天武天皇が蘇我入鹿の子であることの実証


 私が天武天皇を蘇我入鹿の子と考えるのは大国主が天武天皇、スサノヲを蘇我馬子と考え大国主、スサノヲが直系の関係にあることからの類推であるが、天武天皇が入鹿の子である、すなわち蘇我宗本家に位置する人物であることは「日本書紀」などからの記述からも伺えるので次に列挙してみたい。

1、壬申の乱において天智天皇からの譲位を断り、近江から出て大海子皇子が向かったのは飛鳥であるが、皇子は飛鳥に着くと嶋宮に入っている。また壬申の乱の戦いに勝利し、飛鳥に凱旋したときも嶋宮に入っている。これらのことから嶋宮は飛鳥における大海人皇子の居宅であったことがわかるが、この嶋宮は元は蘇我馬子の旧宅であったといわれている。大海人皇子は馬子の嫡流であったからこそ嶋宮を自らの居宅としていたと考えられる。

2、吉野を脱出した大海人皇子には多くの舎人が随伴していたがその多くは東漢氏の一族であった。しかも皇子の手足となって重要な役割を果たしていた。また乱において東漢氏の多くは大海人側につき奮戦している。これらのことから天武天皇と東漢氏は特別な関係にあったと坂本太郎氏や大和岩雄氏は主張している。乙巳の変において入鹿が殺された後、残された蝦夷を守るため東漢氏が武装して集まってきたことからわかるように東漢氏は蘇我宗本家の配下の氏族であった。
天武天皇と東漢氏が特別な関係にあったのは天武天皇が蘇我宗本家に位置する人物と考えればわかり易いであろう。

3、吉野を脱出し東国に向かった大海人皇子たちを中心になって迎え入れ、支援したのは東国の尾張氏といわれている。甘樫丘(あまかしのおか)にあった蘇我蝦夷や入鹿の邸宅を警護していたのは東国の兵たちであった。また宣化天皇の那津整備の詔によれば、皇室・物部氏・阿倍氏は同族の物に穀を運ばせているのに対し、 蘇我稲目は尾張氏を遣わしてそれを行っている。これらのことから尾張氏と蘇我宗本家は主従関係にあったと見られている。尾張氏が大海人皇子を支援したのは皇子が蘇我宗本家の人物だったからである。

4、推古天皇が即位したのは蘇我馬子の強い意向だったといわれている。また推古の死後、その後継者を選ぶ際に当初、蝦夷が一人で決めようとしていたとの記述が「日本書紀」にあるように蘇我宗本家は皇位継承の決定権を持っていた。
中大兄皇子が27年間も皇太子のままで即位しなかったのも弟の大海人皇子の存在が障害になっていたと考えられる。大海人皇子は父の敵が即位することをそう簡単には承認する気にはならなかったのである。中大兄は即位したくとも蘇我宗本家の大海人皇子が皇位継承の決定権を持っていたため即位することができなかったのである。大海人皇子が皇位継承の決定権を持っていたことは乱の直前の近江宮における天智天皇と大海人皇子の会話からも伺い知ることができる。

 天智天皇からの譲位の申し出を断った大海人皇子は皇后を即位させ、大友皇子を太子として政治の実務を行うように進言している。大友皇子は皇太子だったから大海人皇子が即位しないのなら大友皇子が即位するのが当然で、このようなことを譲位を断り、吉野に出家することを決めていて、しかも弟の立場であるはずの大海人皇子が言い出すのは異例のことである。蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変の時、天智天皇の兄の古人大兄皇子も即位を断り、吉野に出家したがこのようなことは言わなかった。天智天皇にしてみれば大きなお世話というしかないが、弟の大海人皇子が天智天皇に向かってこのようなことを言えたのは大海人皇子が蘇我宗本家として皇位継承の決定権を持っていたからと考えられる。

5、高松塚古墳、キトラ古墳の被葬者は様々な人物が取り沙汰され、その議論は錯綜した状態にあるが「日本書紀」の記述どおりに天武天皇を天智天皇の実の弟、舒明天皇の子として考えたのではその被葬者の名前は絶対に出てこない。
なぜなら束明神古墳の被葬者は草壁皇子であることはかなり確実とされているが、その墓には壁画はおろか、漆喰も塗られてはいなかった。しかもその位置は高松塚古墳に比べて天武天皇稜よりかなり離れた位置にある。

 皇子は天武天皇と持統天皇の子であるが、持統天皇の次に即位した文武天皇は皇子の子、次に即位した元明天皇は妻、次に即位した元正天皇は文武天皇同様草壁皇子の子である。つまり天武から元正までの間に即位していた天皇はすべて草壁皇子の家族である。草壁の皇子より序列が下位の皇子や臣下が草壁の皇子より立派な墓でしかも天武の墓により近い位置に葬られるというようなことが許されるとは考えられない。現に壬申の乱の功労者で大津皇子、草壁皇子に次ぐ高い序列の皇子であった高市皇子の墓は明日香から遠く離れた広陵町にあったと文献には残されている。

 また高松塚古墳、キトラ古墳に描かれた四神図や星宿図は帝王の墓に描かれてこそ意味のある壁画であり、国を支配していたような人物の墓でなければ描けないような壁画である。序列の低い皇子や臣下の墓に描けるような壁画ではない。
 天武天皇を天智天皇の実の弟と考えたのでは被葬者に該当するような人物はまったく見当たらないのである。

 しかし天武天皇を蘇我入鹿の子と考えれば高松塚古墳、キトラ古墳は壬申の乱の後、天武天皇によって築かれた蘇我蝦夷、蘇我入鹿の改装墓と考えることができる。二人は朝廷を牛耳り事実上倭国の支配者であったから四神図や星宿図が描かれていても不思議ではない。天武天皇の祖父と父であったならその墓が天武天皇の近くにあって当然である。また遺骨の鑑定結果からキトラ古墳の被葬者の年齢は熟年、高松塚古墳の被葬者の年齢は熟年以上と推定されているがこれは皇極天皇(蘇我入鹿の妻であったことになる)の年齢から推測される蝦夷、入鹿の年齢とほぼ一致する。