の中に流布されるべきでしょう。このように、諸々の臣に申しておきたい」と申された。このように話し 終わると、発願して「願わくは、三宝の恩顧を賜り、皇帝陛下が天地とともにあり、四海が安らかで、正しい法が益々増えて、聖化の無窮にましまさんことを」と申し上げた。


その時、天皇、即ち座より起ちて合掌したまひ、天を仰い で至心流涙し、懺悔を発して言りたまはく、「我が現在の父母六親眷属、愚癡邪見の人の随ひて、三宝を即ち破滅焼流し、奉るところの物を反り て取り滅す。しかれども、今我れ、等由良の後宮を以て尼寺とし、山林・園田・いけ・封戸・奴婢等を更に納め奉れり。また敬みて法師寺を造り 、田園・封戸・奴婢等を納め奉れり。また敬みて丈六の二体を造り、また自余の種々の善根を修めたり。この功コを以て、我が現在の父母六親眷 属等の仏法を焼流せる罪、および奉るところの物を返りて取り滅せる罪を、悉く贖い除滅かむと欲ひ、弥勒に面奉ひ、正法を聴聞し、無生忍を悟 り、速かに正覚を成し、十方の諸仏及び四天等に、至誠の心を以て誓願するところは、造りたてまつるところの二寺及び二体の丈六を、更に破ら ず流さず斫らず焼かず、二寺に納むるところの種々の諸の物を、更に摂取らず滅さず犯さず謬らざることなり。もし我れ正身、もし我が後嗣子孫 等、もし疎他人等にして、もしこの二寺及び二体の丈六を凌げ軽しめ斫き焼き流すことあり、もしこの二体の丈六に納むるところの物を返りて逼 取ることあり、謬りなることかくのごとくあらば、必ず当に種々の大わざわい大羞を受くべし。もし仰信尊く、供養恭敬しく、修治豊養なるあら ば、三宝の頼を被ふり、身命は長く安楽に、種々の福を得、萬の事々は意の如に、萬世に絶えざらむ。我れ既に定めて知り已へり。尊きを誹謗し 施を奪へば、各、その禍を得む。我れ既にこれを微め已へり。愼々三宝を軽しむべからず、三宝の物を犯すべからず。堪ゆるに随ひて修行し、善 く営みを捧げむ。願はくは、後嗣を引導し、後嗣の類はこの法の頼を蒙ふり、現在未来に最勝の安楽を得さしめむことを。信心を絶やさずこの法 を修行し、永世窮まりなければ、願はくは、一切の含識有形と共に、普くこの福を同じくし、速かに正覚を成さしめんことを」と。
 そのとき天皇はすぐに座より立って合掌され、天を仰いでこころから涙を流し、懺悔してこのように述べられた。「私の現在の父母六親眷属(一族)、愚癡邪見の人に従って、三宝を破壊、焼却し、奉った物を奪って取り壊した。しかし、今、私は、等由良の後宮を尼寺にし、山林・園田・池・封戸・奴婢等をさらに納め奉った。また法師寺を造り、園田・封戸・奴婢等を納め奉った。丈六の二体仏像を造り、また種々の善き行業を修めた。この功徳により、私の現在の父母六親眷属等が仏法を焼き流した罪と、奉った物を奪って取り壊した罪を、ことごとくあがない、除きたいと思い、弥勒に向かって、正法を聴聞し、無生忍を悟り、速やかに正覚を成し、十方の諸仏と四天等に、誠心をもって誓願するのは、造り奉った二寺と二体の丈六を、二度と破らず流さず、滅ぼさず、、裂かず、焼かず、二寺に納める種々の諸々の物を二度と取らず、滅ぼさず、犯さず、みだらにしないことである。もし私自身や私の生んだ子供等、その他の者たちが、この二寺と二体の丈六を、凌げ、軽しめ、裂き、焼き流すことがあったり、この二体の丈六に納められている物を奪って取ったり、みだりにするような事があれば、必ず種々の大きな災いを受けるだろう。もし、仰信が高く、供養が恭しく、修治が豊かであるならば、三宝の恩顧を賜り、身命は長く安らかに、種々の幸いを得て、万の事々は思いのままに、万世に絶えることはないだろう。私は既に知り尽くした。尊きを誹謗し施物を奪えば、それぞれ、その災いを得ることを。ゆめゆめ三宝を軽ろんじてはいけない。三宝の物を犯すべきではない。堪えるに従って修行し、善行を捧げよう。願わくは、後嗣を指導し、後嗣達はこの仏法の恩顧を賜り、現在未来に最高の安楽が得られることを。信心絶やさずにこの仏法を修行し、永世窮まりなければ、願わくは、全ての衆生と共に、あまねくこの福を同じくし、速やかに正覚を成さしめんことを」と。


かくのごとく誓ひ已りたまへば、即ち大地動搖し、震雷、卒に大雨を雨らし、悉く国内を淨めたり。その時、聰耳皇子及び諸の臣等、共に天皇の所願を聞る。
時に聰耳皇子、諸の臣等に語りて告りたまはく、「伝え聞く、君、正法を行ひたまはば即ち随ひ行ひ、君、邪法を行ひたまはば即ち慰め諌めむと
。今、我等が天皇、行ひ願はるるところを見聞したてまつるに、この正しき行ひ願ひに当たれり。天下の萬姓、悉に皆随ひ行ひまつるべきなり」
と。時に中臣連・物部連等を上首として、諸の臣、心を同じくして白言さく、「今より以後三宝の法を、更に破らず、更に焼き流さず、更に凌げ
軽しめず、三宝の物を摂らず、犯さず。今より以後、左の肩に三宝坐し、右の肩に我が神坐して、並びに礼拜をして尊重供養しまつらむ。もしこ
の願、破り謬ることあらば、当に天皇の所願のごとく、種々の大いなるわざわい羞を被ふるべし。仰ぎ願はくは、この善願の功コを以て、皇帝陛
下、日月と共にあり、天下安楽にして、後嗣、頼を蒙ふり、世時異なるといへども、得益の異なるなからむことを」と。

 このように誓い終わるや否や、大地が動揺し、雷が鳴り、すぐに大雨が降り、ことごとくに国内が清められた。そのとき聡耳皇子と諸々の臣等は、共に天皇の所願を聞いた。
 そして聡耳皇子は諸々の臣等に「伝え聞くところによると、君が正法を行いたまえばこれに随い、君が邪法を行いたまえば、慰め諌めると。いま、我が天皇が、行ないたいと願っていることをお聞きすると、この正しい行ないをしたいと願われているようである。天下の万民は、すべて天皇に随うべきである」と語った。すると中臣連と物部連等をはじめとする、諸々の臣等は、心を同じにして、「いまから後は、三宝の法を、二度と破ったり、焼き流したり、凌げ軽ろしめたり、三宝の物を摂ったり、犯したりいたしません。いまから後は、左の肩に三宝が坐し、右の肩に我が神が坐して、並んで礼拝して尊重供養し奉ります。もしこの願が破られることになれば、まさに天皇の所願のように、種々の大きな災いを被ることになるでしょう。仰ぎ願わくは、この善願の功徳によって、皇帝陛下が日月とともにあり、天下が安らかになり、後嗣が恩顧を蒙り、いつ何時であろうとも得益が異なることのないように」と申し上げた。


時に聰耳皇子、この語を聞き已り、具ひらかに天皇に白しき。その時に、天王、讃め告りたまはく、「善きかな。我れも亦随喜びき」と告りたまひき。時に、即ち聰耳皇子を召して告りたまはく、「その事の状を細ひらかに知り、我が治しめし在る時に、凡そ仏法の起り来たれる相、并びに元興寺・建通寺等の成り来たれる相、及び我が発願、皆細ひらかに委しく記すことをせよ」と告りたまひき。 また告りたまはく、「刹の柱の立ち在る処、及び二体の丈六を作り奉れる処は、穢し汚す事なかれ。また人の住みて汚すことなかれ。また、この諌を謬り、法を犯す者あらば、前願に同じく大いなるわざわい羞を受けむ」と。謂はゆる刹の柱の立てる処は、宝欄の東、仏門の処なり。謂はゆる二体の丈六を作れる処は、物見の岡の北の方か。地の東に十一丈の大殿あり。銅の丈六を作り奉れり。西に八角の円殿有るは、繍にて仏像を作り奉れるなり。

 聡耳皇子は、この言葉を聞き終わると、つまびらかに天皇に申し上げた。そのとき天王は「善いことだ。私もまた非常に喜ばしい」とお褒めになられた。そして聡耳皇子をお呼びになり、「そのことをつまびらかに知り、私が治世に、仏法が起こり、元興寺・建通寺等が建立されたことと、私の発願を詳細に記録しなさい」と仰せになった。また、「刹の柱が立っているところと、二体の丈六が作り奉れるところは、けがし汚すことのないように。また、ひとが住んでけがすことのないように。また、この諌めを破り、法を犯すものがあれば、前願と同じく大きな災いを受けることになるだろう」とも仰せになった。この刹の柱が立っているところとは、宝欄の東、仏門のところである。また二体の丈六を作ったところとは、物見の岡の北方である。その地の東に十一丈の大殿がある。銅の丈六を作って奉った。西の八角の円殿がには繍で仏像を作り奉ってある。



 
 池辺列槻宮に天の下治しめしし橘豊日命の皇子、馬屋門豊聰耳皇子、桜井等由良宮に天の下治しめしし豊弥気賀斯岐夜比売の命の生年一百、歳
次癸酉の正月元日、吉事を啓聞すの日に、勅を受け賜はりて諸事を記して上る。大々王天皇、勅して、私に沙弥善貴と称したまふ。 前の二寺及
び二体の丈六に伝はる衆物を、押凌貪らむとする悪人には、この文を授け写して開示することなかれ。もしこの文を滅し、もし錯へ乱らば、当に
知るべし、二寺の即ち散け滅びむとするを。 汝等三師、堅く受けて持せよ。
 嚴順法師・妙朗法師・義觀法師
 難波天皇の世、辛亥の正月五日、塔の露盤の銘を授けたまふ。

 池辺列槻宮で天下を治められた橘豊日命(用命天皇)の皇子、馬屋門豊聡耳皇子が、桜井等由良の宮で天下を治められた豊弥気賀斯岐夜比売(推古天皇)がお生まれになってから百年目の癸酉(613)の正月元日、善事を聞こし召した日に、勅を受けて、諸事を記して奉った。大々王天皇は、勅して、私を沙弥善貴と称された。前の二寺および二体の丈六に伝わる様々の物を、むさぼり盗ろうとする悪人には、この文を授け写して開示してはならない。もしこの文を滅ぼし、もし違えて乱れるならば、二寺もまた滅びることを知るべきである。汝ら三師はこれを大事に保持しなさい。
 厳順法師・妙明法師・義観法師。
 難波天皇(孝徳天皇)の世の辛亥の年(651)に、塔の露盤の銘をお授けになった。


 大和国の天皇、斯帰斯麻宮に天下治しめしし、名は阿末久爾意斯波羅岐比里爾波の弥己等の世に仕え奉りし巷宜の、名は伊那米の大臣の時に、
百済国の正明王、上啓して云さく、「萬の法の中、仏法最も上なり」と。ここを以て、天皇并びに大臣、これを聞食して宣りたまはく、「善きか
な、則ち仏法を受けて、倭国に造り立てむ」と。しかれども、天皇、大臣等、報の業を受けて尽てたまひき。
 故、天皇の女、佐久羅韋等由良宮に天の下治しめしし、名は等己弥居加斯夜比弥の弥己等の世、及び甥の名は有麻移刀等刀弥々の弥己等の時に
、仕え奉りし巷宜の、名は有明子大臣を領とし、及び諸の臣等と、讃へて云はく、「魏々たり、善きかな、善きかな」と。仏法を造り立つるは父
天皇、父大臣なり。即ち菩提心を発し、十方の諸仏、衆生を化度し、国家大平ならむことを誓願して、敬みて塔廟を造り立てまつる。この福力に
縁り、天皇、大臣及び諸の臣等の過去七世の父母、広く六道四生の衆生、生々処々十方浄土に及ぶまで、普くこの願に因り、皆仏果を成し、以て
子孫、世々忘れず、綱紀を絶つなからむために、建通寺と名づく。

 大和国の天皇、斯帰斯麻の宮で天下を治められていた阿米久爾意斯波羅岐比里爾波の弥己等(欽明天皇)の世に仕え奉っていた巷宜伊那米(蘇我稲目)が大臣であったとき、百済国の聖明王が「万法のなかで仏法が最上のものである」と申し奉った。そこで天皇と大臣がこれをお聞きになって、「善いことだ。仏法を受け、これを倭国に広めよう」と仰せになった。しかし、天皇と大臣等は、報いの業を受けて亡くなられてしまわれた。その後、天皇の娘で、佐久羅韋(桜井)等由良の宮で天下を治められた、等已弥居加斯支夜比弥の弥己等(推古天皇)の世、その甥である有麻移刀等已刀弥々の弥己等(馬屋門豊聡耳命)のときに、仕え奉った巷宜有明子(蘇我馬子)の大臣が領となり、諸々の臣等が「魏々たり、善いことだ、善いことだ」と讃えた。仏法を広めたは、父の天皇、父の大臣である。つまり、菩提心を発し、十方の諸仏、衆生を化度(教え導く)し、国家太平となることを誓願し、謹んで塔廟を造り立て奉った。この福力により、天皇、大臣と諸々の臣等の過去七世の父母、広く六道四生の衆生、生々処々十方浄土に及ぶまで、あまねくこの願に因り、皆仏果を成し、以て子孫、世々忘れず、綱紀を絶つことのないように、建通寺と名づけた。


 戊申。始めて百済の主、名は昌王に法師及び諸仏等を請す。故、釈令照律師・惠聰法師・鏤盤師将コ自昧淳・寺師丈羅未大・文賈古子・瓦師麻
那文奴・陽貴文・布陵貴・昔麻帝弥を遣わし上る。作り奉らしむる者は、山東漢大費直、名は麻高垢鬼、名は意等加斯費直なり。 書人は百加博
士、陽古博士なり。丙辰の年の十一月に既る。その時に金作せしむる人等は意奴弥首、名は辰星なり。阿沙都麻首、名は未沙乃なり。 鞍部首、
名は加羅爾なり。山西首)、名は都鬼なり。此の四部の首を将として、諸の手をして作り奉らしむるなり。

 戊申の年(588)に、初めて百済の主、昌王(聖明王)に法師と諸仏等を求めた。そこで王は釈令照律師・恵聡法師・鏤盤師将徳自昧淳・寺師丈羅未大・文買古子・瓦師麻那文奴・陽貴文・布陵貴・昔麻帝弥を遣わし奉った。作り奉ろうとする者は、山東漢大費直の麻高垢鬼と意等加斯費直である。書人は百加博士と陽古博士である。丙辰の年(596)の十一月に完成した。そのとき仏像を造ったのは、意奴弥首辰重、阿沙都麻首未沙乃、鞍部首加羅爾・山西首都鬼である。この四人の首を長として、多くの人々により作り奉られたものである。





 丈六の光銘に曰く、天皇、名は広庭、斯帰斯麻宮に在しし時、百済の明王上啓しく、「臣聞く、謂はゆる仏法は既にこれ世間無上の法なり。天
皇も亦修行すべし」と。仏像・経教・法師をフげ奉りき。天皇、巷哥の名は伊奈米の大臣に詔し、茲の法を修行せしめたまひき。 故、仏法始め
て大倭に建てり。広庭天皇の子、多知波奈土与比天皇、夷波礼の池辺の宮に在し、性の任に広く慈び、倍三宝を重んじ、魔眼を損棄して仏法を紹
ぎ興したまふ。しかして妹の公主、名は止与弥擧哥斯岐移比弥天皇、桜井等由羅宮に在し、池辺天皇の志を紹盛したまひ、亦三宝の理を重んじた
まひ、池辺天皇の子、名は等与刀禰々大王、及び巷哥の伊奈米大臣の子、名は有明子の大臣、道を聞かむとする諸の王子に揖命して緇素を教へし
め、百済の惠聰法師・高麗の惠慈法師・巷哥有明子大臣の長子、名は善コを領として、以て元興寺を建てしめたまひき。

 丈六の光銘によると、天皇広庭(欽明天皇)は、斯帰斯麻の宮におられたとき、百済の明王(聖明王)が「臣が聞くところによると、いわゆる仏法は既に世間無上の法である。天皇もまた修行されるべきです」と申された。そして仏像・経教・法師を捧げ奉った。天皇は巷宜伊那米(蘇我稲目)の大臣に詔し、仏法を修行させた。このように、仏法が初めて大倭に興されたのである。広庭天皇の子、多知波奈土与比天皇(用明天皇)は、夷波礼の池辺の宮にで、みこころのまにまに広く慈び、ますます三宝を重んじ、魔眼を捐棄して仏法を継ぎ興された。その後、妹の、止与弥挙奇斯岐移比弥天皇(推古天皇)が、揩井等由良の宮で、池辺天皇の志しをお継ぎになり、また、三宝の理を重んじなされ、池辺天皇の子である等与刀弥大々王(推古天皇)と巷宜伊那米の大臣の子である有馬子の大臣が、道を聞こうとする諸々の王子に命じて僧俗を教化し、百済の恵聡法師、高麗の恵慈法師、巷宜有馬子大臣の長男である善徳を領として、元興寺をお建てになった。




 十三年、歳次乙丑の四月八日戊辰、銅二萬三千斤、金七百五十九兩を以て、敬みて尺迦丈六の像、銅・繍の二体、并びに挾侍を造りたてまつる
。高麗の大興王、方に大倭と睦み、三宝を尊重し、遙かに随喜び、黄金三百廿兩を以て、大福を助成し、同心結縁し、茲の福力を以て、登遐しし
諸皇より、遍く含識に及るまで、信心有ちて絶えせず、面に諸仏を奉ぎ、共に菩提の廓に登り、速かに正覚を成さむことを願ひき。
 歳次戊辰、大随国の使主、鴻艫寺の掌客、裴世清、使副、尚書祠部主事、遍光高等来たりて、奉まつりき。
 明くる年己巳の四月八日甲辰、畢竟えて元興寺に坐せまつりき。

 推古天皇十三年(605)乙丑の四月八日戊辰(釈迦の誕生日)に、銅二万三千斤、金七百五十九両を以て、謹んで釈迦丈六像、銅・繍の二体と、脇侍を造り奉った。高麗の大興王は、ことに大倭とむつまじく、三宝を尊重していたので、いたく喜び、黄金三百廿両を以て、大福を助成し、同心結縁し、この福力を以て、亡くなられた諸々の皇より、あまねく衆生に至るまで、信心を保って絶やさず、目の当たりに諸仏を仰ぎ、ともに菩提の廊に登り、速やかに正覚を成そうと願った。
 戊辰の年(608)に、大隋国の使主、鴻濾寺の掌客、裴世清、使副、尚書祠部主事、遍光高等が来て、仕え奉った。
 明くる年己巳(609)の四月八日甲辰に完成して、鎮座奉った。




 牒す。 去る天平十八年十月十四日を以て、僧綱所の牒を被ふるにいわく、寺家の縁起并びに資財等の物、子細に勘録し、早に牒上すべし、て
へり。 牒の旨に依り勘録すること前のごとし。今、事の状を具ひらかにし、謹みて以て牒上す。
天平十九年二月十一日 三綱 三人
可信五人、位所は皆署に在り。
 僧綱、三綱の牒に依り、件の事を検べ訖んぬ。よって恒の式として以て遠代に伝ふ。 謹しみて仏法を紹隆しまさに天朝を護らむとするを請ふ
、てへり。
天平廿年六月十七日佐官業了僧
次に佐官兼藥寺
佐官興福寺師位二人
佐官業了僧一人

大僧都 行信

合せて賤口 一千七百十三人なり。 定は九百八十九人、訴良口は七百廿四人、三百廿七人は名あるのみにて実なし。見定口は六十二、奴婢は奴二
百九十一人、婢三百七十人なり。
合せて通分水田、四百五十三町七段三百四十三歩なり。
 定田四百卅八町四段三百四十三歩、未定五十町三反、七ケ国に在り。大和、河内、摂津、山背、近江、吉備、紀伊。
合せて食封一千七百戸なり。七ケ国に在り。 
伊勢百、越前百五十、信乃三百廿五、上總五百、下總二百、常陸二百、武蔵三百。温室分田、安居分、三論衆、摂論衆、成實衆、一切經分、燈分
、通分、園地并びに陸地、并びに塩屋、御井、山寺、各にその員分あるも、皆、これを略す。