高松塚、キトラ古墳の被葬者


 1972年(昭和47年)3月21日、奈良県明日香村で関西大学と龍谷大学の研究者・学生達によって鮮やかに彩色された壁画を持つ古墳が発見された。高松塚古墳である。この古墳の発見は大きな話題となり、明日香ブーム、考古学ブームを全国的に巻き起こしたことはよく知られている。発見から2年後には早くも国宝に指定されている。

 
           高松塚古墳 石室が解体された後復元された姿

 墓であるから当然その被葬者が誰かと言うことに大きな注目が集まり、様々な議論がなされてきた。その被葬者の候補は忍壁皇子、石上麻呂など10人近いと思われるが、どの候補も決定な証拠に欠け、発見から35年も経つのに未だに意見の一致を見ていない。

 キトラ古墳は1983年11月7日、石室内に玄武の彩色壁画が発見され、高松塚古墳に続く壁画古墳として大きな注目を集めた古墳である。円墳という古墳の形や天文図や四神が描かれた壁画が残されているという類似点から、高松塚古墳と兄弟古墳としてよく比較の対象とされる。この古墳も誰が被葬者か議論になったが高松塚古墳より小型であること、残された遺物の内容から高松塚古墳より身分の低い人物が被葬者として推定されるいるだけでほとんどわかっていない。

 しかし墓誌はないものの被葬者を推定する材料が数多く揃っていて、しかも「日本書紀」「続日本紀」という同時代のりっぱな文献が存在するにもかかわらず被葬者の推定がこれほど混迷していること自体が異常なことと言っていい。これだけ条件が揃っていて被葬者の名前が出てこないのなら、推定の根拠になっている「日本書紀」「続日本紀」の方がおかしいのではないかと一度は考えてみるべきだろう。

 ところで「大国主伝」のなかで主張しているように私は天武天皇は蘇我入鹿の子であると考えている。もしそうだとするとこの二つの古墳には被葬者候補として新たに2人の名前を挙げることができるようになる。乙巳の変において中大兄皇子達に暗殺された蘇我蝦夷と蘇我入鹿の親子である。そこで両古墳は壬申の乱の後、天武天皇によって築かれた2人の墓だとするのが私の説であるが、このことが考古学的な見地から可能かどうか検証してみたい。

立地条件

 高松塚古墳は奈良県明日香村平田地区にあり、高松塚古墳から約七百メートル北方に天武、持統天皇陵(檜隈大内陵)があり、約二百メートル北方に真の文武天皇陵ではないかと言われる中尾山古墳がある。キトラ古墳は高松塚古墳の南方に約千百メートルの位置にあり、これらの古墳はほぼ南北に連なっている。いわゆる『聖なるライン』である。

 
                  天武、持統天皇陵

 天武、持統天皇陵の檜隈大内陵の名からわかるようにこの辺りは飛鳥時代、檜隈と呼ばれていて現在でも明日香村桧前と呼ばれている。ここには於美阿志神社とよばれる古社がある。場所は高松塚古墳とキトラ古墳のちょうど中間あたりである。於美阿志神社の祭神は東漢一族の祖の阿知使主で、社名の於美阿志は「使主阿知」が転化したものといわれている。このことからこの近辺は渡来系氏族の東漢氏の一族が多く居住していた地域だったとされている。

 古墳の被葬者を考えるとき最も重要なことはその古墳が築かれた時代にその場所はどのような人たちが住み、どのようなことがあった所かということである。この時代、被葬者に全く縁もゆかりも無いところに墓が造られるということはまずありえない。亡命者の百済王善光や物部一族の石上朝臣麻呂の墓がこのような場所に築かれるということはまず考えられないことであろう。

 天武天皇陵がこのような場所に存在するのは天武天皇と東漢氏が深い関係にあったからである。蘇我入鹿が殺害された後、残された蝦夷を守るために東漢氏が武装して集まってきたことからわかるように、東漢氏は蘇我宗本家の配下といっていい一族で、このことからでも天武天皇が蘇我宗本家につながる人物であることがわかる。同様に高松塚古墳、キトラ古墳の被葬者も蘇我宗本家につながる人物と考えてよい

大陵、小陵

 高松塚古墳は下段部の直径が23m、上段部の直径17.7mの二段築成の円墳で、墳丘は土を層状に突き固めた版築(ばんちく)というたいへん丁寧な工法で築かれていた。キトラ古墳は上段部が直径9.4m、下段部が直径13.8mの二段築成の同じく版築工法で築かれた円墳である。両古墳とも墳形と工法は同一で異なるのはその大きさだけである。高松塚古墳、キトラ古墳とほぼ同時期のよく似た古墳にマルコ山古墳がある。マルコ山古墳は対角長約24mの二段築成の同じく版築工法で築かれた六角墳だが石室には漆喰は塗られていたものの壁画は描かれていなかった。

 キトラ古墳は石室の内容ではマルコ山古墳より立派なのだから墳丘の直系もマルコ山古墳並に24mぐらいあってもおかしくはない。高松塚古墳、キトラ古墳は実によく似た古墳なのにキトラ古墳が13.8mでしかないのは、この古墳が高松塚古墳より意識的に小さく作られていると考えることはできないだろうか。

 「日本書紀」には蘇我蝦夷、入鹿は生前に双墓を今来に造り、蝦夷の墓は大陵、入鹿の墓は小陵と呼ばれていたと記されているが、高松塚古墳、キトラ古墳はこの大陵、小陵に相通じるものがある。

天文図

 石槨の天井には天文図が描かれていた。天文図とはいえ高松塚古墳の場合は政治的にかなり様式化された図柄となっている。天井の中央、約1mの範囲内に径0.9cmほどの金箔を張り付け、それぞれを赤い線で結ばれて表現されていたその星座の内容は次のようなものである。まず中央に「天極五星」と「四補四星」が描かれている。

 天極五星とは「天の中心の星」とそれに連なる「後宮の星」、「庶子の星」、「天帝の星」、「皇子の星」の四つである。「四補四星」は天帝を補佐する星と言われている。これらの星を紫微垣の星といい、宮中を表現するものとされている。これら紫微垣の星を中心にその周りに東方七宿、西方七宿、南方七宿、北方七宿の二十八宿が描かれていたのである。

     
             高松塚古墳星宿図 高松塚壁画館パンフレットより

 古代の中国では天は地上を反映し、地上は天を反映したものと考えられていた。すなわちこれらの星々は天帝による全天の支配を表現し、それはまた地上における帝王を中心とした国の支配体制を意味しているのである。したがってこのような天文図が石室の天井に描かれていた高松塚古墳の被葬者は国を支配していたような人物と考えてよいであろう。

 またキトラ古墳には天井に赤道、黄道も書き込まれた極めて精密な天文図が描かれていて、本格的な天文図としては世界最古のものと言われている。石室内に天文図が描かれた古墳は日本では他に例がないし、このころの時代の遺物として天文図も存在していない。従って高松塚古墳、キトラ古墳を築造した人物は天文に関して極めて高い関心と知識を持った人物と見て間違いないだろう。

 この時代天文に関心を持っていた人物として天武天皇を挙げないわけにはいかないだろう。
『日本書紀』の天武天皇の巻の最初に「天文、遁甲を良くした」との記載があり、天武天皇4年(676)1月5日には初めて占星台を作ったとの記録が残っている。この時代、天文とは占星術のことを意味している。また壬申の乱において天武天皇は東国へ脱出する途中、天を見て、最後には自分が天下を得るだろうと占っている。

 キトラ古墳のような正確な天文図を石室の天井に描くというような発想は天武天皇にふさわしい発想である。というより天武天皇以外このような発想は持ち得なかったのではないだろうか。

四神図

 高松塚古墳の石室の北壁の中央には玄武が、東壁の中央には青龍が、そして西壁の中央に白虎が描かれていた。南壁には朱雀が描かれていたはずだが盗掘の影響で消失していた。ただしキトラ古墳の南壁には朱雀も存在していた。また青龍の上方には日像が、白虎の上方には月像が描かれていた。

 この「日像、月像」、「四神像」については『続日本紀』の大宝元年(701)正月の条に次のような注目すべき記載がある。

 「天皇は大極殿に出御して官人の朝賀を受けられた。その儀の様子は正門には鳥形の幢を立て、左には日像、青龍、朱雀の幡を立て、右には月像、白虎の幡を立て、蕃夷の国の使者が左右に分かれて並んだ。こうして文物の儀がここにおいて整備された」

 これは高松塚古墳、キトラ古墳の「日像、月像」、「四神像」の壁画の配置とよく似ている。「四神像」は周から漢にかけて儒学者がまとめた礼に関する書である「礼記」に基づき、天帝の守護神とされていて、単なる守り神というわけではない。

 この時代の「四神像」の例として有名なものに薬師寺の「四神像」がある。薬師寺は天武天皇八年(六八〇)に天武天皇が皇后の病気平癒を祈願して建立された寺だが、その本尊の薬師如来の台座に「四神像」の彫刻が施されている。

 
            薬師三尊像の台座に彫られた朱雀

 薬師寺には数多くの仏像があるが「四神像」があるのは薬師寺の本尊の薬師如来のみで他の仏像には存在しない。四神像は中心にあるものを守っている。それがこの時代の「四神像」に対する認識なのである。
 そして薬師如来の、向かって右に日光菩薩、向かって左に月光菩薩の「日」と「月」が祀られていて、これはまさに高松塚古墳に通じている。

 この「四神像」も天文図同様、国を支配していたような人物でなければ描くことができないような壁画と考えられる。飛鳥時代国を支配していたような人物といえば天皇かあるいは大和朝廷を牛耳り、事実上日本の支配者であった蘇我馬子、蝦夷、入鹿の三人に限られる。天皇の墓は他に比定されているし、円墳という墳形からしても天皇の墓とは考えられないし、蘇我馬子はこれまでに述べているように牧野古墳が有力である。

被葬者の年齢

 高松塚古墳の被葬者の年齢は熟年者(40〜60歳)あるいはそれ以上と推定されている。キトラ古墳の被葬者の年齢は熟年者と見られている。一方蘇我入鹿の年齢は皇極天皇が 斉明天皇6年(661)に崩御し、その時の年齢は67歳だったと見られているから乙巳の変(645)の時には51歳ぐらいになる。

 蘇我入鹿が皇極天皇の前夫だったとすると入鹿はおそらく50〜60歳ぐらいだったのではないだろうか。入鹿の父の蝦夷は70〜80、あるいはそれ以上と考えられる。これは高松塚古墳、キトラ古墳の被葬者の遺骨の鑑定結果とはほぼ一致する。

他の被葬者説批判

弓削皇子説(梅原猛等の説)
 天武天皇の皇子で母は天智天皇の皇女の大江皇女である。血統的には申し分のない人物だが没年齢は30歳前後だったと思われ、被葬者の推定年齢と合わない。その経歴も吉野の盟約にも不参加で、高市皇子没後の後継者を巡る会議で異議を唱えようとして、葛野王に叱責されたことぐらいの事跡しか残していない。

高市皇子説(原田大六、河上邦彦、豊田有恒等の説)
 天武天皇の皇子(長男)で、壬申の乱では父に代わって軍事の全権を委ねられた。大津皇子、草壁皇子の亡き後太政大臣に任命され、皇族・臣下の筆頭として持統政権を支えた。経歴は申し分なく、没年齢も45歳ぐらいだったと思われ鑑定結果より少し若いがほぼ問題ないであろう。しかしその墓が延喜式に記載され「三立岡墓、大和国広瀬群(現在の奈良県広陵町)」となっているのがこの説にとって問題である。延喜式に記された墓の比定が誤りであれば有力であるが、その誤りを証明することは難しいだろう。

石上麻呂説(岡本健一、白石太一郎等の説)
 石上麻呂の没年齢は77歳ぐらいと思われ、左大臣まで努めていたから没年齢、経歴については申し分ない。最近有力視されている説である。しかし彼は天武天皇の皇子や血縁者ではないし、物部氏の長だったから蘇我氏と関係の深い東漢氏の盤踞する檜隈にその墓を築いたと考えるのは無理がある。墓を築くなら大和国山辺郡、今の天理市のあたりだろう。

百済王禅光説(千田稔等の説)
 百済王禅光は日本に亡命した百済王族であるが、持統天皇より百済王(くだらのこにきし)の氏姓を賜り、その臣下となった。壁画は王にふさわしい物であるが日本での立場は天皇の臣下であった。石上麻呂同様、天武天皇の血縁者でもなく被葬者と考えるには無理がある。墓を作るとすれば百済王の一族が住んでいた難波か北河内周辺だろう。
 
天武天皇説(小林恵子等の説)
 没年齢、壁画の内容共に申し分ないが、天武天皇の陵は現在比定されている檜隈大内陵でほぼ間違いないとされている。鎌倉時代に盗掘され、このときの調査記録『阿不幾及山陵記』や藤原定家の『明月記』に石室内部に関する記録が残されていてその内容が『日本書紀』と一致するからである。また高松塚古墳から出土した太刀の金具は銀装であった。天皇なら金装と考えられている。従って天武天皇の可能性はないだろう。
 
忍壁皇子説(直木孝次郎、猪熊兼勝、王仲珠等の説)
 高松塚古墳の発見直後から最も有力視されてきた人物である。壬申の乱に父の天武天皇に吉野から従っているところからその没年齢は40代中頃と見られている。高市皇子の没後は天武天皇の皇子の最年長で知太政官事(太政大臣)に就任しているから経歴もまずまずだが母の身分は低いし、次ぎに述べる束明神古墳との関連からも忍壁皇子の墓とは考えにくい。

束明神古墳について 

 真弓丘丘陵の東南端、春日神社の境内に束明神古墳と呼ばれる終末期古墳があり、昭和59年に発掘調査された。束明神古墳は対角線の長さが30mの八角形墳で石室も長さ3.1m、幅2m、高さ2.5mと七世紀末の古墳としてはかなり大規模な古墳で、この古墳が草壁皇子の墓であることは被葬者の年齢、地元の伝承等からもかなり確実とされている。 

 もしそうだとするとこの束明神古墳は高松塚、キトラ古墳の被葬者を考える上でよい基準になる。草壁皇子は天武天皇と持統天皇の間にできたただ一人の子である。従って母は持統天皇である。また持統天皇の次ぎに即位した文武天皇は草壁皇子の子である。しかし文武天皇は若くして崩御してしまいその後に即位したのは文武天皇の母で草壁皇子の后であった元明天皇である。その元明天皇の後を次いで天皇に即位したのは草壁皇子と元明天皇の娘の元正天皇であった。

 すなわち持統天皇が即位した686年から元明天皇が退位した724年まで、この間に即位していた天皇は草壁皇子の母、妻、子といった肉親達ばかりであった。

 前述したように草壁皇子の墓と見られる束明神古墳には壁画はおろか漆喰さえ塗られてはいなかった。しかも天武天皇陵からの距離も高松塚、キトラ古墳より離れている。さらに両古墳は天武天皇陵とほぼ南北に連なるのに対し束明神古墳はかなり西に外れている。

 ここで少し考えてもらいたい。草壁皇子は天武天皇の皇子としては最高位にあった。たとえ天武天皇の皇子であったとしても草壁皇子より序列が下位の皇子が草壁皇子より立派な石室に、しかも天武天皇に近い位置に葬られるということが草壁皇子の母、妻、子といった肉親達ばかりが天皇に即位していたというような状況の下ではたして許されるであろうか。とても許されることではないだろう。

 現に草壁皇子に次ぐ立場の高市皇子の墓が広陵町に築かれていることはこのことを示唆している。まして臣下となればなおさらあり得ない。やはり高松塚、キトラ古墳は持統朝以降ではなく天武朝において天武天皇によって築かれたと考えるのが妥当なのではないだろうか。

 以上のことから高松塚古墳を蘇我蝦夷、キトラ古墳を蘇我入鹿の墓と考えることにほとんど問題はないと私は考えているがどうであろうか。

菖蒲池古墳の被葬者

 また天武天皇を蘇我入鹿の子と考えると菖蒲池古墳の被葬者も推定が可能になる。菖蒲池古墳は墳丘の形状、規模とも不明であるが石室内に納められた2基の刳貫式家型石棺は普通の家型石棺と異なり、蓋石には縄掛突起が付かず石棺の表面には柱や梁が浮彫りされた極めて精巧な作りでしかも内部には黒漆が塗られていた。

 被葬者はまったく不明だが6世紀後半に活躍した極めて有力な人物と見られている。天武天皇が自らの墓を菖蒲池古墳の南に築いた所から見て天武天皇以前の蘇我氏の有力者、馬子、蝦夷、入鹿の墓ではないから馬子の父、蘇我稲目の墓ではないかと私は考えている。ちなみに京都市山科区にある天智天皇陵は驚くほどの正確さで菖蒲池古墳の真北にある。

 すなわち菖蒲池古墳古墳から高松塚古墳までの聖なるラインに沿って南北に連なる古墳は蘇我宗本家の当主達の墓で、これを取り囲むようにして当主以外の蘇我宗本家の有力者や蘇我系の天皇や皇族の墓が配置されていると考えられるのである。