中臣連勝海の暗殺と迹見赤檮


 敏達天皇14年(585)2月15日、蘇我大臣馬子は大野の丘の北に仏塔を建て、法会を行った。ところがこの塔は翌月には切り倒されてしまった。3月1日に物部弓削守屋大連(物部守屋)と中臣勝海大夫(中臣勝海)が天皇に「疫病が流行し、国民が死に絶えそうなのは蘇我氏が仏法を広めたからです」と奏上し、天皇が仏法を止めるよう命令したからである。

30日物部守屋は自ら寺に出向き、馬子の建てた塔を切り倒して焼き、仏像、仏殿も焼き払ってしまった。古来の神を信奉する物部、中臣両氏にとって新しい宗教、仏教を奉じ、広めようとする蘇我氏の台頭は政治的にも大きな脅威だったのである。8月に天皇は崩御し、その殯において守屋と馬子は互いに罵り合ったという。

 その両者の対立に拍車をかけたのが皇位継承を巡る争いである。敏達天皇の次には馬子の推す用明天皇(父は欽明天皇、母は馬子の妹)が即位したが、守屋は敏達天皇の異母弟の穴穂部皇子を推していた。
 用明天皇2年(587)4月2日、用明天皇は病にかかり、そのため仏法を信奉したいと言いだし、その是非を群臣に議するよう命じたので、群臣は参内して協議したがこのことが両者の対立を決定的なものにした。守屋は朝廷を去り、館のある河内へ退き、味方を募った。

 時をほぼ同じくして、守屋と同じ排仏派の中臣勝海は自分の家に兵を集め、守屋を助けるため2体の像を作り、呪詛した。この2体の像の1体は竹田皇子である。竹田皇子は敏達天皇と額田部皇女(後の推古天皇)の子で馬子側の皇位継承の有力候補と目されていたから呪詛の対象にされたのだろう。

 問題はもう1体の像の押坂彦人大兄皇子である。ここで突然その名前が登場してくる。以前の事跡については何も語られていないのでなぜ呪詛の対象にされたのかはよくわからない。押坂彦人大兄皇子は舒明天皇の父で天智天皇の祖父にもあたる人物で、現天皇はその直系の子孫になる。

 しかしここでよく考えてもらいたい。前後の状況から考えて、この時期守屋がもっとも対立し敵対視していたのは蘇我馬子だったはずである。中臣勝海はその守屋を助けるために像を作り、呪詛したのになぜ肝心の蘇我馬子の像がこの中に無いのであろうか。これでは中臣勝海は守屋を助けることにはならないのではないだろうか。

 この後、中臣勝海は事の成りがたいのを悟り、守屋を裏切って彦人大兄に帰服し、彦人大兄の水派宮に行くが中臣勝海が宮から退出したところを彦人大兄の舎人の迹見赤檮に斬殺されてしまう。舎人というのは皇族や貴族に仕え、警備や雑用などを担っていた人達のことであるから、中臣勝海は彦人大兄の命で迹見赤檮に殺されたと見てよいだろう。帰服してきた相手を許さずに殺してしまったところに彦人大兄の性格が窺い知れる。ちなみに『聖徳太子伝暦』では、この迹見赤檮は馬子の命を受けていたと記している。

 5月、守屋は穴穂部皇子を独自に天皇に擁立しようと画策するが、謀が漏れ、馬子は先手を打って穴穂部皇子を殺害してしまった。
 その2ヶ月後、馬子は遂に守屋の討伐(丁未の役)に乗り出す。馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、廐戸皇子、難波皇子、春日皇子の皇子達と一緒になって軍勢を率い戦うのだがこの中には彦人大兄の名前はない。しかも彦人大兄の名前はありませんよとばかりに馬子側に付いた皇子の名前をこのときに限ってすべて列挙している。

 しかも面白いことに彦人大兄の名前はなくともその舎人の迹見赤檮はこの戦いに参加していている。彼はなかなか剛の者だったらしく、守屋とその子を弓で射殺すという大活躍をし、戦後馬子から恩賞を賜わっている。
 そしてこの後、彦人大兄は記録の上からその姿を消す。没年の記載すらない。戦いの前後に病死したか、あるいは馬子に殺されたという説があるがもちろんそのような記録はない。彦人大兄の子の舒明天皇はこの戦いから6年後の推古天皇元年(593)の生まれといわれているからこのころまでは生存していたと思われる。

 このあたりの「日本書紀」の押坂彦人大兄皇子に関する記述は何とも矛盾に満ちている。しかし一つだけこの矛盾を解消する方法がある。それは押坂彦人大兄皇子を蘇我馬子と同一人物と見なすことである。すなわち押坂彦人大兄皇子の名を蘇我馬子の別名と考えるのである。そうすれば「日本書紀」の記述の矛盾は見事に解消されるはずである。前述の『聖徳太子伝暦』の記述はそのことを示唆している。

 しかしそうだとするとなぜ「日本書紀」に押坂彦人大兄皇子と蘇我馬子が使い分けられ、その結果として押坂彦人大兄皇子に疑惑を生じさせるような記述がなされたかであるが、私はそこに何とかして歴史の真実を残したいという編纂者の意図を感ぜざるを得ないのである。