「天皇の先祖は木満致」の証明


 蘇我氏の先祖については諸説あるが門脇禎二氏の唱える5世紀に渡来した百済の貴族で任那を支配していた木満致と考える説が有力である。また私は天皇家の祖は蘇我馬子と考えているので、もしそうだとすると天皇家の祖先は百済の貴族で任那を支配し、その後倭国に渡来した木満致ということになる。そのことは「日本書紀」等の文献からも伺うことができるので論じてみたい。

1、内宮家
 推古朝において任那は内宮家と呼ばれていた。宮家とは屯倉のことで朝廷の直轄地のことをいう。この宮家の特に「内」が冠されているのは任那が天皇家の元々の領地であったことを表している。

2、任那の調
 調とは領地から徴収する税金のことである。562年に任那は新羅に併合されている。その後、大和朝廷は新羅に対して調を要求した。同様に任那の一部を占領した百済に対しても調を要求している。そして両国はその要求に応えている。つまり形式的にではあるが両国は任那が天皇家の領地であることを認めていたのである。認めていたのは天皇家の祖先が任那を支配していた木満致だったからと考えれば理解できる。

3、白村江
 663年、倭国は660年に唐、新羅によって滅ぼされた百済の復興のために大軍を派遣した。このときは都を九州の朝倉に遷したほどであったから国を挙げての大軍派遣であった。しかし超大国唐を敵に回すという大きなリスクを冒してまでも、既に滅びてしまった百済の復興にこだわったのはなぜか。天皇家の先祖が百済の貴族でもあった木満致と考えればこの大軍派遣は理解できる。おそらく木満致は百済王家の一族だったのだろう。

4、日本国
 記録の上に置いて「日本」の名称が最初に登場するのは任那日本府である。その実体は諸説あるが、そのころの我が国の国名は「日本」国ではなく「倭」国だったから、「日本」というのは朝鮮南部に存在した小国の名かあるいは地名だったのではないか。おそらく木満致はその地を中心に任那を支配していたのでは。その木満致が倭国に渡来し、蘇我氏となり、天皇家になった。その後、天皇家は先祖の地にちなみ「倭国」を「日本国」に改めたのではないだろうか。そう考えれば「旧唐書」にある「日本国は倭国の別種なり・・・・・日本は旧小国、倭国の地を併せた」との記載と符合する。

5、20度
 聖徳太子によって立てられた法隆寺(今の浅草伽藍跡)がその中心軸が真北から西に約20度振って立てられていることはよく知られている。同様に渡来系氏族の鞍作氏の氏寺の坂田寺、明日香にある馬子の邸宅跡も20から30度振って立てられている。このような角度が付けられているのは朝鮮を意識していたためでは。天皇家の祖先が朝鮮からの渡来人だったからではないか。

6、大佐平
 673年天武天皇は百済人の沙宅昭明に大佐平の位を賜わったと「日本書紀」に記されている。「大佐平」とは百済王が臣下に授ける最高の位である。天皇家が百済王家と何の関係もなければこのような位を授けるというような事はできないし、仮にしても何の意味もない。位を賜わったのは天皇家が百済王を形式的ではあるが継承していたからと考えられる。継承していたのは天皇家の先祖が百済出身の木氏だからと考えられる。

7、大刀契
 平安時代、天皇家では三種の神器以外に「大刀契」と呼ばれる宝器を皇位継承において伝授されていた。「大刀契」の実体はよくわからないが百済伝来の宝器と考えられている。天皇家は百済王位を継承していたのでは

8、木満致と大倭木満致
 「日本書紀」の元本は存在しない。今に伝わるのはすべて後世の写本であるが、木満致は「大倭木満致」と記載されている。しかしもっとも古い写本といわれる田中本(平安時代初期成立)には「木満致」と記載されている。おそらく元本には「大倭」はなく、平安時代以降に書き加えられたものと見られる。「大倭」は天皇の和風諡号に見られるように大変な尊称である。木満致が単なる渡来人ならこのような書き加えが行われる理由はない。木満致が天皇の祖先であるという認識があったものと考えられる。

番外、木と馬
 日本の多くの神社では木や馬を「御神木」、「御神馬」として大変神聖視している。これは天皇家の祖が蘇我馬子、さらにその祖先が木満致だからである?

まとめ、
 その他、平安時代に盛んに行われていた韓神祭など天皇家と百済の結びつきを示す事象は数多い。また天皇家の祖先が朝鮮渡来であることは神話からも伺うことができるので後にこのことも述べてみたい。また何度も繰り返すようであるが押坂彦人大兄皇子に関する疑惑の解明は極めて重要であることを指摘しておきたい。