紀大人臣と壬申の乱

 
 天智10年(671)9月、天智天皇は病に倒れた。

 11月23日、天智天皇の後継者、太子の大友皇子は内裏の西殿の織物の仏像の前で手に香炉を取り、重臣たちに忠誠を誓わせた。左大臣の蘇我赤兄臣、右大臣の中臣金連、そして御史大夫の蘇我果安臣、巨勢人臣、紀大人臣の5人である。

 それから7ヶ月の後の672年6月24日、大海人皇子は出家地の吉野を脱出し、東国へ向かった。古代最大の戦いとして名高い壬申の乱の始まりである。それからほぼ1ヶ月の後の7月22日、大海人軍は近江朝廷軍を瀬田川の決戦で破り、翌日戦いに敗れた逃げ場を失った大友皇子は自殺し、乱は大海人皇子側の勝利で収束した。反乱者である大海人皇子の勝利で終わるという、日本史上例の少ない内乱であった。

 乱の後、朝廷側の重臣たちは捕らえられ、処罰された。右大臣の中臣金連は斬られ、左大臣蘇我赤兄臣と巨勢人臣は流罪となった。蘇我果安臣は戦いの最中に山部王とのあいだに内訌を起こし、既に自殺していた。処罰された重臣たちの家族もことごとく流罪となった。もっとも家族は後に許されていて、大きな戦いの割りには軽い処分であったと言われている。

 ところが5人の重臣たちの中で御史大夫の紀大人臣だけは処分されなかった。処分されなかっただけでなく、乱において他の4人は大海人軍と必死に戦っていたのに、紀大人臣の名は一切出てこない。

 彼のその後の消息を伝える記事はほとんどないが、『続日本紀』の慶雲2年(705)7月19日条に、紀麻呂が死んだことに付随する説明があり、そこには「近江朝の御史大夫贈正三位大人の子」とある。正三位の位を受けていることからみて、紀大人臣は罪人として扱われていなかったと思われる。

 おそらく彼は乱において中立的立場にいたか、あるいは大海人側にいたのであろう。なぜ彼は大友皇子に忠誠を誓っておきながら裏切ったのであろうか。

 面白いことに壬申の乱から27年前の蘇我入鹿、蘇我蝦夷が殺害された乙巳の変にも紀氏の名前は出てこない。
 645年6月12日、大極殿において蘇我入鹿を殺害したのは大友皇子の父の中大兄、中臣金連の従兄弟の中臣鎌子。そして蘇我赤兄臣、蘇我果安臣の兄の蘇我倉山田石川麻呂である。

 また翌日残された蝦夷を守ろうとして倭漢一族が集まるのだが、中大兄は巨勢人臣と同族で将軍の巨勢徳陀臣を派遣して彼らを説得した。倭漢一族はその説得を受け入れ、その結果蝦夷は殺されてしまった。巨勢徳陀臣は後に左大臣の要職を努めている。

 このように中臣、蘇我、巨勢の各氏は乙巳の変の中大兄側にその名が見え、重要な働きをしていたのだが紀大人臣はむろんのこと紀氏の名は誰一人として見えない。おそらく紀氏は誰も乙巳の変にかかわってはいなかったのであろう。

 「大国主伝」で論証したように大海人皇子は蘇我入鹿の子と考えられる。

 紀大人臣にしてみれば自分や紀氏の一族は蘇我入鹿殺害に何の関係もなかったのに入鹿の子の大海人皇子と戦って、蘇我赤兄たちと一緒に心中など真っ平ご免ということだったのではないだろうか。