天皇制の成立と古事記


 「日本神話とその配役達」でおわかりいただけるように神話の多くは天武天皇の体験や見聞を基にして創作されたものであり、また人代の説話の多くも同様の創作が含まれていることは「大国主伝」で述べてきたとおりである。

 このことは『古事記』の「序」が語るように『古事記』が我が国に古くから伝わっていた歴史や伝承等を書き残した歴史書ではないことを物語っている。またその「序」自体も偽書であることは「大国主伝」で論証した。
 
 ではいかなる目的で天武天皇のもと、国家の手によって『古事記』という疑似歴史書ともいうべきものがつくられたのであろうか。あるいは『古事記』を使って天武天皇は何をしようとしたのだろうか。

 中央集権による統一国家が成立する前、すなわち飛鳥時代以前において、倭国は父系の祖先を同じくする血縁集団である氏族によって構成されていた。そして各々の氏族はそれぞれが信仰する神々やその物語、氏族の歴史を持っていた。

 すなわち、倭国は多民族国家のような国だったと言ってもよい。そしてそれぞれの氏族を支配していたのが氏族の長である豪族で、その中で最も大きな豪族である大王家が倭国を支配していたのである。

 このような国家の仕組みは江戸時代の幕藩体制を考えてみればよく理解できる。
 江戸時代は大名が支配する各藩を最大最強の大名である徳川家が統率することによって日本全体を間接的に支配していた。

 しかしそのような国家体制では国内はなんとか統治することができても、外国からの脅威に対しては決して理想的な国家体制ではなかった。アジアで力を伸ばしてきた欧米列強に対抗するため、さらに強力な国家体制である中央集権国家を目指したのが明治維新である。
 そしてその中心とされたのが天皇であった。

 飛鳥時代、倭国も同じような状況下にあった。朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅の三国の間で勢力争いが激化し、その朝鮮半島の支配を中国に誕生した隋、唐の大国が狙っていたのである。

 このような国を取り巻く状況は我が国に大変な危機感をもたらしたことは間違いない。そこでこのような状況に対応するため隋、唐の国家体制にならって、天皇を中心とした強力な中央集権国家(律令体制)を我が国が目指したのは当然の成り行きであった。

 そのような国家を実現するため推古天皇の時代、蘇我馬子や聖徳太子によって、あるいは大化改新以降、天智天皇達によって法律、制度が次々に整備されていったのはよく知られたとおりである。
 しかし、法律、制度は整備されても人々の考え方まで変わったわけではなかった。

 『日本書紀』は大化三年(六四七)に七種十三階の新冠位を制定したにもかかわらず、左右の両大臣は古冠をそのまま用いたと伝えている。天皇の権威は低く、改革もけっして十分とはいえなかったのである。
 そのことを露呈したのが壬申の乱である。

 東国に脱出した大海人皇子は大和の大伴氏や東国の尾張氏などの従来の氏族関係に頼って多くの兵を集めることに成功したのに対し、近江朝廷側は大化の改新以降新しく整備された制度に基づいて兵を集めようとして失敗、大海人皇子軍にあえなく敗れ去った。
 壬申の乱の翌年天皇に即位した天武天皇は天皇および朝廷の権威の強化を痛感したのではないだろうか。

 天皇の権威を高め、天皇を中心とした強力な中央集権国家を成立させるためには、人々の氏族中心の考え方を天皇中心に変える必要がある。
 そのため各氏族が持っていたであろう神話や歴史を、天皇を中心とした神話、歴史に統一するために、中央において新しく天皇中心の歴史書が編纂されたということは想像に難くない。

 このような目的だからその内容は必ずしも史実に基づく必要はない。天武天皇の体験をもとにしてつくった作り話があっても構わなかったのである。
 しかし、そのような歴史書が出来たとしても、それだけで天皇の権威が確立するわけではない。

 その歴史書が中央だけに置かれたり、その内容を知っているのが官僚などの一部の人たちに限られ、その他の多くの人たちは以前の氏族ごとの神話や歴史のままというのではお話にならない。

 強力な中央集権国家を実現するためには、その中心となる天皇の権威を高めるために、国中のすべての人々に新しく編纂された神話や国の歴史を広め、そしてそのことは周知徹底しなければならなかっただろう。すなわち国民教化の必要があったのである。もっとわかりやすくいうと国民に対する歴史教育だ。

 国家を方向付けようと思えば国民に対する歴史教育が最も重要かつ有効であることは今も昔も変わりがないのである。
 では、どのような手段を用いて天武天皇は人々に新しく編纂された神話や歴史を人々に広めたのであろうか。

 飛鳥時代には当然学校などはない。ましてやテレビやラジオなどあるわけがない。ごく一部の人以外は文字の読み書きすらできなかっただろう。その手段は「口述」に限られるはずである。
 すなわち「だれかが人々に語って聞かせる」だ。

 もっとも語って聞かせるといっても棒読みのような語り方ではだれも話を聞いてはくれない。下手な語り手に聞かされる話ほど退屈なものはない。言葉を自在にあやつり、聞く人たちの関心を引きつけ、納得させられるだけの技量が必要だったと思われる。

 ではどのような人たちにこのような仕事をさせればよいのであろうか。
 まず中央の官僚達を使うということが考えられるが、この時代、律令体制成立に向けて、官僚達には他にやらなければならないことも多く、とてもこのようなことに手が回らなかっただろうし、彼らがこのような仕事に向いているとも思えない。
 
 天武天皇は誰を使ったのであろうか。
 天武天皇は「芸能者」を使ったのである。

 『日本書紀』の天武天皇四年(六七五)二月九日条にこのような記述がある。

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 大倭、河内、摂津,山背、播磨、淡路、丹波、但馬、近江、若狭、伊勢、美濃、尾張の国に勅して、「所管の百姓の中から歌の上手な男女、及び侏儒(道化)、伎人(俳優)を選んでたてまつれ」といわれた。
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 この記述は大変重要である。
 天武天皇は大和近隣の諸国から大量の芸能者を中央に集めている。なぜ、これほど大量の芸能者を必要としたのであろうか。まさか天武天皇は自らの即位を祝して大演芸大会を企画したという訳ではあるまい。

 天武天皇は芸能者達を使って人々に話を伝えようとしたのである。
 多くの芸能者を中央に集めて訓練し、その後訓練された芸能者達を地方に派遣し、人々に新しく編纂された神話や国の歴史を広めようとしたのである。

 当然、このような芸能者を使った事業には「台本」が付き物である。「台本」なしでは芸能者達を訓練することも、あれだけの分量の話を語る事もできないだろう。
 しっかりした「台本」が必要だったと思われる。

 その「台本」こそが『古事記』だったのではないだろうか。

 『日本書紀』と『古事記』がほぼ同時代の歴史を記した書物でありながら、その性格に大きな違いがあるのはここに起因する。
 『日本書紀』はほぼ正規の漢文で書かれている。『日本書紀』は国の正式な歴史書で、主に皇族、貴族や官僚達を啓蒙するために作られている。したがって漢文を理解できる官僚達が読んで内容を理解することができればそれでよい。

 しかし「台本」の『古事記』はそうはいかない。話を一般の人たちに語って聞かせるのが目的だから普段の話し言葉に出来るだけ近い形で書かれている必要がある。
 そのため『古事記』は漢文で書かれてはいるが正式な漢文で書かれてはいない。文脈が和風化された変体漢文という特殊な文体で書かれている。

 これは短句ごとに読みを重ねていけば結果として日本語として読めるようになっている。
 すなわち『古事記』は日本語で書かれているのである。
 『古事記』が『日本書紀』のように正式な漢文、すなわち中国語で書かれていたのではいちいち日本語に直さなければならず、これでは「台本」としては使えたものではないのである。

 しかし、だったら中途半端な変体漢文など使わずに「万葉集」や「祝詞」のように一字も違わずに仮名を使って書けばよいではないかという意見もあるはずである。
 現に『古事記』の中の神名や歌謡は漢字の音を用いた、いわゆる万葉仮名で書かれている。
 なるほどこれならほぼ完全な日本語、それこそ大和言葉で書くことができる。

 しかし、ここには『古事記』ならではの事情がある。
 それは地方における方言の存在である。
 『古事記』は日本の各地で使われることが前提となっている。地方に行けば同じものでも呼び方が違っていたり、言い回しが異なっていた。きっちりと大和の言葉で書かれていたのでは大和から遠く離れた地方で『古事記』を使う場合、その地方の言葉に言いなおさなければならずかえって都合が悪い。

 その点漢文は方言に影響されない。その地方の言葉で読んでいけばよいのでたいへん都合がいい。もっとも固有名詞、歌謡などどうしても大和と同じに読んでもらいたい部分は仮名で書かれている。ただしこの部分には注を付けて配慮がされている。

 さらに『古事記』にはその文体に独特のリズムやメロディーがあるということは『古事記』の研究者によって既に指摘されている。これは語りが単調にならないよう、迫力を持たせ、聞きやすくするためであることはいうまでもない。

 また芸能者達は人々に語っただけではない。
 ただ単に話しを語るだけでは聞かされる方は飽きてしまいかねない。バラエティーに富んだ趣向も必要である。そのためにはある時は謡い、踊り、また寸劇等も上演したと思われる。『古事記』に歌謡が多く、また明らかに物まね等の仕草を伴ったと思われるものが存在するのはそのためである。

 八千矛神とスセリビメの神語りの物語をよく読めば、この歌謡には物まね等の仕草が伴っていたことがよくわかると思う。その他の長編の歌謡も何らかの仕草を伴って歌われていたものと思われる。

 『古事記』の対象が主に中央以外の一般の人々であることは神話や説話の内容にも影響している。
 天武天皇が『古事記』を使って、神話や国の歴史を聞かせたいのは中央の貴族や官僚達ではない。中央の王権によって屈服させられ、支配されることになってしまった人たちである。別の言い方をすればそれは「敗者」といってよい。

 そのような人たちが、地方の勢力を倒し、征服した英雄の話や、天皇に忠実な臣下の話、中央の皇族たちや貴族達の華やかな恋物語を聞かされて喜ぶであろうか。喜ぶはずはない。そのような話を喜ぶのは中央の貴族など、「勝者」の側に限られる。

 『古事記』の主要な物語の多くが高天原から追放されたスサノオや、国譲りによって国を奪われた大国主の話のように中央と対立する世界として描かれ、ヤマトタケル、軽皇子やオケ、ヲケの話のように中央と対立し、疎外されて死んでいく皇子の話、皇室の内紛話として描かれているのはそのためだろう。

 梅原猛氏がその著書『古事記』の中で述べたように「『古事記』は敗者を語るとき筆は冴えるが、勝者を語るとき筆は冴えない」結果になっているのである。

 『古事記』は決して上品な書ではなく、猥雑な表現が多いのも同様の理由からである。
 とにかく『古事記』は話を聞かされるものにとって不愉快な内容であってはならない。楽しめる内容でなければならないのである。いまでも「日本書紀」より「古事記」の方が読んでいてはるかに面白い。

 また、芸能者達が人々との接触をスムーズに図るために中央から様々なこと、例えば医療、農業などの技術、あるいは新田開発、温泉開発などの国土開発等が伴っていたのではないかと筆者は考えている。

 おそらく医療指導や農業指導の名目で人々を集め、それらの活動の途中、あるいは終了後に芸能者達は人々に話を聞かせたのではないだろうか。
 芸能者達はある時は語り、歌い、またある時は勇壮に、あるいはコミカルな仕草で踊り、寸劇を演じたことだろう。

 人々は芸能者達の演じる、初めて聞くような神々の物語に驚き、英雄達の冒険物語に喝采、また涙し、そして天皇家の内紛話に興味深く耳を傾けたに違いない。中にはその芸達者ぶりに観衆から大喝采を浴びる芸能者もいたことだろう。

 また天武天皇は後にこのようにも命じている。
 天武天皇十四年(六八六)九月十五日条には

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 およそすべての歌男、歌女、笛を吹く者は自分の技術を子孫に伝え、歌や笛をならわせよ。
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 このような活動は一回限りではなく長期間に渡って行われていたようだ。
 芸能者達によって国中に伝えられた『古事記』はその地方の風習や伝承と結び付き、神楽などの郷土芸能、あるいは昔話となり、わが国の古代文学、芸能の源ともなっていったと思われる。

 『古事記』を通読された方はその話の中に日本の昔話と同形の話が多いのにすぐ気づくだろう。また日本の古代文学、古典芸能にいわゆる貴種流離譚(出自の高貴な主人公が、多くの試練を克服して、尊い地位に到達するという物語。日本の文学や芸能では重要なモチーフになっている。またこれは天武天皇の生涯そのものでもある)が多いのも『古事記』の影響と考えられる。

 そして人々を楽しませる一方で、『古事記』は全体として神代に続く万世一系の天皇家の系譜を語り、各氏族の先祖が天皇家や神々に繋がっていることを神話や説話の中で説明している。

 その内容が事実であるかどうかはともかく、これによってこの国が天皇を長とする一大同族国家であったことを『古事記』は主張し、天武天皇が目指す天皇を頂点とする中央集権国家の根拠を人々に示しているのである。

 これこそが『古事記』の真の目的であると筆者は考えている。

 また『古事記』の内容に基づき、次々に『古事記』に登場する大国主神を中心とする神々を祀る神社が全国的に創建された。大国主神が全国的に祀られているのはこのためだろう。
 さらに神社だけでなく寺院もこの時期、全国的に建てられている。全国の寺院、神社の創建はこの時期に集中している。寺院、神社の建設は全国に優れた土木、建築技術、あるいは文字を普及させることにも繋がったと思われる。

 また日本最初の貨幣「富本銭」が鋳造され、それまでの物々交換から大きな経済上の変化が起きたのもこの天武天皇の時代であった。国家の規模が大きくなり、さらに経済活動が盛んになってくると、もはや従来の現物支給や物々交換では対応できなくなってきたのである。

 これらの政策は天武天皇によって強力に押し進められ、天武天皇の崩御後も事業は皇后の持統天皇にそのまま引き継がれる。
 このようなさまざまな事業により人々の生活水準は向上し、産業が振興されて国力が飛躍的に増大するとともに、天皇の権威は飛躍的に強化され、日本は天皇を中心とした一つの民族からなる国家として統一されていった。

 その後、これらの政策が功を奏し、日本初の都城である藤原京の造営(六九四年完成)、大宝元年(七〇一)の律令政治の基本法である大宝律令の制定、『日本書紀』の完成(七二〇年)、すなわち強力な中央集権国家の完成となって実を結び、奈良時代以降現在に至る、日本の国の基礎が築かれることとなったのである。

 しかし国作りに尽力した多くの芸能者達の名前は誰一人として書き記されることはなかったし、彼らの活躍も一切書き残されることはなかった。『古事記』から偲ぶのみである。

*上記の文はほぼ全文を「大国主伝」より抜粋したものである。