壬申の乱の真実


 壬申の乱は天智天皇の崩御の後、天智天皇の太子大友皇子と天智天皇の弟の大海人皇子が皇位継承を巡って戦った戦乱とされている。元々皇位に野心を持っていた大海人皇子が天智天皇崩御の後、近江朝廷に反旗をひるがえしたというのである。現在この定説を疑う研究者はほとんどいない。
 しかしほんとうにそうだろうか。

 
             壬申の乱最後の決戦があった瀬田の唐橋

 「日本書紀」の記述の中に大海人皇子が皇位に野心を持っていたと思わせるような記述はないし、逆に天智天皇から即位を要請されたがあっさり断ってもいる。古代藤原氏の歴史が記された「藤氏家伝」に天皇即位の宴で大海人皇子が槍を床に突き刺し、怒った天智天皇が大海人皇子を殺そうとしたという記述があって天智天皇と大海人皇子の間に確執があったらしいことはうかがえるが、大友皇子との間に確執があったという記録はない。

 「日本書紀」に記述された壬申の乱の経緯も武器を持った兵士を集めたり、吉野への糧道を閉ざそうとしたり、先に動いたのは近江朝廷側であって大海人皇子ではない。東国への脱出もあわてて逃げたという感じで計画性に乏しく、記述からは皇位に野心を持っていた大海人皇子が近江朝廷に反旗をひるがえしたというような雰囲気はうかがえない。

 そもそも天智天皇の崩御の直後に、大友皇子と大海人皇子がいきなり殺しあいをしなければならないということが理解できない。大友皇子の后は十市皇女である。彼女は大海人皇子と額田王の間に生まれた最初のそれもたった一人の子である。大海人皇子の十市皇女にたいする親としての愛情はひとしおだったと思う。彼女は6年後に亡くなるが、その葬儀に臨んだ天武天皇は心のこもった言葉を贈り、声を出し泣いたと伝えられている。

 また後の藤原氏がそうであったように、この時代天皇にとって母や后の実家は重要な権力基盤であった。大海人皇子は大友皇子の叔父であるとともに義父になるが、このことは自らが即位せずとも大友皇子に対して大きな影響力を持っていることを意味している。大海人皇子が大友皇子を殺してまで自らが天皇に即位することを欲していたとは考えにくい。

 一方大友皇子は、彼の母親は伊賀の采女の宅子娘である。采女というのは天皇家に献上された地方の豪族の娘のことで、天皇や皇后に身の回りの世話を行う女官としてつとめ、その身分は低いし、実家の力もしれている。そのような女性を母に持ち、権力基盤の脆弱な大友皇子が皇太子になれたのは他に適当な皇子がいなかったからだが、それだけに后が大海人皇子の娘の十市皇女であることの意味は大きい。強力な後ろ盾として大海人皇子を重視しこそすれ、殺害しなければならない理由はない。大海人皇子がいなくなると一番困るのは大友皇子自身だろう。

 このように壬申の乱は大友皇子と皇位に野心を持っていた大海人皇子が皇位継承を巡って戦ったとする説は疑わしいのに、これが定説として堂々とまかり通っている日本の歴史学の現状はなんとも心細いものがある。

 ではなぜ壬申の乱は起きたのであろうか。
 天智4年10月19日、大海人皇子は出家し、吉野に向かった。左大臣蘇我赤兄ら重臣たちがが宇治まで見送ったが、そのとき見送りの誰かが「虎に翼を付けて野に放つようなものだ」といった。虎は手強く恐ろしいものの象徴である。その虎に翼という強力な武器を与えて自由にしてしまったことを彼らは不安に思っていたのである。

 なぜ彼らはこれほどまでに大海人皇子を極度に恐れていたのであろうか。「大国主伝」にも述べているように私は大海人皇子を蘇我入鹿の子ではないかと考えている。おそらく近江朝廷には乙巳の変で入鹿殺害にかかわった者達やその関係者がいて大海人皇子の報復を恐れていたのではないだろうか。

 しかし彼らは大海人皇子を恐れていただけではない。大友皇子の権力基盤の脆弱さにつけ込み、天皇を傀儡化し政治の実権を握ることも考えていたのではないだろうか。馬子や蝦夷のように。馬子の孫の左大臣蘇我赤兄がそのような野心を抱いていたとしても何ら不思議なことではない。
 だがそのためには重臣たちにとって大きな障害となる人物がいた。いうまでもなく大海人皇子である。そこで重臣たちが大海人皇子の殺害を謀り、大友皇子はそれに巻き込まれたというのが事件の真相だったのではないだろうか。

 このことを裏付ける記述が「日本書紀」に残されている。

 6月22日に大海人皇子は臣下達に美濃国に行き兵を集めることを命じているがそのとき「聞くところによると、近江朝の群臣らは私をなきものにしようと謀っている。」といっている。
 また翌日には臣下の一人が「近江方の群臣は元から策謀の心があります。ですからきっと国中に妨害をめぐらし、道路は通りにくいでしょう。」といっている。
 さらに大海人皇子が東国に脱出したと聞いて群臣はことごとく恐れをなしたと記されている。

 とにかく大海人皇子を恐れていたり、殺そうと謀っているのは群臣であって、大友皇子にそのような記述は一切ないのが「日本書紀」の壬申紀の特徴である。むしろ大友皇子は大海人皇子と戦うことには消極的だったようで、大海人皇子が東国に脱出したと聞き、さっそく対応策が臣下たちとの間で協議されたが、その席で騎馬隊を集め、追撃することが進言されたにもかかわらず大友皇子はそれには従わなかったという。

 このことに関して、平成18年2月8日に放映されたNHKの歴史番組「その時 歴史が動いた」(壬申の乱 天武天皇誕生の秘密)において、大友皇子は大海人皇子を追撃せずに、むしろ正々堂々と戦うことによって大海人皇子のみならずその支持勢力も一掃しようと考えていたというようなコメントがスタジオゲスト遠山美都男氏の説として紹介されていた。

 これを聞いて当時の近江朝廷側の状況をあまりにも無視した内容に私はびっくりした。大海人皇子が吉野に出家したと言うだけで不安におののき、東国に脱出したと聞いただけで近江から逃げ出す者、東国へ走る者等、大騒ぎになってしまった近江朝廷側にそのような余裕があるはずがない。またこのころは朝鮮半島の情勢が緊迫しており、国内であえて大きな戦をやっているような場合でもないだろう。

 このような場合は、たとえ失敗に終わろうとも、直ちに追撃し、相手の戦闘態勢が整わないうちに決戦に持ち込むというのが戦いの定石である。進言に従わなかった大友皇子には大海人皇子と戦う積極な意志は無かったと見るべきであろう。

  大友皇子の后、十市皇女の父である大海人皇子も同じ気持ちを持っていたのではないだろうか。
 大海人皇子が天智天皇から即位することを打診されたとき、大海人皇子は即位を断ると共に皇后を天皇に即位させることを進言している。

 天智天皇が崩御した後、その重臣達との間に戦いが起こりうることは大海人皇子も十分覚悟していただろう。もしそうなった場合、女帝なら傍観することも可能で少なくとも命を落とすことはないだろうが、大友皇子が天皇に即位していたのではその立場上、戦いに巻き込まれざるを得ない。

 壬申の乱は左大臣蘇我赤兄を中心とする重臣たちと大海人皇子の権力闘争で、大友皇子はその権力闘争に巻き込まれてしまったというのが私の考えである。

 大友皇子には葛野王、大友与多王という二人の男子が残されていたが二人とも殺されることもなく、流されることもなかった。また川島皇子、施基皇子という天智天皇の二人の皇子は天武朝で天武天皇の皇子たちと一緒に一同で結束を誓った「吉野の盟約」に参加し、ともに天武天皇の元で活躍していた。

 さらに大友皇子の側近で、その最後までつき従った物部連麻呂が天武朝で早くから重用され最後は官僚としては最高位の左大臣にまで任じられたという事実も私の説の裏付けとなるのではないだろうか。