はじめに

 今、我々は好むと好まざるとに関わらず大きな変革の時代に生きている。
 東西冷戦構造の崩壊を受けて登場した経済大国、中国に政治的、経済的にどのように対応するかは政治家のみならず国民にとっても大きな課題となっているからである。

 古代において我が国は同じような体験をしていた。今から約一四〇〇年前、隋、唐といった強大な統一国家が中国大陸に登場したことは東アジアの国々にとって大きな脅威となり、朝鮮半島の激動と相まって我が国に大きな変革を迫ることになり、その結果誕生したのが我々の国「日本」である。

 本論が語るのは千三百年以上前の飛鳥時代、日本建国の中心となった天皇家の真実の姿である。


 さて、世の中は相変わらずの古代史ブームが続いている。
 考古学上の新しい発見があるたびに新聞、テレビ等で大々的に取り上げられるのも昨今さほど珍しいことではない。 
 高松塚古墳であの素晴らしい極彩色壁画が発見されて以来、藤ノ木古墳、吉野ヶ里遺跡、あるいは出雲での大量の銅剣、銅鐸の発掘等新しい発見があるたびに大きな話題となり、様々な議論を巻きおこして世の中を騒がせてきたのも記憶に新しいところだろう。

 また遺跡発掘の現地説明会が開催されると驚くほど広い範囲から多くの古代史ファンが駆けつけてくる。
 このような相次ぐ新発見、古代史に対する世間の関心の高まりは古代史の研究者、ファンにとってとてもうれしいもので研究を続ける上で大きなはげみともなっている。

 このように人々の古代史に対する関心はたいへん強いものがあり、その要求に答えるかのように次々に古代史に関する本が発行されている。
 書店の売り場をのぞいてみても歴史コーナーは大きなスペースを占めていて、世間の関心の高さがうかがえ、毎日のように次々と新刊が並べられている。

 たしかに多くの人々にとって日本古代史はロマン溢れる世界なのかもしれない。
 しかしロマンにばかり浸ってはいられない現実もある。
 古代史に少しでも関心のある方なら既にお気づきかと思うが、数多くの研究者の長年にわたる懸命の努力にもかかわらず古代史の真相は依然深い謎に覆われたままで、その真の姿を私たちに容易には見せてくれない。新たな発見も謎の解明に繋がるよりも、それによってさらに謎が深まっているような気がする。

 具体的には奈良時代以降は記録も多く、かなり解明されているのだが、飛鳥時代以前のことになると謎だらけなのである。
 その主たる原因は、史料となる文献の少なさとその信頼性の低いことによる。
 文献がないわけではない。『古事記』、『日本書紀』という国家によって書かれた歴史書が立派に存在するのだが、その内容が真実を完全に伝えているとは言い難いのである。

 『古事記』、『日本書紀』は飛鳥時代から奈良時代にかけて当時の天皇たちが自分たちの由来を記した歴史書で、第三者が客観的に書いたものではない。したがって都合の悪いことが書かれていなくても、虚偽が書かれていたとしても何ら不思議なことではない。

 中国の歴史書が一つの王朝が滅びた後、後の王朝によって前の王朝の歴史書が書かれているため、かなり信頼されているのとは事情が異なるのである。
 そうなら他の文献を参考にすればいいではないかと思われるかもしれないが、残念ながら『古事記』、『日本書紀』以外のこれといった日本の古代史に関する記録は金石文(金属や石に刻まれた文字)、木簡などの断片的な史料を除けば、ほとんど存在しないのが現状となっている。

 このような状況は古代史研究者にとってなんとも残念なこととしかいいようがない。
 隣国の朝鮮の歴史書には日本の古代史に関する重要な記述はあまり含まれてはいない。
 中国の歴史書の中には日本に関する記述が断片的ではあるが残されている。中でも『三国志』の中の魏書東夷伝倭人ノ条(いわゆる魏志倭人伝)にはある程度まとまった記述が残されており、記述には不明な点が多いにもかかわらず、当時の日本のことを知る上でたいへん貴重なものとなっている。

 歴史の古い記録というものがいかに尊いものか痛感しているのは筆者だけではあるまい。
 このような確かな記録の大変少ない状況の中で、古代史研究者は研究をしなければならないのだからその苦労は並大抵ではない。

 しかし、このような混沌とした状況だからこそ大学や学会に所属するような古代史学者でなくとも古代史の研究に魅力を感じるのも確かで、そのような研究者や歴史作家からも古代史に関する本が数多く出版されている。
 同じ日本史でも中世史や近世史のように資料が多い分野では知識の豊富な専門家に資料や知識の乏しいアマチュアは全く太刀打ちできないのである。

 しかしながらそのような本の中には残念ながら奇説、珍説の類が数多く見受けられる。
 確かに彼等の書く本は面白いし、よく売れてもいる。
 しかし古代史を少しでも知っているものなら彼等の書く本をあまり信頼してはいない。学会からもほとんど無視されている。

 史料が少なければその分は想像力で穴埋めするしかない。歴史の研究には想像力が必要だと言うことはよく言われることで、これは間違いのないところだ。
 しかし、史料が少ないことをいいことに自らの先入観に従って恣意的な解釈や想像ばかりを積み重ねていけばどのような話でも書けてしまう。

 叙述力のある作家の手にかかれば面白い話をでっち上げてしまうことなど簡単なことなのである。
 しかしこれでは空想小説となんら変わりはない。
 思わず目を疑うような説が一部の研究者や歴史作家から発表され、それが一般の読者から一定の支持を受けているというような事態にもなっている。なかにはいわゆる「トンデモ本」に名を挙げられた研究書まである。 
 このような現状では日本の古代史研究は魑魅魍魎の徘徊する世界と言われても仕方がないのではないだろうか。

 あらためてしっかりとした史料批判、すなわち古代史研究の基礎的文献である『古事記』、『日本書紀』それ自体の研究が必要と感じざるを得ない
 とりわけ研究においてもっとも重要なことは『日本書紀』に先んじて成立したとされ、最も古い歴史書といわれる『古事記』を誰が、いつ、何の目的で、どのような編集方針の基に編纂されたかを解明することだと思う。

 『古事記』、『日本書紀』の編纂意図を見抜くことができれば虚偽と真実を容易に見分けることが出来るし、たとえ嘘が書いてあったとしても嘘の裏を探ることによって何らかの真実を見つけだすことができる、たとえ作り話でもその中にふくまれている真実を掘り出すことが可能となるからである。

 本論はその『古事記』に登場する大国主神の謎を解明することによって神話の謎を、また『古事記』あるいは『日本書紀』の謎を解明し、古代史の謎に迫ることを目指したものである。

 なお本論では『古事記』の神話をほとんど省略することなく掲載しているのでこれを機会にしっかりと読んでいただきたいと願っている。理由は三つある。
 理由の一つは、神話は荒唐無稽なあたかもおとぎ話のような話ばかりだが、実は神話は古代史を解明するうえできわめて重要な鍵となっているからである。

 理由の二つ目は、戦前において天皇を絶対視するいわゆる皇国史観にもとづき、神話を史実とする教育がおこなわれた。そのことが戦前の悲劇に繋がる一因となってしまったのだが、戦後は戦前の反省から神話は逆に全く教えられなくなってしまった。しかし神話は日本文化の源流の一つであるとともに日本社会を動かすメカニズムの一部として今も機能しており、日本人なら神話を全く知らないですますわけにはいかないと思うからである。

 そして最後の理由は、何と言ってもこれほど興味深くて面白い話もそうあるものではない。神話を読んで頂くだけでも十分楽しんでいただけるはずである。

 
 天皇号について

 天皇という称号がいつ頃使用されるようになったか、天武朝(在位六七三年〜六八六年)において使用されていたことは、この時代の遺跡から「天皇」という文字が含まれた木簡が出土しているので天武朝以降に使用されていたのは確実である。

 それ以前については諸説あり定説がないが、推古朝(五九二〜六二八)以後、おそらく天武朝であろうというのが大方の研究者の意見である。私も天武朝だと考えている。天皇号が使われる以前は大王と呼ばれていた。
 また、神武、推古、天智、天武といった歴代天皇の呼称は漢風諡号と呼ばれ漢字二文字で書き表すが、これは奈良時代の終わり頃、天智天皇の曾々孫の淡海三船が一括して撰進したものと言われている。

 漢風諡号とは別に国風諡号あるいは和風諡号というものもあり、例えば天武天皇だと天渟中原瀛真人天皇と書き表す。『日本書紀』ではこの国風諡号が使われている。この国風諡号が先帝の崩御後に贈られた正式な諡号なのだがあまり一般的ではない。

 本論では便宜的だが、大変わかりやすく便利なので推古天皇、天武天皇といった漢風諡号を用いることにした。また天皇とは呼ばれていなかったであろうと思われる推古天皇以前の天皇についても神武天皇、応神天皇といった天皇号と漢風諡号を使わせていただく。

 
 『日本』国号について

 『日本』という国号がいつ頃どのような経過で使われるようになったかは謎に包まれている。『日本』という国号が成立する以前、我が国は『倭』と呼ばれていた。
 『日本』という国号が正式に使われ始めた時期についての確かな記録はないが、多くの研究者は天皇号同様、天武朝あたりではないかと見ているようだ。

 本論ではこれまた便宜的ではあるが天武朝以前においても『日本』という国号を使用していることをあらかじめお断りしておきたい。