押坂彦人大兄皇子にまつわる疑惑


 「大国主伝」では天智天皇の祖父の押坂彦人大兄皇子(彦人大兄)が「日本書紀」に記されているような敏達天皇の子ではなく、蘇我馬子の別名、すなわち彦人大兄と馬子が同一人物であることを論証しているがここでは改めて押坂彦人大兄皇子にまつわる数々の疑惑を列挙しておきたい。

 また彦人大兄と馬子が同一人物ということは天皇家は推古天皇と舒明天皇の間で皇統が切り替わっていたことになる。このことは「日本書紀」等の記述からも伺えるので合わせて紹介しておきたい。

        

      日本書紀に記された押坂彦人大兄皇子の系譜


彦人大兄が敏達天皇の皇子であることの疑惑

1、彦人大兄は敏達天皇と皇后の第一子で太子とされていたのに敏達天皇や用明天皇の崩御後、なぜ即位しなかったのか。

2、彦人大兄の后は糠手姫皇女、大俣王、桜井弓張皇女、小墾田皇女の4人であるがこの内、糠手姫皇女、桜井弓張皇女、小墾田皇女は敏達天皇の娘である。従って彦人大兄が自分の妹を3人も后にしているのは何とも異常である。この時代、自分の妹を娶った例はいくつかあるがそれは皇后、正后の一人に限られている。3人も后にした例はなくその理由も説明がつかない。

3、皇統譜上、彦人大兄は極めて重要な人物でありながら没年についての記載がない。一方天智天皇の祖母の薨去についての記載は存在する。

4、大化2年(646)3月の詔に「皇祖大兄」とあり、それに「彦人大兄をいう」の註が付けられている。彦人大兄は「皇祖大兄」とも呼ばれていた。父が天皇なのになぜ彼は皇祖と呼ばれていたのか。

5、『延喜式』には彦人大兄の墓についての記載があるがその墓域の広さは東西15町、南北20町と尋常ではない大きさである。これは『延喜式』では最大の大きさである。父の敏達天皇が東西3町、南北3町、天皇としては最も大きい天智天皇でも東西14町、南北14町にすぎない。即位したわけでもないのになぜこのように大きいのか。


彦人大兄と馬子が同一人物であることの立証

6、推古天皇には5人の娘がありそのうちの二人(桜井弓張皇女、小墾田皇女)が彦人大兄に嫁いでいるが蘇我馬子には一人も嫁いでいない。時の権力者は王族と深い姻戚関係を結ぶことが普通である。

7、蘇我馬子と物部守屋の戦いの3ヶ月前、中臣勝海連は守屋を助けるため彦人大兄と竹田皇子の像を作り呪うが、なぜ彦人大兄の像があって馬子の像がないのか。前後の状況からして物部守屋の最大の政敵は馬子である。馬子の像がないのは彦人大兄と馬子が同一人物だからではないか。

8、その後、中臣勝海連は守屋を裏切り彦人大兄側に付こうとし、その宮に行くが出たところを彦人大兄の舎人の迹見赤檮に斬殺された。「聖徳太子伝歴」はこの事件のことを中臣勝海連は馬子の命を受けた迹見赤檮に殺されたと記している。

9、蘇我馬子と物部守屋の戦い以降、彦人大兄についての消息が全く不明である。 彦人大兄の舎人の迹見赤檮が馬子と守屋の戦いにおいて馬子の配下として行動している。しかし戦いに彦人大兄の名は見えない。なお7−9については別途「中臣連勝海の暗殺と迹見赤檮」において論述している。

10、彦人大兄の墓(成相墓)が広陵町にある牧野古墳である可能性はかなり高いとされている。なぜなら成相墓があったとされる大和国広瀬郡(現在の河合町や広陵町)には牧野古墳以外、飛鳥時代の墓はほとんどないからである。牧野古墳の石室は明日香村の石舞台古墳とほぼ匹敵する大きさである。蘇我馬子と物部守屋の戦い以降の蘇我氏の全盛期になぜこのような巨大な墓が即位したわけでもない彦人大兄のために造られたのか。一般的に墓の規模は被葬者の生前の実力を表している。牧野古墳は飛鳥時代最大の実力者馬子の墓と考えられる。

11、牧野古墳の発掘調査では石室から桃の核が見つかっている。発掘の状況から見て埋葬時に石棺の上に置かれていたものらしい。桃の実がなるのは初夏である。馬子が死んだのは旧暦の5月20日、その月の内に葬られているのでこれはほぼ符合する。


推古天皇と舒明天皇の間で皇統が切り替わっていたことの立証

12、推古天皇の崩御後、天皇に即位した田村皇子(舒明天皇)は日本書紀によれば蘇我氏とは血の繋がりはない。山背大兄王といった蘇我系の皇子をさしおいてなぜ蘇我蝦夷は彼を天皇に即位させたのか。舒明天皇の次も蘇我氏とはほとんど血の繋がりのない宝女王(皇極天皇)である。蘇我氏の全盛期になぜ非蘇我系の皇子が次々と天皇に即位したのか説明ができない。田村皇子が馬子の子だったとすればこのような疑問は生じない。

13、蘇我馬子は崇峻5年(592)、崇峻天皇を弑逆(この場合は臣下が天皇を殺すこと)した。これは記録に残る唯一の例である。天皇家の側からすれば大変な不祥事で当然弾劾されるべきと思うが「日本書紀」は馬子を非難していない。しかも馬子のことを武略備わり、政務にも優れた人物と賞賛さえしている。

14、乙巳の変の直後の8月8日、天皇はいわゆる仏教統制の詔を出している。この中で蘇我稲目、蘇我馬子の仏教における功績が称えられている。しかし仏教の大功労者であった聖徳太子については何も語られてはいない。蘇我の宗本家を滅ぼした直後にこのような詔が出されるのはたいへん奇怪である。功績が称えられているのは天皇が稲目や馬子の子孫だからではないだろうか。

15、天智10年(671)、天智天皇は病に倒れる。その直後、天皇は珍宝を飛鳥寺に奉納している。病に倒れた直後と言うタイミングから見て、病気の平癒を祈願したものと思われる。飛鳥寺は蘇我馬子によって創建された蘇我氏の氏寺である。父や母にゆかりの百済寺や川原寺ではなく、なぜよりによって飛鳥寺なのか。天智天皇が馬子の孫だったと考えれば彼のこのような行動はよく理解できる。

16、天智天皇の崩御の直前、大友皇子は内裏の仏像の前で重臣たちに忠誠を誓わせている。その顔ぶれは左大臣蘇我赤兄臣、右大臣中臣金連、蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣の5人である。鎌足の従兄弟といわれる右大臣中臣金連を除けば他の4人は蘇我氏か、あるいは蘇我の同族である。なぜこのような蘇我氏に偏った人事が行われたのか。その理由がわからない。天智天皇が蘇我の一族だとすればわかりやすい。

17、比定がほぼ正しいとすれば天皇陵は形状の不明な孝徳天皇を除けば舒明天皇以降、墳丘の形がそれまでに方形から8角形に変化する。これは推古天皇と舒明天皇の間に画期、すなわち王朝の交代が有ったことを示すのでは。

18、上に関して、天平6年(734)4月17日聖武天皇は大きな地震のあとで山稜の被害の調査をさせている。そのとき調査を命じられた天皇陵の数は8カ所である。天皇陵は数多いのになぜ8カ所でしかないのか。どの天皇陵が調査の対象となったかその記載は無いが、仮に身近な天皇陵とするとその天皇陵は近い順に

元正天皇陵(奈保山西陵)
元明天皇陵(奈保山東陵)
文武天皇陵(檜隈安古岡上陵)
天武・持統合葬陵(檜隈大陵)
天智天皇陵(山科陵)
斉明天皇陵(越智崗上陵)
孝徳天皇陵(大阪磯長陵)
舒明天皇陵(押坂内陵)

以上で8カ所である。舒明天皇までで推古天皇まで届いていないのは舒明天皇以降が新王朝だったからではないか。


最後に

 私が押坂彦人大兄皇子に対して抱く疑惑は以上の通りである。よく考えて頂きたいのはこれらの疑惑は押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の子ではなく、蘇我馬子と同一人物、すなわち皇統は推古天皇と舒明天皇の間で切り替わっていたと考えればすべて氷解すると言うことである。

 もしこれ以外に気づいたことがあればぜひ広瀬満までお教え願いたい。

 ともあれ、現天皇はこの押坂彦人大兄皇子の直系の子孫である。この皇統譜の上において重要な人物にこのような出自にまつわる疑惑が数多く存在することは大きな問題である。天智天皇と天武天皇が実の兄弟であるかどうかどころの問題ではない。日本の歴史学はこの問題を無視することは許されないと思うのである。